「ぼくが生まれた時、親父はアーカンソー州イレイン近くにミシシッピ・
デルタの畑を借りて、綿を作っていた。デルタの風景はみんなが普段接して
いるものとはまったく違う。だからまず、ぼくが育った頃の南部の農村の
様子から話そう。綿が王様でロックンロールがまだ生まれてまもない頃の
話だ。
そこはバイユーと小川と堤防と水路が続く広くて平坦な世界で、綿と大豆
作りに世界一適した豊かな農地だ。16世紀に初めてスペイン人がやってきた
時、デルタの糸杉の森にはチョクトーやチカソーやナチズといったミシシッピ・
インディアンが住んでいた。彼らは天文学や魔術に関するとても大きな土まん
じゅうを作っていた。ぼくの祖母のドニー・ウェッブはチカソーのインディアン
だった。フィリップス郡の住民の多くと同じように、ぼくにもインディアンの
血が流れている。
想像してみて欲しい。見渡す限り続く綿畑。砂利の道。ピーカンの森。
井戸の小屋。葛のつる。小作人たちの粗末な小屋。土地を借りて耕作する者たち
の農家。水がいっぱいの田んぼ。世界一大きな空。すぐそばにあるミシシッピ川
は、まるで内海のようにまわりとは違う独自の気候だ。夏には気温が木陰でも
華氏110度を超える。綿の土地。ぼくたちは綿作りの農民だった」

「ぼくはいつもドラマーばかりを見ていた。というのもホーンやリズム・
セクションのなかで、ドラムが一番かっこいいと思ったからだ。シンバル
の響きやドラムが弾ける音。それはぼくの心のなかでは土曜日の夜や楽し
い時間と同じ意味を持っていた。
ぼくが好きだったのはルイジアナ州ビロシキからやって来たF.S.ウォル
コット・ラビット・フット・ミンストレルズだった。ロックンロールはど
こから生まれたのか? 人からそう訊かれるとぼくはいつも昔見た南部の
メディソン・ショウやワイルドなミッドナイト・ランブルを思い出すよ」
「金曜の夜が最高に華やかな時間だとすれば、日曜はいつも停滞の時だった。
朝寝をしたり、カジノをやったり、レッド・キャップ・ビールを飲んだり、
テレビを見たりする時だった。その時だけがぼくたちのツアーのなかで、
とても静かで、そして移動していない時間だった。当時結婚したロニー・
ホーキンスはやがて金曜の夜よりも日曜を選ぶようになった」
リヴォン・ヘルム(『ザ・バンド:軌跡』音楽之友社 94年より)

(78年にABCレコードから発売されたソロの2作目。スティックを持つ
ジャケットとは裏腹に、ウィリー・ホールとロジャー・ホウキンズにドラムズ
を委ねている。そんなことひとつひとつにも、リヴォンの広く音楽を見渡す心
を感じてならない)
「どの時点だったかは覚えていないが、ぼくがホークスを抜けている間に
リチャードがドラマーをやっていたことを聞かされた。実際叩かせてみせたら、
それがすごく良かったと聞かされた。ゆったりとドラムを叩き、少しビートから
遅れるがそれがとてもいいのだと。彼は何の訓練も受けていないのにむずかしい
左手の動きをマスターし、ピアノの楽節に似た価値あるフレーズを叩き出した。
それは他の誰も真似出来ないものだった。だからぼくたちはこの曲ではリチャ
ードのほうがいいドラムを叩くから交替しないほうがいいという判断をするよう
になり、バンドには二人のドラマーがいることになった。ステージでリチャードが
ドラムを叩いている時、他の楽器を持たなければいけないのなら、マンドリンが
音楽全体によい影響を与えるだろう。ぼくはそう考えた」

(やはりそういう意味で「トゥ・キングダム・カム」のドラムスはリチャードだろ
う。かくの如く未だに多くの謎解きの発見に満たされた作品。ブラウン・
アルバムに連なる物語歌は「ザ・ウェイト」や「カレドニア・ミッション」くらい
で、むしろ「イン・ア・ステイション」での独白など一人称による歌も多い)
「ビッグピンク・アルバムは68年の7月1日に発売されたが、バンドの名前が
クラッカーズでないことにぼくたちは驚いた。<ザ・バンド>それがぼくたちの
名前だった。それはウッドストックの人たちがぼくたちを呼ぶ時の名だった。
キャピトルのデスクの向こう側の人たちはクラッカーズという名前でレコードを
発売したくないと考え、勝手に名前を変えたのだ! ザ・バンドという名を初めて
聞いた時、ぼくはショックを受けた。それはわざとらしく尊大で、俺様たちは凄い
んだぞと言わんばかりの威張った感じがする。それはぼくたちが付けた名前じゃない。
ぼくはクラッカーズを主張した」
「ジョージ・ハリソンは68年の秋、ウッドストックにやってきた。彼と
エリック・クラプトンが新聞で誉めてくれたことをぼくたちは喜んでいた。
ビートルズからファンだと言われるのは大きな励みになる。ジョージやエリ
ックたちと一緒にレコーディングをしようという話もあった。イギリスの
ミュージシャンとアメリカのミュージシャンが一緒になり、ビールを飲みながら暖炉
のそばで寛ぎながらジャムをする。考えるだけでもゾクゾクするだろ?」
(上記書:原題は"Levon Helm And The Story Of The Band"より)

(言わずと知れた69年の”ブラウン・アルバム”。大分水嶺を超えて旅をする男
が行く先々で出会うのは、安酒場の賑わい、南北戦争の回想、雨乞いをする男、
不誠実な召使い、年老いた船乗りなど。そうした題材が”若さ”を売り物に
するロック音楽のなかから出て来たこと自体が驚きだった。アルバムの最後は
収穫の季節を待ちわびる農夫の祈りで終わっている)
「ぼくとリチャードはホテルの部屋で85年のツアーがとても厳しくて自分たち
がないがしろにされていることを語り合った。リチャードが言うんだ。
『リヴォン、自分がもうだめなんじゃないかと思うことくらい人間を傷付ける
ものはないと思わないか? そういうことを考え始めると大きな穴に入って抜け出
せなくなってしまうんだ』ぼくはリチャードに言った。『おまえの言いたいこと
はわかる。堕ちていくと感じるのも不思議じゃないよ。でもちょっと待ってくれ。
たとえくだらないラウンジのような場所でのプレイでも、自分を試すいい機会だ
と考え直そうよ。楽器をセットして神経を集中し、10数曲を演奏すること。
ボールを抱えてエンドゾーンに倒れ込む少年と同じような喜びを味わえるまで、
何度も何度も試すんだ!』あと数週間でリチャードは43歳になるところだった」
* * *
リヴォンはいろいろな意味で大きく、逞しい人だったと思います。
いつも自分たちをすくっと見渡していて、しかも大樹のように根を張っている。
ドラマーとしての手癖が一番良く解るのはザ・バンドの「クリプル・クリーク」に
「ドント・ドウ・イット」そしてソロになってからの「シング、シング、シング」
辺りかもしれません。カウベルの使い方も上手かったし、シンプルかつ粘っこいビート
を次第にグルーヴさせていく名人でした。そして人懐っこいあのサザーン・ヴォイス。
チャック・ウィルスの「ロックンロール・シューズ」で聞ける明快で抜けるような声
も良かったし、ニューオーリンズの賑わいを伝えるような「オフェリア」も格別でした。
ザ・バンドが解散してからオリジナル曲にこだわらず、より広範のブルーズやR&B
を演奏していったことも、突き詰めて考えれば常に自分たちの音楽がどういう場所
から生まれてきたのかを厳しく見つめ、日々更新していく作業のようだった気が
します。それは喩えれば自分たちが耕した土地を涸らさせまいとする思いにも似ている
のではないでしょうか。
こんなことを書いていても、今はただただ悲しくて仕方ありません。
90年代の再編ザ・バンドを渋谷のクアトロの最前列で観たこと、それもステージ
右端にセットされたリヴォンのドラムスのまえに陣取ったことを、ふと思い出しました。