フォザリンゲイ物語

1969年の7月6日、サンディ・デニー、アッシュレー・
ハッチングス、リチャード・トンプソンそしてサイモン
・ニコルはサンディとトレヴァー・ルーカスの新しい
フラットに集まった。パーソンズ・グリーン近くにある
チップスラッド通りの赤煉瓦の家の二階だった。彼らの
ドラマーだったマーティン・ランブルが5月に交通事故
で亡くなったことで、フェアポートは以降活動を続けて
いくべきか悩んでいたのだ。ハッチングスは言う「ラン
ブルに代わるようなプレイヤーはなかなか見つからない
よ」その後アルバム『リージ&リーフ』のセッションは
始まったものの、ハッチングスとサンディはグループか
ら脱退を表明した。『リージ』アルバムが発売される10
日前、69年の11月22日のことだった。サンディは旅に出
たかったと言っていたが、伝承曲と器楽演奏に特化し、
自分の歌を取り上げてくれないフェアポートへの不満を
のちにナイジェル・スコフィールドを前に告白した。

サンディとルーカスの男女交際はまた別の懸案事項だっ
た。68年の暮れ頃にはカップルは”二人で一人”状態だっ
たが、それまではルーカスがいない時のサンディは情緒
不安定だった。トンプソンは回想する「フェアポートに
とってはルーカスが揉め事の原因だった。でも彼らはや
がて音楽的に優れたパートナーへと成長していった。僕
らに新しいギタリストは必要なかったし、こっちはサン
ディが離れていくのを止めることもなかった」ルーカス
が組んでいたエクレクションは69年にはもはや解散状態
だったので、二人はフォザリンゲイの構想に入り、エク
レクションでドラムを叩いていたジェリー・コンウェイ
がそれに加わった。ルーカスは強調する「サンディのた
めのバンドじゃないんだ。彼女もそれを嫌がっている。
プレスはサンディ中心に書き立てるけど、僕たちはフロ
ントに立つ者を望まなかった。フォザリンゲイはフェア
ポートのフォーク・ロックとトラッドと、さらにカント
リー・ロックのアプローチを混ぜた。つまり僕たちは同
じ絵のなかで描かれるフレンドリーな絵の具なんだよ」

「サンディは厳しい主ではなかった」とコンウェイも続
ける「こうしろ!ああして!と指図するのではなく、も
っと自然な音楽プロセスを大事にした。彼女が家にある
ピアノに座ってから作業が始まるんだ。サンディはそう
して僕たちに歌を教える。ピアノは上手くないけど、美
しい旋律と慈愛に満ちたコードで歌を強くする。彼女は
あらゆる面で控えめだったが、自己評価よりもずっと優
れた音楽家だったんだよ」

ギタリスト探しが急務だった。サンディはトンプソンに
誰かいいギタリストはいないの?と常に尋ねていた。そ
んなトンプソンが推薦したのがアルバート・リーだった。
リーは当時をこう振り返る「まだリチャードには会った
こともなかったよ。互いに存在は知っていたけどね。そ
こで僕はベースにパット・ドナルドソンを紹介したんだ。
彼とは同じカントリー・フィーヴァーというバンドをや
っていたし、68年頃にはポエット&ザ・ワンマン・バン
ドという覆面バンドで一緒にセッションしていたから」

但しリーは自分がフォザリンゲイに向いていないと理解
していたようだ。自分の代りにニューヨーク出身のジェ
リー・ドナヒューをサンディとルーカスに勧めたのであ
る。ドナヒューは67年にマーキー・クラブでフェアポー
トの演奏を一度観ていた。とくに彼らのファンという訳
ではなく、まして彼らのレコードを聞いたこともなかっ
たが、最初のリハーサルでゴードン・ライトフットの
「ザ・ウェイ・アイ・フィール」を弾いた時に閃くもの
があり、フォザリンゲイに参加した。ドナヒューは回想
する「僕の演奏を気に入ってくれた。僕もサンディとル
ーカスのハーモニーを素晴しいと感じた。その体験が僕
の心を変え、人生の転機になったのさ」

1970年の6月に彼らのアルバム『フォザリンゲイ』がア
イルランド・レコードから発売された。アルバムは6週
間チャートに留まり、7月には全英で最高18位までに昇
った。これはフェアポート以降のサンディにとって最も
成功したものだった。きっとアルバム発売以前の冬から
最初のツアーを行っていたことも大きかっただろう。70
年の秋になると英メロディ・メイカー誌がサンディを「
英国最高の女性歌手」に選出するという名誉を受ける。
サンディ自身は「この国の人々は99%私のことなんか知
らないわ」とサン紙に語っていたが、レッド・ツェッペ
リンと共演した「限りなき戦い」は、否応なく彼女をメ
インストリームへと押し上げていく。

70年の後半にはセカンド・アルバムの制作も始まったが、
この頃になると録音の仕方を巡ってジョー・ボイドとジェ
リー・ドナヒューが激しく争うなど、グループの雲行きは
怪しくなってきた。サンディの力量が抜きん出ていたため
にメンバーのなかには彼女にソロ活動を薦める者もいたほ
どで、民主主義を掲げていた彼らの理想は皮肉にもサンデ
ィの人気とともに崩れていく。彼女がソロ・アーティスト
としてアイランドと再契約したのは、71年の1月28日のこ
とで、それはクィーン・エリザベス・ホールでフォザリン
ゲイがさよならコンサートを行う2日前だった。ロング・
ジョン・ボルドリー、マーティン・カーシー、アッシュレ
ー・ハッチングスらがゲスト陣として華を添えたそのライ
ブの最後にはアンコールに応えてサンディがソロで登場し、
ピアノでレノン=マッカートニーの「レット・イット・ビ
ー」を歌い、仲間や聴衆との別れを惜しんだ。

(*ボックスセット『NOTHING MORE』に寄せられたミ
ック・ホウグトンのライナーノーツから抜粋しました)




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by obinborn | 2015-04-18 16:35 | one day i walk | Comments(0)  

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