7月28日

朝日『時評』(28日)での森達也は率直だった

今回の震災に関して彼はこう言う
「自分たちの本質的な冷酷さに、多くの人たちは意識下で気付いてしまった」

そうなのだ 亡き人や残された人を思いつつも 私たちは今日もビールを飲み
飯を食べ 今日のおかずは少し味付けが濃かったね などと言い合うのが
恐らく(ぼくを含めて)一般的な家庭の光景ではないだろうか

森は続ける
「でも冷酷な存在である自分に気付くことは、世界に対してのそれまでの無関心を、
能動へと転換する契機となるかもしれない」

彼が言う”冷酷さ”はむろん自国の震災には相応な反応を示しても
四川やハイチの遥かに規模の大きかった地震には他人事だったことを言い含めている
驚くべきことに他ならぬぼく自身がそうだったのである

恐らく励ましの言葉も善意から生まれる行動もそうした冷酷さや後ろめたさとセット
になっているのだろう
そのことを否定してはいけないと思う
そうした矛盾こそは人という生きものなのだから

さて 卑近な例を少しばかり思い起こしてみよう

この春 お花見の自粛と開催との間で意見が分かれた
ぼくにはそれが不思議でならなかった
たとえ桜の下で酒を飲もうが それを控えようが 晴れない気持ちは誰もが同じだからだ
だからこそ そうした二者択一の発想を貧しく思ったのである

早いハナシ 宴会をしたい気持ちと中止しなければという心情との間を往来するのが
”普通の”人間の正直な感覚ではないだろうか?

原発事故に関しては
21世紀の最初の10年を経て まさか自分が被爆するとは思っていなかった
そう感じている方も少なくないだろう

しかも今回は1945年のように他国によって投下されたものではけっしてなく
私たちが黙認し あるいは安全神話に加担し どこか他人事のように考えていたことへの
あまりに大き過ぎる そして取り返しのつかないツケなのだった

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しなやかなビートが小波となって大波となって打ち寄せる77年に録音された
『サンバの巨匠たち』 
定形や譜割ではないリズムが人懐っこい歌と溶け合っている
右端にいるのが当時67歳前後だったネルソン・カヴァキーニョだ
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by obinborn | 2011-07-29 00:22 | one day i walk | Comments(0)  

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