オレンジ・カウンティを通してぼくはダン・ヒックスを知った

ダン・ヒックスを偲んで今日は昼間からビールを飲み始めて
しまった。まあ明日が休みだからいいとしよう。どマイナー
な私のFBにしては珍しく現在30名以上の方からリアクション
を頂いていることも何だか心強い。ところで私が最初にヒック
スを知ったのはいつのことだっただろう?いくら西海岸のロッ
クに精通した者でも、70年代からリアルタイムで彼を聞いてい
た友人知人は少なくとも私の周りでは皆無であった。私にして
も当然ながら後から追いかけたクチであり、確か『マガジン』
に掲載された輸入盤店の広告でヒックスたちを知ったのだと思
う。より具体的には、オレンジ・カウンティ・ブラザーズが
渡米してセカンド・アルバムを録音した際、ホット・リックス
のマリアン・プライスがコーラスに参加したことに親しみを
覚えたのだった。当時久保田麻琴と夕焼け楽団を介してエイモ
ス・ギャレットやロニー・バロンを知った方々が多いように、
筆者もまたオレンジ・カウンティをきっかけにヒックスを聞き
始めたのだった。夕焼け楽団とオレンジ・カウンティはまるで
兄弟バンドのように共演を重ね、『ディキシー・フィーバー』
や『ソープ・クリーク・サルーン』などそれぞれの名盤を生み
出していったが、その背後にはダグ・サームやダン・ヒックス
が大きく横たわっていた。夕焼けやオレンジの人達は決してそ
れを隠そうとしなかった。それどころか、自らを照らし出す羅
針盤のようにサームへの愛を歌い、ヒックスのスウィンギーな
ビートに酔いしれたのだった。まだ黎明期だった日本のロック
・シーンとはいえ、こうした無鉄砲なまでの愛情をまえにする
と私は胸が一杯になってしまう。写真は米Rolling Stone誌の表
紙を飾ったヒックス。70年代初期、彼がまさにこれから羽ばた
いていこうとする時期を捉えた貴重なフォト・セッションだ。
そういえばダグ・サームも同じ時期にこの雑誌のフロントへと
躍り出たのだった。オレンジのギタリストである中尾淳之さん
が思い入れたっぷりのライナーノーツを書いた『Last Train To
Hicks ville』を取り出しつつ、私は今夜ヒックスに思いを馳せ
よう。

e0199046_1815953.jpg

[PR]

by obinborn | 2016-02-07 18:17 | one day i walk | Comments(0)  

<< 再び、ヒックス氏に愛を込めて 追悼:ダン・ヒックス >>