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ロング・インタヴュー、山本智志(その3)

ーー93年の暮れから始まり、翌年9月にファイナルを迎える『The 
   Circle Tour』は、佐野さんにとっても最初の音楽的な頂点だった
 と思います。山本さんはその長いツアーにほぼ同行され、その
 報告記『ワン・フォー・ザ・ロード』(大栄出版 95年)をま
 とめられました。そもそもこのアイディアはどういう風に生ま
 れたのですか。

 『ザ・サークル』を初めて聴いたとき、なんて言うか、すっかり参ってしまったんですね。すごいアルバムを作ったなあ、圧倒されてしまうなあ。そんな気持ちでした。そのアルバムを携えて佐野とザ・ハートランドがツアーに出るという話を聞いたとき、ここに収められた楽曲を彼らはライヴでどんなふうに演奏するんだろう、と想像したんです。そして、早くコンサートを観たいと思っているうちに、こんなことを思いはじめた。
 これまで佐野元春のライヴを何度となく観てきたけれど、それはある一夜の2時間ほどのコンサートを、いわば“点”で観ただけだ。佐野とバンドはそのあとも旅を続けてゆく。ロックンロールのツアーを“点”ではなく“線”として観ることはできないものか――そう思ったんです。それからというもの、その思いつきに自分で夢中になって、佐野元春のマネジャー氏に面会を求め、今度のツアーに同行させてもらえないかと懸命に頼みました。彼はぼくのアイディアに理解を示し、すぐに佐野本人に取り次いでくれた。そして、数日後、佐野元春と会い、直接彼から承諾をもらいました。

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(93年の11月に発売された佐野元春9作目のアルバム『The Circle』。
ここでの主人公たちは悩みを抱え、煩悶を繰り返しながら立ちすくんでいるようだ。
沸き上がってくる言葉たちと音楽的な野心とが結晶し、きらめいている。)

ーー一人のアーティストなり一つのバンドなりのサクセス・ストー
 リーは古今東西数多く書かれてきました。しかし一人のミュージシ
 ャンがある時期に行ったツアーに着目し、それを詳細に”報告”
 するという視点の本は殆どなかっただけに新鮮でした。ぼくが
 他に思い起こすのは浜田省吾の90年のツアーを追った田家秀樹
 さんの『オン・ザ・ロード・アゲイン』(上下巻:92年角川書店)
 くらいなのですが、山本さんは執筆されるにあたってどういう
 方向性を目指されたのでしょう。

 ぼくがイメージしていたのは、サム・シェパードが 1977 年に書いたボブ・ディランのローリング・サンダー・レヴューのツアーの記録『ディランが街にやってきた(Rolling Thunder Logbook)』でした。佐野元春とザ・ハートランドのツアーを記録しようと思い立つ過程で、あの本は大きなヒントになりました。とは言っても、ぼくはサム・シェパードのようにかっこよく書くことはできないし、彼のようにかっこよくもない。劇作家でも役者でもないし、パティ・スミスやジェシカ・ラングと暮らしたこともない(!?)。だから、あの本のように書ければいいけれど、それは土台無理な話です。ただ、“ザ・サークル・ツアー”の取材を続けるなかでも、あの本のことはいつも頭にありました。実際、何度かあの本をバッグの中に入れて出かけ、ツアー先で読み返したりもしましたが、読むたびに刺激を受けて、なにか自分もいいものが書けるような気になったものです。
 それと、もうひとつ、ぼくが思い出していたのは、若き日のキャメロン・クロウがローリング・ストーン誌に寄稿したオールマン・ブラザーズ・バンドやレッド・ツェッペリンの取材記事です。ぼくがそれらの記事をローリング・ストーンの日本版で読んだのは 1973年とか74年だったと思いますが、ぼくよりもずっと若いクロウが、16歳かそこらで書いたそれらの記事のいくつかには、当時、とても大きな刺激を受けました。なんて言うか、読んでいて自分がその場にいるような気持ちになってくるんです。正確ではありませんが、たとえば「深夜のホテルの一室で、グレッグ・オールマンが音を消したままテレビを観ている。そのブラウン管の明かりが照らし出す彼の疲れた横顔は、メイコンの月夜の墓地のように青白い」といった一文を読んで、ぼく自身がホテルの廊下から少し開いたドア越しにグレッグ・オールマンの姿を見ているような、そんな気になったものです。
 70年代前半に読んだアルバム評や記事のことはけっこう覚えているものですね。当時、ロック・ジャーナリズムが大きく発展したということもあるでしょうが、ぼく自身がもっとも熱心にロック評論を読んだ時期だったからなのだろうと思います。70年代に聴いたアルバムのことをいまでも細部に渡って覚えているのと同じですね。キャメロン・クロウの記事は、いま読み返すと、音楽批評的な視点よりもファン気質がまさっていると感じますが、それらの記事を書いたときの彼は16歳だったんだから、それにはほんと驚きますよね。
 とにかく、この“ザ・サークル・ツアー同行記”は、見たままを書きとめよう――そう思って、テープ・レコーダーやカメラは持たず、鉛筆と小さなノートだけを手に取材を続けました。ぼくは別にノンフィクションを書こうとしたわけではなく、ただロック・バンドのツアーのログブック(航海日誌)を書きたかったんです。ぼくに言わせれば、ノンフィクションには“ウソ”が多いというか、筆者が都合よく脚色しているじゃないかと感じる文章が多い。テレビのドキュメンタリー番組のナレーションのような文章、っていうか、妙に情緒的な、ことさら大げさな書き方。あるいは、書かれる1行が決まっていて、その1行を書くために前段であれこれ美辞麗句を並べる、という書き方。そういうのがぼくは好きではないんです。読んでいて、なんかしらけてしまうんですね。かつての沢木耕太郎の本にすら、そう感じることがある。だから、感動を押し付けるような文章にならないよう、できるだけ見たまま、思ったままを書こう、場合によってはメモの羅列になってもいい、と思っていました。

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ーーこのザ・サークル・ツアーの途中でザ・ハートランドの解散が
 発表されるという衝撃的なニュースがありました。山本さんも佐
 野さんから直接告げられたと文中に書かれていますが、その時
 のお気持ちはどういうものでしたか。

 1994年の1月、その年最初のコンサートのために大阪に向かう新幹線の車中、隣の座席に座って佐野元春と話をしていたときでした。インタヴューというよりは雑談に近い会話の中で彼が唐突に「これがザ・ハートランドとの最後のツアーになる」と切り出したので、とても驚きました。バンドはいつかは解散を迎えるものだけれど、このツアーが最後になるなんて思ってもいませんでした。
 なぜ、解散するのか。いつ、解散を決めたのか。今後はどうするつもりなのか。音楽ジャーナリストとしてぼくは佐野元春にそのことを聞くべきだったんでしょうね。でも、彼から解散を伝えられたとき、なぜかそうした質問はぼくの口から出なかった。解散の理由などどうでもいいと思ったわけではなかったけれど、奇妙な話ですが、そのときは解散が納得できるような気がしたんです。渋谷陽一に「おまえは優しすぎるんだ。相手に嫌がられるくらいのことを聞かないとダメだろうが」と言われたことがあります。彼の言ったことは正しいのだと思う。でも、ぼくは彼のようなタイプのロック評論家ではないし、彼が書くようなことも書かない。そもそもロック評論界のパワー・エリートになろうという野心も能力も、ぼくには初めからなかった。音楽ジャーナリストとして“優し過ぎる”のは弱点かもしれないけれど、致命的な欠点だとは思わなかったので、そう言われたときは「そのとおりかもしれないねえ」と苦笑するだけでした。


ーーアーティストやバンドの成長過程をライヴ演奏をつぶさに見
 ながら抑えた筆致で観察するという方法論に、ぼくも刺戟を受
 けました。ぼくの場合は東京ローカル・ホンクや中村まりをそ
 んな風にして現在追っています。しかしながら、こういうオー
 ソドックスなルポルタージュが、現代的な情報の洪水のなかで
 は忘れられがちという側面もあります。この点に関する山本さ
 んの見解をぜひ聞かせて頂きたいと思っています。

 ぼくは佐野元春とザ・ハートランドの“ザ・サークル・ツアー”を観たかった。ツアーに同行して、それを記録したかった。そして、幸運にもそれを一冊の本にまとめることができた。やりたかったことができてぼく自身は満足していますが、しかし、あの本がどれだけの人を満足させられたかはわからない。自己満足の産物を世の中に出しただけだったかもしれない。でも、読んでくれた人たちはたしかにいたし、その中の30人ほどの人たちが読んだ感想を送ってきてくれて、それはとてもうれしかった。
 どんな評論を書こうが、われわれはそのアーティストのアルバムやコンサート・チケットの売り上げに貢献するという以上の役目は果たせないのかもしれない。そう思うことがあります。そんなにシニカルになる必要はないのかもしれないけれど、でも、ファン・クラブの会報に載っているような、全面肯定の文章に慣れてしまった人たちにとっては、音楽批評などはまったく用のないものなんでしょう。音楽が好きなら、音楽について書かれた文章も読んで楽しめるし、刺激も受けるはずですよ、と言いたい気持ちはぼくにもあるけれど、いまの若い人たちにそうしたものを読みたいという欲求がないのは、それはそれで仕方がないことだと思います。
 こうした事態を招いてしまったのは音楽ジャーナリズム全体の責任だし、とくに活字メディアに関わる者、音楽評論家やその脇にいる音楽ライターたちはもちろん、編集者にも責任があると思います。80年代以降、広告の受け皿のような雑誌の創刊が相次ぎましたが、バブルがはじけてそのツケが回ってきた。雑誌は読者を獲得して初めて成立するものなのですから、そもそも広告の受け皿としての雑誌なんていう発想自体がおかしいですよね。
 女性ファッション誌にくらべたらその100分の1の部数でしかない音楽専門誌も、そうした業界の常識から抜け出すことができなかった。音楽雑誌を手に取ってみると、表4(雑誌の裏表紙)の広告と同じアーティストが巻頭記事に載っている。おまけにその記事の大半は、批評性を自ら放棄したようなパブリシティ記事です。そんな記事を読むためにお金を払う人はいないでしょう。払ったお金に見合う商品価値が記事自体になければ、商業雑誌はインターネットやフリー・ペーパーに勝てるはずがありません。
 おそらく、出版社に勤める編集者は、業務命令で新しい雑誌の編集長を任され、どんな雑誌を作りたいかではなく、どんな雑誌が売れるのか、どんな雑誌だと広告がたくさん集められるのか、といったことを考えて雑誌を作っていたのでしょう。80年代に「10万部以下は雑誌ではない」などとうそぶいていた大手出版社の幹部は何人もいました。勝ち組、負け組の論理、ですね。売れたものが正しい、と言わんばかりの態度。でも、そういう経営を続けてきたことがいまの苦境を招いたんじゃないかなあ。ニューミュージック・マガジンのようなマイナーな雑誌の経験しかないぼくには、彼らが言っていたことは理解できませんでした。
 タイアップ記事がこれほど日常化すれば、「評論なんかはいらない、情報だけが欲しい」という声が音楽ファンの間に起こるのも当然だと思います。ただ、彼らは本当に評論と呼ぶに値する文章を読んだことがあるのだろうか、とも思うんですよね。すぐれた音楽評論を読んだうえで、彼らは評論はいらないと言っているんだろうか、と。楽観的過ぎるかもしれませんが、おもしろい記事、いい批評を書き続ければ、その価値に気づいてくれる音楽ファンはいまでもいるはずだ、とぼくは思っています。
(続く)

by obinborn | 2012-01-21 06:49 | インタヴュー取材 | Comments(0)  

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