ミュージシャンへの取材が3度続いたので、今回はやや視点を変えて編集者・音楽評
論家の方をご紹介しよう。ロック音楽を報道する立場で70年代からお仕事をされてき
た山本智志さんは、いわば音楽ジャーナリストの草分け的な存在だ。一見華やかそう
に見える音楽業界にあって、雑誌や書籍の編集という作業、あるいは音楽について書
くという行為はとても地味で裏方的なものかもしれないが、優れた音楽家や敏感な聞
き手たちほど見識あるジャーナリストに理解を示し、ある種の敬意を払う。佐野元春 のツアーを記録した『ワン・フォー・ザ・ロード』(大栄出版 95年)や、仲井戸麗
市との対話を纏めた『ロックの感受性ービートルズ、ブルース、そして今』(平凡社
新書 02年)、『アサイラム・レコードとその時代』(音楽出版社 06年)などの著
作でも知られる山本さんにお話を伺った。互いの都合もあってメールでの長い”筆談”
となってしまったが、30年以上に及ぶ氏のキャリアをこの機会に振り返って頂いた。
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☆アルバイトから始まった『ニューミュージック・マガジン』の仕事
ーーまずは山本さんの自己紹介と経歴を教えて頂けますか。
1951年、札幌生まれです。このあいだ60歳になりました。地元の高校を卒業したあと1年浪人して、1971年に大学進学を機に上京したんですが、大学在籍時に「ニューミュージック・マガジン」(現ミュージック・マガジン) でアルバイトを始め、そのまま会社に居着いたという感じです。
大学2年のとき、意を決してニューミュージック・マガジン社を訪ねたんです。上京したら一度マガジン社を訪ねてみようと思っていたので。創刊当初から熱心に読んでいたニューミュージック・マガジンがどんなところで作られているのか、どんな人たちが作っているのか、ずっと興味があったんです。当時、マガジン社は渋谷の桜丘町の坂の上にあった。渋谷駅から5、6分のところです。マガジン誌の最後のページに会社の地図が載っていたのでそれを見ながら行ったんですが、なかなか見つけられなくて、あたりをぐるぐる回ったあげく、ようやくマガジン社が入っている古い5階建てのマンションを探し当てました。
編集部はその5階の一室で、ドアをノックしたら女性が出てきた。もうドキドキで、息が苦しいくらいだった。電話もせずに突然やってきた学生に彼女も戸惑っていましたが、こっちも必死でした。しどろもどろになりながらなんとか自己紹介をして、「一度訪ねてみたいと思っていたんです」と言ったら、「じゃあ、どうぞ入って」と言ってくれて、コーヒーまで出してくれました。ちょうど編集室でドアーズの『アブソルートリー・ライヴ』がかかっていて、マガジン誌のレコード評で木崎義二さんがそのアルバムについてどう書いていたかを話したら、「きみはマガジンをよく読んでいるんだね」と感心された。どんなロックが好きか、いまのマガジンをどう思うかなど、編集部の人にいろいろ聞かれました。ぼくも聞きたいことがたくさんあったはずなのに、ほとんどなにも聞けず、帰りしなに「もしアルバイトの仕事があったら、ぜひやらせてください」と頼むのが精一杯でした。それから何週間かあと、マガジン社から電話があって、アルバイトができることになったんです。
仕事は、マガジン誌の配本や郵便物の発送、レコード会社などへのお使い、編集室の掃除や電話番など、いろんなことをやりました。週に3日くらい通っていたかな。とくに仕事がないときには、編集室の壁一面を埋めたレコード棚からアルバムを抜き出しては、初めのうちこそ「これ、聴いてもいいですか」と編集部の人に断っていましたが、そのうち勝手に片っ端から聴いていました。
給料日には経理の人が茶封筒に入った現金を渡してくれました。銀行振込みじゃなかった時代です。毎月、その日は仕事が終わるとまっすぐ日本楽器の渋谷店に向かい、次に買おうと決めていたLPレコードを2枚買いました。日本盤は1,800~2,000円、アメリカ輸入盤は2,200~2,400円、イギリス盤は2,800~3,000円くらいしていたと思います。当時の物価からすればレコードはひどく高価なものでしたが、本にせよレコードにせよ、自分で働いて得たお金で欲しいものが買えるという喜びは格別でした。親からの仕送りは受けていましたが、自分が少し社会に足を踏み入れたような気がしてうれしかったですね。次第に下宿とマガジン社の往復が主になり、大学にはあまり足が向かなくなりました。このころは、そんな東京でのひとり暮らしをいきいきと過ごしていたという幸せな記憶があります。
ーーそれからやがて社員になられるのですね。
アルバイト生活が1年くらい続いたあと、編集長の中村とうようさんのアシスタントというか、雑用係として雇われたんです。そのころ、とうようさんは「ブルース・フェスティバル」の企画制作やマガジン増刊号の発刊など、編集長としての仕事以外に個人としてもいろいろやろうとしておられたので、手伝いが必要だったんだと思います。とうようさんに命じられて、たとえば野口久光さんや藤井肇さん、福田一郎さんといった著名な音楽評論家たちや、レコード会社やキョードー東京のお偉方に連絡したり、書類を届けたり、ということをするようにもなったので、なにか自分がアルバイト時代にくらべてもぐっと成長したような、充実感がありました。大学を辞めたのはそのころです。
とうようさんの下で1年あまり働いたあと、1975年に編集部員として正式にニューミュージック・マガジン社の社員にしてもらいました。北中正和さんが編集部を離れ、音楽評論家として独立するということになった時期で、「アルバム・レヴュー」や「ランダム・ノーツ」など、北中さんが担当していたページの何割かを引き継ぎました。もちろん編集という仕事をなにも知らずに編集部員になったわけで、校正のしかたなど、北中さんや他の編集部の人たちから多少教えてもらったとはいえ、ほとんどぶっつけ本番で仕事を覚えていったようなものでした。
筆者の人たちからなかなか原稿をもらえなかったり、徹夜で入稿作業をしたりと、締め切り間際はけっこう大変でしたけれど、やりがいがあったし、楽しかった。それまで読者の立場だった自分が、マガジンの誌面を通して名前だけはよく知っていた音楽評論家の人たちにじかに会って原稿を依頼できるなんて、もう、舞い上がるような気分でした。ロックが好きでマガジン社に入ったわけですけれど、そこで編集という仕事のおもしろさや楽しさも知りました。
70年代はロックに活気があったし、仕事を通して本当にたくさんの音楽を聴くことができたのも幸運でした。海外アーティストも相次いで来日しましたしね。ジェスロ・タル、ロリー・ギャラガー、ニール・ヤング、イーグルス、ロッド・スチュアート&フェイシズ、エリック・クラプトン、リオン・ラッセル、ジャクソン・ブラウン、リトル・フィート、ボニー・レイット、リンダ・ロンスタット、マリア・マルダー、グレアム・パーカー&ザ・ルーモア、エルヴィス・コステロ……。多くの初来日公演を観ることができました。マガジン社で働くようになる前には、フリー、レッド・ツェッペリン、シカゴ、ジェイムス・テイラーなどのコンサートを観ています。
フリーは初めて観た外国のロック・グループです。忘れもしない1971年5月1日、深夜12時過ぎからはじまったオールナイト・コンサートでした。大手町のサンケイホール。本当にすごいライヴでした。上京して1か月しか経っていなかったぼくの海外ロック・グループのライヴ初体験で、しかも連中はぼくとさほど齢も違わなかったので、大きなカルチャー・ショックを受けました。
☆☆試行錯誤しつつもフリーランスの道へ
ーーそれでも、せっかく就職したマガジン社を退社された理由は何だったのでしょう。
マガジン社には1980年の夏までいました。在籍期間は5年半くらいです。当時、マガジン誌は誌面刷新が急務でした。売り上げ部数が落ち込みはじめていましたし、レコード会社の宣伝も音楽専門誌が主体ではなくなってきて、広告収入も減少していました。編集方針の面でも、ロックの低迷やヒップホップ・カルチャーの誕生など、新しい動きへの対応が求められていた。でも、ぼくはいわば“マガジンの守旧派”で、と言っても守旧派はぼくひとりだったんですが、それまでのマガジン誌の色にしっかり染まっていたので、編集会議などでしばしば他の編集部員と意見が対立しました。とうようさんにもずいぶん楯突いたりしましたし。そんな状態が1年近く続いたあと、マガジン社で定年を迎えるなんて考えられないし、このままここにいるよりもどこか小さな出版社に入れてもらって、童話の本かなにかを作れるようになればいいなあ、などと都合のいいことを考えて、マガジン社を辞めました。29歳のときです。
残念なことに、というか当然のことながら、お世話になろうと思う出版社とは巡りあえず、失業保険の支給期間も終わってしまい、さて、どうしようという毎日が続くと、さすがに不安や焦りを感じました。子どももいたのでとにかく生活費を稼がなくてはならず、とは言ってもできることは原稿書きくらいしかないので、音楽雑誌から取材記事や新譜紹介の仕事をもらったり、アルバムのライナー・ノーツを書かせてもらったり、ということを始めるようになりました。あとは編集雑務の下請け仕事をやったりして食いつないだ、という感じですけど、それってつまり、いまとほとんど同じなわけで、そんな感じで30年あまりやってきたことになります。初めて書いたライナー・ノーツはシー・レヴェルのアルバム『Ballroom』でした。1980年の秋だったかなあ。これからどうしようとため息をついていたぼくに、当時フォノグラムの洋楽ディレクターだったWさんが、ライナー・ノーツを書かないかと言ってきてくれたんです。あのときは本当にうれしかった。いま読むと恥ずかしくなるような文章ですが、ぼくにとって記念すべき最初の仕事です。
(続く)