フォーマットの違いと他分野への敬意

小説を原作として映画化もしくはTVドラマ化する際、カット
される部分は少なくない。中国から戻ってきた女性の生涯を
描いた桐野夏生『玉瀾』日航機が墜落した御巣鷹山の事故を
元にした山崎豊子『沈まぬ太陽』女子銀行員が不正横領に走
り自己崩壊していく角田光代『紙の月』などを原作と映像の
両方で体験してみたが、やはり映像ではカットされる部分が
多く不満が残った。しかし活字と映像作品とではそもそも伝
達する手段が異なり、作者はそれぞれの表現方法を選び取っ
ているに他ならない。そういう意味では細かい心理描写に長
けたのが小説で、それを一定の時間枠に収めつつ視覚ならで
はの表現で訴えるのが映画の役割だろう。よく原作者が自分
の作品が映画化される際「監督に任せています」と発言する
のは、おべんちゃらや社交辞令というよりは、畑違いの表現
者に対する敬意の現れだと思う。個人の感覚としては自分の
都合次第でいくらでも読む時間を引き延ばせる小説に一番愛
着を覚えるが、暗闇のなかで2時間スクリーンに向かう体験
を大事にする映画ファンもいるだろう。昔はカットされた部
分に不満もあったが、むしろ監督が限られた時間のなかで取
捨選択をしているのだなと、今では思い直すようになってき
た。ここに音楽を加えてみると、言葉でも映像でもない音と
しての役割がはっきり見えてくる。言葉に頼り過ぎるプロテ
スト・フォークに筆者が反発するのも、政治的な関心の高さ
以前に音としての役割をないがしろにしているからだ。
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by obinborn | 2016-01-07 13:30 | one day i walk | Comments(0)  

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