グリン・ジョンズとイーグルスの関係を考えてみた


グリン・ジョンズの自伝『サウンド・マン』はもうお読みに
なられただろうか?最初期のキャリアがジョージィ・フェイ
ム『フラミンゴ』やストーンズ『デッセンバー』の録音技師
だったというこの超ベテランのプロデューサー&エンジニア
の最高傑作はザ・フーの『ネクスト』だとぼくは思っている
が、本国イギリス以外にもスティーヴ・ミラー・バンド、同
バンド出身のボズ・スキャッグス、ちょっと渋いところでは
フォーク・デュオのランバート&ナッティカムなど、アメリ
カ西海岸の才能にも目を向けている。そして何と言ってもイ
ーグルスとの出会いがグリンの名声を高めた。かつてビート
ルズ『レット・イット・ビー』を制作担当するという名誉に
恵まれながらも、フィル・スペクター版のそれに差し替えら
れる屈辱を味わったグリンにとって、それはまさに名誉挽回
の機会だったはず。

『ファースト』『ならず者』とイーグルスと協調関係にあっ
たグリンだが、彼らのサード・アルバム『オン・ザ・ボーダ
ー』(74年)では、突如メンバーたちから降板を告げられる
という悲劇にまたしても見舞われてしまった。新たにリード
・ギタリストとしてフロウ出身のドン・フェルダーを迎え、
ロック・バンドとしてのグルーヴ強化を図ろうとしたイーグ
ルスの思惑と、彼らからどこまでもアクースティックな良さ
を引き出そうとしたグリンの感情の行き違いが、アルバム制
作中の途中降板に繫がったと、一般的には伝えられている。
ご存知のように以降イーグルスはジェイムズ・ギャングなど
を手掛けていたビル・シムジクをプロデュースに迎えながら、
黄金時代を築いていく。 元々はジェイムズ・ギャングのメン
バーだったジョー・ウォルシュまで加えつつ、エレクトリッ
ク・パートを強化していったのだから、まさに陰にシムジク
ありきだったのかもしれない。この『オン・ザ・ボーダー』
(考えてみれば意味深なアルバム・タイトル!)では、全10
曲のうち、シムジクの制作担当は8つ、グリンの関与は「恋
人みたいに泣かないで」と「ベスト・オブ・マイ・ラヴ」の
2曲に留まってしまった。

思えばぼくがリアルタイムで接したロック・アルバムに於い
て、「プロデューサーによってこんなに音が違うんだ!」と
実感したのは、この『ボーダー』が初めてだったかもしれな
い。筆者はフェルダーもウォルシュも大好きだった。それで
も、やがてバンドからレードンが去り、マイズナーが77年の
ツアーの途中で離脱するといった光景をやがて目撃していく。
バンドは成長する。音楽性が変化する。ときにメンバー交代
も残酷なまでに辞さない。そんな事情に一定の理解を示しな
がらも、わだかまりは残ってしまう。

ちなみにグリン・ジョンズは『サウンド・マン』のなかでこ
う回想している「私はイーグルスの『悲しみの我ら』〜Most
Of Us Are Sadが好きだった。彼らの良さはまさに四人のハ
イ・ハーモニーにあったと思っているよ」正直な人だな、と
思う。グリンならではの音楽観がきちんと伝わってくる。い
ずれにしても、74〜75年辺りはアメリカン・ロックに於ける
変革の季節だった。『オン・ザ・ボーダー』を夏の終わりの
夕暮れ時に聞いていると、まるで古傷のような痛みを覚えず
にはいられない。

e0199046_19142968.jpg

[PR]

by obinborn | 2016-09-08 19:15 | one day i walk | Comments(0)  

<< クレイグ・ナッティカム、78年 また一緒にダンスしようぜ、ジョ... >>