歌わない自由

実際私なんかも音楽を聞く時「作者の動機」にはあまりこだわ
らないようにしている。むろんソングライターが曲を作る際に
は何らかの個人的な事象が反映されることが多いのだろうが、
メディアという回路に乗せた時点で歌は作者の元を離れ自由に
解釈されていくという考えを私は支持する。誤解を含めて聞き
手それぞれの事情に当てはまっていくのが大衆音楽の核心だと
思うからだ。例えばボブ・ディランのある時期の歌に関して、
これは妻だったサラとの離婚を歌ったものだと指摘したとたん
に曲のイメージは萎んでしまうだろう。佐野元春の「彼女の隣
人」について、交通事故で亡くなった彼の妹に捧げた歌だと説
明してしまう野暮と同じことだ。聞き手たちはもっと多くのも
のを自由に受け取っている。つまり歌の多義性というのはそう
いうものであり、また優れたソングライターほど曲の解釈に対
して寛容だ。

私にこういう考え方を示してくれたのはポール・ウィリアムズ
の音楽評論が最初だった。彼はディランの「ミスター・タンブ
リンマン」に触れ、そのタンブリンマンが麻薬のディーラーで
あると断じる、いわば”犯人探し”のような風潮を戒める一方で
こう言う「きみのイマジネイションを大事にしなさい」ひどく
残念なことに、いわゆるディラノジストやディラン研究家とい
った人達ほど、子細にこだわるあまり歌の核心から離れてしま
う傾向があるようだ。きっとディランは勝手に当てはめられた
自画像に苦笑しながら、以前にも増して様々なペルソナを立て
ていったに違いない。

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by obinborn | 2016-05-11 23:31 | one day i walk | Comments(0)  

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