ランディ・ニューマンと佐野元春

ランディ・ニューマンの素晴しさは客観的な描写力にある
と思う。いわゆるフォークやシンガー・ソングライターの
歌には「私は悲しい」とか「私は怒っている」といった一
人称を用いたものが多い。時に私小説的と揶揄されるのも
その為で、なかなか「彼は悲しそうだ」とか「彼女は俯
いている」といった視点は生まれてこなかった。勿論ニュ
ーマンの歌詞にも「私」という単語はわりと出てくるのだ
が、それは彼本人の心情というよりは、歌の作者である彼
が曲の主人公たちに”語らせている”といったほうが正しい。
いわば脚本家や監督が映画のなかの俳優たちに何かを仮託
するのと同じで、そういう映画的な作風がニューマンの歌
に広がりを与えていると思う。70年代前半の日本はフォー
クソングのブームで、従来のプロテストソングへの反発か
ら個人的な体験の歌がもて囃された。私もそれらに青年期
特有の鬱屈を重ねた時期もあったのだが、やがてそうした
自己憐憫的な世界に苛立ちを感じるようになり、同じ言葉
でもビートとともに語るロックのほうに惹かれるようにな
った。さて、ニューマンのように第三者に語らせるという
作風に大きく影響されたのが佐野元春だ。歌の作者である
佐野自身は一歩引いて、曲に登場する彼や彼女を造形して
いく。それも佐野の場合ひとつの曲での彼や彼女が別の曲
でも姿を変えつつ立ち現れるといった具合で、そうした複
雑なペルソナは、きっとボブ・ディランにも影響されたの
だろうが、この日本でそんな入れ子のようなソングライテ
ィングを試みたのは佐野が初めてだった。彼の歌がしばし
群像劇と呼ばれるのもそうした作法による部分が大きいか
らだろう。驚くべきことにデビュー・アルバムの『Back To
The Street』から最新作の『Blood Moon』に至るまで、
佐野元春の基本的な持ち味はまったく変わっていない。
ランディ・ニューマンと同じように、個人の心情吐露に終
わることなく、曲の主人公たちに”語らせる”。その意味は
とてつもなく大きく、聞き手にイマジネイションを与え続
けている。

e0199046_14283544.jpg

[PR]

by obinborn | 2015-08-09 14:31 | one day i walk | Comments(0)  

<< ランディ・ニューマンの観察 8月7日の中村まり >>