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ロック批評の古典

「ミスター・タンブリンマン」は麻薬のディーラー
を歌った歌だと、かつて自慢げに種明かしをしてく
れた詮索趣味の若者が、いまもう一度「タンブリン
マン」を聞いた時、こんな考えに襲われた。ーーー
もし”ディーラー”という言葉がなにかとてもいか
がわしいものを意味するんだと信じて使っていたの
だとすれば、そしてもし”隠された意味”を抜きに
してはこの歌が解らないのだと思っていたとすれば、
ぼくはまるで夜はすべて暗いものだと信じ込んでい
る子供くらいに馬鹿だったーー。

いま若者はディランの歌に耳を傾け、そこで歌う喜
びを聞き取り、隠れた暗号の解読などなしにして、
あるがままに歌を感じながらこんなことを思う。
ミスター・タンブリンマンがどこかの教祖様だろう
と、カブ・スカウトの母親役だろうと、とても親し
い友の一人だろうとかまうことはない。大切なのは
歌に漲る感受性、柔らかな自己放棄とその歓び、驚
きとものを発見する時のあの感覚なのだ。そしてき
みたちを取り巻く陽気で賑やかな朝のざわめき。

ディランは黙し続けている。しかし歌はけっして黙
することがない。歌は語る。歌について語り尽くさ
れたそのずっと後までも。ディランの歌は時のなか
で朽ち果てることがない。そればかりか、時がそう
した歌のうえを過ぎていくうちに、それらをより豊
かなものにし、ぼくたちが昔、理解しえなかった小
さな裂け目をも満たしていく(中略)。

ディランはぼくたちに何も負ってはいない。ぼくた
ちはもうすでにぼくらが与えられる以上のものを彼
に負っている。

(ポール・ウィリアムズ『アウトロー・ブルース』より)

ロック批評の古典_e0199046_1324321.jpg

by obinborn | 2013-01-18 13:32 | rock'n roll | Comments(2)  

Commented at 2013-02-06 13:30 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by obinborn at 2013-02-06 13:58
些細なことに足を取られないように全体像を掴む、というのはこうした古い本に接する際に極めて重要な読み方・アティチュードだと私も思います。確かに今読むと牧歌的な時代性も感じますが、ウィリアムズの”感じ方”はもうズバ抜け、突出しています(それを感じられない人には何をどう言っても駄目ですけど〜笑)。とくに個人的にはピカノやモジリアーニに喩えて芸術の反復性(ロックの進歩史観への疑問)に目を向けたところですね。ウィリアムスとデヴィッド・アンダールの対談の部分です。

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