3月12日
何故なら日々が更新されても悲しみは癒えるどころか、ふとした
瞬間に溢れ出てくるから。とくにこの一年は多くの日本人が
そう感じたのではあるまいか。
複雑だなと思ったのは、家々がたとえ倒壊されなくても(家がそのまま
残っていても)放射能のため家に帰れないという逆説的な状況に
覆い尽くされている土地があること。その無念のほどはいかほどのものだろう。
震災後の日本人に何らかの変化が訪れたとしたら、ずっと続いていく未来
など根拠のない神話であり、案外脆いところに自分たちが立っているんだな
という認識だろう。あるいはこれまではただ漠然と感じていた不安が目のまえに
最も残酷な形で突きつけられたということかもしれない。
思えば私たちはあらゆる場所で第三者に自分の命を預けているようなものだ。
通勤電車やバスがそうであり、タクシーや飛行機がそうであり、飛躍して
考えれば文化的な生活の対価としての原子力もその延長にある。
保険として賭けるにはあまりにも手に負えないものだったにもかかわらず。
かつてそこにあったものが今はもうない。そんな大き過ぎる喪失感のなかで、
私は今日もまたふと足を止めることだろう。
(写真はいずれも陸前高田市 時事ドットコムより)
by obinborn | 2012-03-12 12:24 | one day i walk | Comments(5)
現場は追悼と怒りを表すキャンドルを持った
1万人以上の市民で膨れあがりました。
しかし、そこには一体感や達成感といったものはなく、
重くやるせない空気が漂っていたのを感じたのは
自分だけではなかったはず。それは
「こんなことでは何も変わらない」という感覚?
震度5以上の地震で、北半球が吹っ飛ぶといわれる
4号機の使用済み核燃料プールの危険な状態(小出さん談)を
またもや、まったく国民に知らせない政府。
新聞の「首相自ら先頭に立ち再稼働を推進」の見出し…。
(続く)
昨日、小尾さんが取り上げておられた
『見張塔からずっと』の詞と、今の状況が妙に重なり、
下腹をドンと叩かれたような気持ちになりました。
また、今日のJPOPの無責任さへの批判には強く賛同します。
無関心な人、気付き始めた人。
気付いて発信している人、動いている人。
政府と敵対するために動くのではなく、
これらの人々を結びつけるために
自分のできる範囲で動き続けますが、
ときどき、得体の知れない、顔の見えない
何かに覆われそうになります。
そんなとき、過去の音楽の尊さを通して、
今の困難な状況へ光を差してくれるような、
小尾さんの文章にいつも勇気づけられています。
科学者でも政治家でも私利私欲ではなく少しでも文明論的な視野に
立てていれば、ここまで負の遺産(使用済み核燃料の後始末など)
を抱え込むことにはならなかったんじゃないか、という気持ちはあ
ります。何もそんなに悲観せずに「明るくまえを向こう!」(苦笑)
とか世界じゅうの音楽はまるで自分たちが消費するためにあるんだ!
とでも言いたげな人々を見ると、やはり自分との感覚の違いを意識せず
にはいられません。もっともこんな私も夕方のスーパーの混雑にイラ
つき、端数合わせにもたつくおばちゃんに心のなかで「早くしてくれ!」
とか思っているただの凡人なのですが、いろいろな意味でこういう時期
は他人がよく見えるような気がします。
世界は大きな勘違いでできているということに
気付いてしまうと、客観性はあまり意味を成さない。
「自分が正しいと思ったことを誠実に伝える」。
これがいいんじゃないかなと思います。
世の中の流れみたいなものを変に意識すると、
客観的な立場に立った考え方が正しいと思ってしまう。
でも、これって実は違うんじゃないかなと。
もちろん権力者の私利私欲については論外ですが。
「スーパーの混雑にイラつく」と正直に書ける、
一個人としての表現を僕は信頼します。
るようです。こうした状況を見るにつけ客観性という名の担保も確かにあ
まり説得力はないですよね。その構造はMP3の音質に不満を感じながらも
世の趨勢だからと享受し、ニール・ヤングのような影響力のある人物が
疑問を呈したとたんに同調するというパターンにも似ています。つまり
それだけ流されないことは難しいのです、いろいろな局面で。二番手に
付くのは誰にも出来る。でも”言い出しっぺ”になるには勇気がいるし
リスクを伴いますから。なりふり構わないといった覚悟が座っている人
と貧乏クジだけは引きたくないなどと考えている人とでは、まったく違
いますものね。