そこに歌があった。
最悪なのは討議すべき内容以前に、ある一定の悪意なり怨嗟な
りを発散させようとしている点。このような批評が語るに落ち
る低レベルなのは言うまでもあるまい。
よくミュージシャンがインタヴューなどで「歌の解釈は聞き手
それぞれに自由なのさ」といった旨を発言するのは、個人的な
動機から出発した歌がメディアに乗って(不特定多数の)聴衆
に届くことの可能性と矛盾を言い含めている。まあもっと平た
く言えば録音物に吹き込まれたり、ファンを獲得していく段階
で歌が作者から離れていく現実や、しばし自分の歌を自分で背
負い切れなくなる残酷さの裏返しでもあろう。
ファンや批評家というのはそのような大前提をもとにそれぞれ
自分の解釈を展開しているのであり、様々な感想を聞きたいと
思ったり多くの文献を読みたいという欲求に駆られるのは、音
楽に対していろいろな聞き方や見方があることを知りたい、と
いう知的好奇心ゆえ。そして面白いのは優れた音楽家ほどそう
した多様性に関して寛容なこと。一定の解釈を強要しないこと。
遥か昔、ディランの「風に吹かれて」(Blowin' In The Wind)
の”答えは風のなかにある”という歌詞が、プロテスト・ソング
としては曖昧ではないのか?という論争があった。抗議歌であ
れば実在の人物なり戦うべき対象を特定せよ、という言い分で
ある。しかしディランはそのような歌詞を恐らく意図的に避け
ることでこの歌を長持ちさせた。またキューバ危機を背景にし
たとされる「激しい雨が降る」(A Hard Rain‘s A Gonna Fall)
にしても、”雨”という暗喩を用いることで、この歌を時代を超
える普遍的なものへと昇華させていった。
歌の作者と聞き手との幸せな関係というのは誰にも特定出来な
いものだ。しかし音楽するという行為が聞き手の存在を前提と
している以上、そこにはそれぞれに湧くイマジネーションの源
泉があり、その領域を犯してはならないはず。私たちは今日も
また音楽という名の魔物のまえに立ち尽くす。ときに呆然とし
ながら。ときに畏怖しながら。ときに全身を打ち抜かれるよう
な喜びに胸を震わせながら。
by obinborn | 2013-07-01 18:24 | rock'n roll | Comments(2)