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聞き手のなかで育つもの

日本に欧米のような優れた音楽ジャーナリズムがあるかどうかは
論議が分かれるところだが 全体の趨勢としてはカタログ志向や
データの充実が進んだ一方で 聞き手がその音楽から受けた感動
を伝えるような文章は以前より少なくなってしまったように思う

いつも言っていることだが 音楽は演奏する側と聞き手とが交信して
こそ初めて成り立つ そのような関係性に思いを馳せれば 聞き手が
イマジネイションを膨らませていくような文章がもっとあっていい
最近はもう書かれていないようだが 鈴木博文さんはそうした意味でも
音楽家としてだけでなく文章家としても優れていた

だいたいあれほど言葉が重要なディランでさえ それを語る自称評論家
連中の文章ときたら 歌詞に触れるどころか知識自慢や公演日データの
羅列ばかりだ そこには少なくとも音楽を聞いて自分をそこに投影させよう
という心の動きは見受けられない そんな意味では初めてディランを聞く
高校生のほうがよほど素直にディランを受け止めているのではないだろうか?

少し話は異なるかもしれないが 北中正和さんが書かれた『ロックが聴こえる
本105ー小説に登場するロック』(シンコーミュージック 1991年)は 本のなか
で挿入される音楽について書き留めた画期的な本だった そこに流れているのは
ロックの英雄伝説に加担するのではなく 普段の生活のなかでロックがどう聞こえ
どう受け止められているか そうした埋もれがちなことに耳を傾けようとする柔らか
な河のようなものだ

この時点でティム オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』を取り上げている
目利きもさすがだが やはりそれ以上に伝わってくるのは音楽も映画も小説も
表現という同じ地平に立っているという当たり前だが忘れられがちな認識である
そして感情を抑えた北中さんらしい文体が かえって読者の想像力を育んでいく
こともありがたい

これがかつて東京新聞に連載されていたという事実にも感銘を受けたりして

マニアの視点はやせ細っていく
しかし音楽の流れそのものに耳を傾ける者は
やがて大河へと辿り着いていくだろう

by obinborn | 2010-10-28 17:45 | rock'n roll | Comments(0)  

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