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世紀末の隣人

 重松清はご存知の通り、基本的にはペーソス
溢れる人情派の小説家だから、徹底して現場や
人を取材するノンフィクション向きの作家では
ない。だいいち親と子のファンタジックな交流
(『流星ワゴン』)や、同級生の未来図(『ト
ワイライト』や『カシオペアの丘で』)に気持
ちを込める彼に、凄惨な殺人事件の犯人探しは
似合わない。

 そんないささかの疑問を抱きながら『世紀末
の隣人』(01年)を読んだ。ここでは1999年
から2000年までに日本で起こった事件(池袋
の通り魔殺人、新潟の少女監禁、和歌山のヒ素
カレー、愛知でのバスのハイジャックなど)を
題材にしながら筆に向き合う重松の姿がある。
むろん彼本人が現場に赴きそれなりの取材を踏
んでいるのだが、たとえば佐野眞一や沢木耕太
郎の重厚なノンフィクションを読み慣れている
方であれば、喰い足りなさを感じるのも仕方あ
るまい。それぞれの事件が短編として収束して
いる点もそうした印象を強めてしまっている。

 それでもこの『世紀末の隣人』が優れている
のは、他ならぬ著者自身が極力自分に照らし合
わせながら、背景となる時代を引き寄せながら、
事件の起点から終着点までを思索しているから
だろう。均質化された郊外の団地を思う。防犯
上とはいえ校舎に高く張り巡らされたフェンス
に違和を感じる。都会から脱サラして農業を志
した夫婦の顛末を吹き荒れる雪のなかで想像し
てみる。作家としてはごくまっとうな視点かも
しれないが、加害者も被害者もごく間近にいる
我々の”隣人”ではなかったのか。およそそのよ
うな認識を前提として著者は問いかける。

 重松自身が転勤を繰り返した親の息子であり、
故郷と呼べるような場所などどこにもないこと
を文中で告白する。そんな根なし草のような心
が疎外された人々や、見捨てられた土地と共振
するのもごく自然なことのように思える。全12
篇のうち日産自動車のリストラに題材を得た「
熱い言葉、冷たい言葉」と、朽ち果てたゴース
トタウンを見届ける「年老いた近未来都市」に
もっとも彼らしい優しさを感じ取ってしまうと
言ったら、かえって失礼だろうか。

 思えば重松も私も戦後10数年経ってから生
まれた昭和の子供たちである。貧しい幼年期
があった。集合住宅に住んだ。ある日突然カ
ラーテレビや電気冷蔵庫がやってきて、高度
成長の時代が訪れた。その後やがてバブル経
済の馬鹿騒ぎとその崩壊を体験した。本書を
順番に読み進めていくと、そうした時代のう
ねりさえ、事件の背後からくっきりと立ち上
がってくる。そう、本書は事件のルポルター
ジュという手法を取った昭和から平成にかけ
てのクロニクルでもあるのだった。

ちなみに最終話では東京タワーの展望台から
蒼茫とした光景を見下ろす重松の姿が書き留
められている。

(2012年10月 書き下ろし)

世紀末の隣人_e0199046_1956950.jpg

by obinborn | 2012-10-17 20:13 | 文学 | Comments(0)  

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