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反核運動をめぐる"筆談”

友人とFBのほうで対話をしましたので、転載致します。

*       *       *


小尾さん、ご無沙汰しています。原発関係のコメントをいつも興味深く拝読させていただいています。
自分自身も漠として感じている「我々は被害者なのではなく、当事者なのではないのか?」という気持ちにいつも通じるものを感じています。
小尾さんは一度も原発は必要だと言われたことはないのに、コメントされる度に「で、小尾さんは賛成なのですか?反対なのですか?」といった話になってしまう。そんなパターンの繰り返しに苛立ちを感じていらっしゃるのが小尾さんなのではないかと、貧弱な読解力で想像しています。
今回のコメントにもあるように「享受してきた身」として、「これからをどうするべきで、何が課題なのか整理して、どういう手続きを踏んで新たなエネルギーのあり方を具体化するべきなのか?」を考える事が大切なような気がします。
そう考えると「反対なのか賛成なのか」なんて事の本質ではないのではないかと、思うのでした。もしかして、小尾さんの一貫して発しているメッセージはそこにあるのではないか?と思っています。
「俺は反対だから」で全てを済ませてしまうことにも無責任な感じがしてしまいます。また、原子力は利権と陰謀の産物であるといった話になるとむしろ「原子力」をネタに自己のイデオロギーを語っているように感じ、むしろ嫌悪感さえ抱くようになりました。
私が小尾さんのコメントに目がいくのは、そんな自分の気持ちに近いと感じているのかもしれません。
全く方向違いでしたら申し訳ありません。

昨晩、ネット選挙解禁を受けていろんな政党、候補者の主張を比較していて、何の迷いもなく二元化している主張にちょうど軽さを感じていたところでしたので、ついコメントしてしまいました。

長文失礼しました。


小尾隆 :真摯なコメントありがとうございます。ぼくより一世代若い方のなかにこのようなしっかりした、そしてバランスの取れた考えをされる方がいることを頼もしく思っています。友人たちともよく話すのですが、賛成VS反対なんていう二元論は本来あまり意味のあるものではなく、エネルギー政策を巡ってもっと論議を深めることこそが大事です。にもかかわらず人々は二元論に流れがちです。面と向かって価値観の異なる人間と対話することより、他人に対してそういうレッテルを貼る方がたぶん楽だからじゃないかな? 実際に面と向かっている際は一定の配慮があるのに、ネットという匿名性の高い関係性のなかではもう身勝手・エゴ剥き出しといってもいいくらいに個人攻撃をしまくり、しかも時にはFBでネガティブに賛同者を募ったりする。全く醜いやり口です。あともうひとつ。ぼくがデモに参加しない理由は個人的な出発点で始まった主張なり抗議なりが、不特定多数の集団化した場合、必ずしも同じ動機を共有する訳ではない人たちとも付き合って協調していかなければならないからです。同じノーニュークスの旗のもとに集まっていても、実際にはいろいろな立場や様々な意見がある。そこにはどうしても無理や矛盾が出てきますし、政治的に利用されたり、ある一定のイデオロギーの片棒を担ぐ結果にもなりかねません。運動に付随してくるそうした問題点をきちんと直視しなさいよ、とぼくは以前から警告的に言ってきました。ところが人々はもう勝手に小尾=原発推進みたいに短絡してしまう。どうしようもないって感じです。まあファッション的にデモに参加するのも選択肢の一つではありますが、ある一定の為政者や企業に対して(集団でもって)ぞんざいな言葉を投げつけるというやり方がぼくは大っ嫌いなんですよ。相手を資本主義の手先・権力の犬どもなどと罵るのは簡単ですが、自分もその資本に組み込まれているパート・オブ・ワンです。少なくともそういう痛みや認識を持たない人と手を携えることはありません。


小尾さん、拙い物言いにお応えいただきありがとうございます。噛みしめて読まさせていただきました。以前ブログでも学生運動について取り上げられていましたが、あの時と同じような共感をいただいた文章から感じています。
デモの件、全く同感です。やや話は脱線しますが。。。国会議事堂に集まっている人たちの中で何故、全学連や労働組合といった所属をアピールする必要があるのか?なぜ簡単に紫陽花革命などと言えてしまうのか?
もし、あの混沌とした集団を受け入れなければ反原発を叫べないのであれば、私は彼らのいう「反対派」ではないのだと思います。反原発運動を通じて何か革命的主張をしたいのであれば、むしろ区別されたい思いが強くあります。
そんな中、自分にできることは何なのか思案中の日々です。
ありがとうございました。


小尾:こちらこそ話せてよかったです。ともすれば自分の意見はごく少数派ではないだろうか? などと気持ちが塞ぐこともあったのでなおさら嬉しいです。ぼくもちょっと脱線して言うのですが、ぼくの場合はとある新党が謳う「成長主義からの脱却」が何だか嘘くさく感じられてなりません。彼らの言うところのそういう理想を突き詰めれば結局のところコミュイズム(共産主義)になってしまうと思いますし、現実を省みれば、中小企業の経営者から末端の営業マンまでみんな他者との競争に必死で毎日働いています。その競争がいいことか悪いことかはともかく、それが資本主義の現実なんですね。それを絵空事のようにカモフラージュするなんていかにも良家のお坊ちゃん的な発想だなあと感じてしまったのです。若い頃ならともかく社会の厳しさや苦みを自分なりに経験してくるとちょっとね。あとぼくも反核集会に労働組合や政治団体の旗があるのは呉越同舟的であり、野合であると感じますし、まったく好きになれません。あっ、これは以前にも書きましたね(笑)

*写真はあくまでイメージです

反核運動をめぐる\"筆談”_e0199046_15355198.jpg

by obinborn | 2013-07-13 15:38 | rock'n roll | Comments(2)  

Commented by りーな at 2013-07-13 23:38 x
こんばんは。

原発問題(だけにかかわらず、沖縄の基地問題やその他様々なこと)にたいして、もやもやしている自分の気持ちを、具体的に言葉にしていただいたような気持で読ませていただきました。


考えをめぐらしているだけで、何も行動らしい行動を起こさない自分は、なにも言う権利はないのではないか、社会人として(大きく言えば一日本国民として)だめなんじゃないか、デモでもなんでも、声をあげ行動している人のほうが偉いんじゃないか、と悶々と考える日々、小尾さんの意見に触れるにつれ、ホッとすることが多くあります。

ご友人が触れておられる、「紫陽花革命」のこと、私もあの時、とてもがっかりしたのを覚えています。あとから歴史を振り返って、誰かが命名するならまだしも、自分たちで名付けてしまうなんて。
その時私は、「真の革命は誰にもわからないように成就されるべきだ」という、とある人の言葉を思い出し、この集まりは、すでに集まること自体が目的になってしまっているのではないか、と思えてなりません。

いずれにしても、いざという時にきちんと自分の考えをもって決断できるよう、学んでいきたいと思っています。


Commented by obinborn at 2013-07-14 00:08
りーなさん、コメントありがとうございます。
ご指摘のように人はとかく具体的に行動しているほうが偉いんだと
思いがちですが、ただ単に徒党を組んで勇ましい言葉を投げつける
というのではあまりに稚拙ですよね。やはり諸問題に関して周りに
流されずどれだけ自分自身で考えているかが大事なのであって、デモに参加しない人を踏み絵的に選別していくなんてまったくナンセンスなことだとぼくは思っています。紫陽花革命という言葉も去年ちょっと流行っただけの上っ面の言葉でしたね(苦笑)。ちょっとデモに参加したくらいで自分が何かをしたような気になる。それは案外仕方な
いのかな〜と一方の頭で考えたりもしますが、かつての学園闘争〜
全共闘世代の一番ダメな部分と重なるところを悲しいかな、感じてしまうこの頃です。

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