カテゴリ:rock'n roll( 388 )

 

池袋は日本のニュージャージーだった?

学生時代は所沢、社会人になってからはずっと江古田に住んで
いるので西武池袋線とはもう長い付き合いだ。人身事故以外は
開線以来一度も大きなトラブル(転落や衝突)を起こしていな
いのも強みだろう。そんな環境に育った私にとってはまず池袋
に出ることが都会への第一歩だった。ここら辺の感覚はたぶん
最初に出る山の手線圏内が渋谷や目黒や五反田である人たちと
は違うと思う。それはニューヨークに対するニュージャージー
位の違いであり、私はずっとコンプレックスを抱えてきたので
ある。なにせ池袋ですぜ。こう言ってはナンだがとても垢抜け
た都会とは言えまい。それでも腐れ縁とはよく言ったもので、
横浜や中央林間へと遠出した帰りに、池袋へ降り立つ時の安堵
する気持は、似た環境の方なら解って頂けるだろう。またかつ
て「渋谷系」ともて囃されたジャンルもお洒落なイメージ作り
のためのマーケッティングに過ぎなく、そう括られた音楽家の
本人達が一番迷惑していたという話はよく聞かされた。やはり
自分が暮らす町が一番なのであ〜る。というわけで無性にサウ
スサイド・ジョニーのローカルなR&Bが聞きたくなってきた。

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by obinborn | 2017-05-18 07:14 | rock'n roll | Comments(2)  

ウォーレン・ジヴォン「軒下のならず者」

今日はあににくの雨だった。雨が降るから自分の行動範囲が
狭くなるということはないけど、こんな日はずっとウォーレ
ン・ジヴォンを聞いていたい。

*      *      *

北ハリウッドにあるハワイアン式のホテルに滞在して
今ぼくは空になったコーヒーカップを眺めている
この地にまだジプシーはいるんだろうか?なんて思いながら
ああ、L.Aじゅうのマルゲリータを飲みほしてしまいたい

もしカリフォルニア州が太平洋に吞み込まれたらどうしよう?
まるで神秘が告知したように 統計表が予見したように
たとえこのホテルが海に呑み込まれた時でも
支配人は宿泊代を取るのかね?

木々よ、朝陽を怒りとともに立ち昇らないで
木々よ、欲望とともにざわめかないで
ぼくを軒下のならず者のように扱わないで
天国って奴がそこを離れる者のためにあればいいのになあ

手をもがきつつ ぼくは朝目覚めた
どこかにぼくのことを理解してくれる女の子がいたらなあ
でも所詮 きみも夢のなかでしか自由になれないんだよ
ああ太陽よ ぼくを怒りとともに目覚めさせないで

ぼくは今 ハリウッドのハワイアン式のホテルに滞在し
空調が鳴る音を聞いている

(ウォーレン・ジヴォン/軒下のならず者)


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by obinborn | 2017-05-13 19:36 | rock'n roll | Comments(0)  

他人の人格を否定し続ける左翼


しかし以前左翼のクソババアに絡まれた時はまいったな。
リオ五輪の閉会式をめぐってオイラが「安倍ちゃんの好
き嫌いはともかく、一国の首相が自国の選手をねぎらう
のは当然のこと」と書いたら、ヒステリーを起こしたみ
たいで「こいつ安倍が好きなんだな、音楽を語る資格な
し!」と怒濤の如く返してきた。またそれにいいね!す
る連中のなかには結構有名な音楽評論家や写真家もいて、
それまではとくに何の感情も抱いていなかった彼らに負
のバイアスがかかってしまった。実際に会ったことも話
したこともない相手を実名で晒して批判しないほうがい
いですよ。万が一それを苦にオイラが自殺したら、彼や
彼女らはオイラの家族や友人にどう謝罪するんだろう?

それを思うと昔はのんびりした時代だった。遠方の相手
と会話する手段は長距離電話や手紙だった。そういう一
定の時間があるからこそ熟考する視点が生まれ、互いを
配慮する気持が育まれた。ところが今は速効性に特化し
たSNSの時代だけに、そうした慎みが失われてしまった
ように思えてならない。まあ媒体の変化はともかく、普
通に賢い人たちはどんな時代であっても礼節を知ってる
ものだけどね。というわけでまたウダウダと書いてしま
いすみませんでした。はっきり言って左翼のクソババア
を相手にするよりおねえちゃんと話をしているほうがず
っと有益で人生の糧になります。


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by obinborn | 2017-05-12 14:27 | rock'n roll | Comments(0)  

エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズ『ALMOST BLUE』

「このアルバムはカントリー&ウェスタン・ミュージックが
含まれています。だから心の狭い人々は過剰な拒否反応をす
るかもしれません」エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクショ
ンズが81年に発表したLPには、そうした警告文のステッカー
が貼られている。

無理からぬことかもしれない。何しろパンク/ニューウェイブ
のムーブメントとともに登場したコステロが、カントリー音
楽の本場ナッシュヴィルに赴いて作った”もろカン”の内容に
他ならなかったから。しかもプロデューサーには現地のビリ
ー・シェリルを据えるという徹底ぶりだった。選ばれた楽曲
もジョージ・ジョーンズのBROWN TO BLUE、マール・ハガ
ードのTONIGHT THE BOTTLE LET ME DOWN、ドン・ギブ
ソンのSWEET DREAMS...といった具合にカントリー・ミュ
ージックの古典で埋め尽くされていた。

あえてR&B〜ロックンロール色を探すとしたら、ジョー・タ
ーナーがヒットさせたHONEY HUSHくらい。余談だけど、
ぼくはこの曲を最初ブギ・ロックの素敵な四人組フォガット
のヴァージョンで知った。それはともかく、ここまでカント
リーに特化したアルバムを企画するなんて、コステロもなか
なかやるじゃん!と当時まだ学生だった筆者は密かに思った
ものだ。加えてゲストに参加していたのはジョン・マクフィ
ーだった。本作は彼のギターとペダル・スティール・ギター
が大活躍したアルバムとしても、長らく記憶されるだろう。

実はこの名作『ALMOST BLUE』に惹かれたことにはぼくな
りの理由がある。それはあまたのカントリー古典に混ざって
グラム・パーソンズの曲を2つも取り上げていたからだった。
グラムがフライング・ブリトー・ブラザーズ時代に発表した
I'M YOUR TOY(HOT BURRITO#1)がそのひとつ。グラムが
ソロ・アクトに踏み出した記念碑『G.P』からのHOW MUCH
I LIEDがもうひとつ。グラム・パーソンズといえばロック世代
にカントリー音楽の素晴らしさを問いかけ、実践していった
先駆者だ。コステロがグラムに刺激されながらカントリーに
目覚めていった様子は想像に難くない。この2曲をセレクト
したことで、ぼくはコステロにより親近感を覚えたものだっ
た。そう、ちょっとだけ年上の兄貴の音楽遍歴に触れたよう
な。

”心の狭い人々”とは何も他人にばかり向けられたものではな
いだろう。ぼく自身が音楽に限らず、人生の様々な局面で陥
りがちになる視野狭窄のことかもしれない。エルヴィス・コ
ステロ&ジ・アトラクションズは問い掛ける「本当にブルー
な気持じゃんかよ」と。とくにALMOST BLUEという曲が収
録されている訳ではない。だからこそアルバム表題にコステ
ロが込めた気持を汲み取りたい。このアルバムは81年の5月
18日から29日まで、比較的短期間でレコーディングが終了し
ている。あっぱれ!それはまさにロックンローラーがカント
リーと出会った濃密な時間だった。


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by obinborn | 2017-05-01 12:55 | rock'n roll | Comments(0)  

追悼:ジェローム・ガイルズ

J.ガイルズことジェローム・ガイルズが亡くなってしまった。
つい先日まで過去のアルバムを何枚も聞き直し、いいバンド
だったなあ〜と、改めて思い出していただけに驚いている。
元々ジェロームはニューヨークの出身で、ダニー・クレイン
とマジック・ディックの3人でアクースティック・ブルース
・バンドを67年頃から組んでいた。そこにボストン出身のピ
ーター・ウルフとステファン・ジョー・ブラッドが加わり、
J.ガイルズ・バンドの母体が出来上がった。さらにボストン
大学に通っていたセス・ジャストマンが加わり、6人編成の
エレクトリック・ブルーズ・バンドに生まれ変わった彼らは、
69年アトランティック・レコードからデビューする。

グループ名に冠されたくらいだから、やはり最初はジェロー
ムが結成したバンドだったと考えていいだろう。ソングライ
ティングが殆どウルフ=ジャストマンのコンビだったことや、
ピーター・ウルフがバンドの顔だったせいか、あまり目立た
ないジェロームだったが、切れ味鋭いカッティングが彼の持
ち味だ。例えば『モンキー・アイランド』の冒頭を飾った「
サレンダー」を聞くだけで、いかに彼が重要な存在かを即理
解出来るだろう。歴代のギター・ヒーローと違ってソロを弾
きまくるタイプではなかったので過小評価されているだけだ。

ぼくが彼らをめぐるエピソードで一番好きなのは、ジューク
・ジョイント・ジミーというペルソナを作り出したことだ。
J.ガイルズ・バンドの初期のアルバムを見て頂ければお解りの
ように、作詞作曲のクレジットやスペシャル・サンクスの欄
にジューク・ジョイント・ジミーの名前を容易に探すことが
出来る。よくファンの間では7人めのメンバーではないか?
とか、ボストン在住の老ブルースマンではないか?とか、あ
るいはストーンズに於けるナンカー=フェルジのような変名
ではないのか?と話題に昇った。そんなことを友だちと話し
合っていた頃が懐かしい。

ジューク・ジョイント・ジミーに関して、ジェローム・ガイ
ルズとマジック・ディックはこう種明かししている「俺たち
の架空のブルース・ヒーローだよ。いつも俺たちを見守って
くれているんだ」そんなロマンティックな神話を携えながら
彼らはキャリアを磨いていった。しかし古巣アトランティッ
クを離れ、78年にEMIアメリカと新たに契約してからはジュ
ーク・ジョイント・ジミーの名を見つけることは出来なくな
ってしまった。奇しくもそのことが彼らの音楽性の変化や青
年期の終焉を物語っているようで切ない。そして今日ジェロ
ーム・ガイルズは一番星になった。彼が天国でジューク・ジョ
イント・ジミーとともに心置きなくセッションすることを願っ
ている。

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by obinborn | 2017-04-12 14:28 | rock'n roll | Comments(2)  

昨日は、はちみつぱいの和田博己さんを囲む会でした!

「『MUSIC FROM BIG PINK』はいきなり「怒りの涙〜TEARS
OF RAGE」から始まるよね。だから僕たち、はちみつぱいもあ
の暗い「弊の上で」をA面の一曲めに選んだんだ」「普通は誰も
がデビュー作の一曲めを快活なナンバーでスタートさせる。で
もぼくたちはそうしたルーティンを犯したくなかったんだよ」

そんなお話を惚れ惚れと、和田博己さんから聞かせて頂いた。
というわけで、10日は新宿のライオンビールにて和田さんを
囲む親睦会を。時の流れを感じさせない3時間近くがあっと
いう間に過ぎていった。


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by obinborn | 2017-04-11 18:35 | rock'n roll | Comments(0)  

J.ガイルズ・バンド『ブラッドショット』

J.ガイルズ中期の傑作『ブラッドショット』は忘れ難い。
73年にリリースされた通算5枚めのアルバムで、ウルフ
=ジャストマンのソングライティング・コンビが大半の
曲を書き下ろしている。なかでもシンコペイトしまくる
「サウスサイド・シャッフル」は彼らの代表曲と言って
いいだろう。レゲエ調の「ギブ・イット・トゥ・ミー」
は新たな時代の到来を感じさせる。

お楽しみのカバーはショウ・ストッパーズが68年にヒッ
トさせた「ハウス・パーティ」と、ティッツ・ターナー
が57年に録音した「ホールド・ユア・ラヴィング」の2
曲で、こんな部分にも彼らのR&B愛が汲み取れるだろう。
なお本作のレコーディングはニューヨークのヒット・フ
ァクトリーで行われたが、スタジオを設立したジェリー
・ラガヴォイの名前をわざわざ記したことに彼らならで
はのこだわりが伺える。ご存知の方も多いだろうが、ラ
ガヴォイはR&B/ソウルに貢献したプロデューサーで、
ソングライターとしてもガーネット・シムズやハワード
・テイトに幾つかの曲を提供した。もっとも有名なのは
アーマ・フランクリンのために書いた「ピース・オブ・
マイ・ハート〜心のかけら」だろうか。これはジャニス
・ジョプリンの歌唱でさらに広まった。なおジャニスは
ラガヴォイ作の「愛は生きているうちに」を取り上げて
いる。ラガヴォイは他にバング・レーベルのバート・バ
ーンズ(ヴァン・モリソンをアメリカ・デビューさせた
のは彼)と連携したり、ボニー・レイットの『ストリー
ト・ライツ』をプロデュースした。

話がやや脱線してしまったが、そんなラガヴォイが無名
時代のビル・シムジクをエンジニアとしてヒット・ファ
クトリーに迎えたところにドラマの伏線がある。そう、
シムジクはやがて独立し、プロデューサーとしてJ.ガイ
ルズ・バンドに深く関わっていくのだった。本作『ブラ
ッドショット』も勿論シムジクの制作だ。きっとピータ
ー・ウルフはヒット・ファクトリーでの録音中に、何度
もジェリー・ラガヴォイのことを想ったに違いない。ア
ルバムを裏返してみよう。RECORDED & MIXED AT
JERRY LAGOVOY'S HIT FACTORY、NEW YORK、N.Y.
とクレジットされている。たった一行。でも僕はそこに
ピーター・ウルフの深い眼差しを感じずにはいられない。


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by obinborn | 2017-03-28 16:41 | rock'n roll | Comments(2)  

J.ガイルズ『モンキー・アイランド』

J.ガイルズ・バンドは77年作『モンキー・アイランド』でビル
・シムジクの庇護から離れ、初めてセルフ・プロデュースを試
みた。看板だったハード・ロッキンR&Bからより洗練されたア
プローチへ。そうしたシフトに70年代中盤の時代背景が見え隠
れする。ルーサー・ヴァンドロス、シシー・ヒューストン、マ
イケル・ブレッカーらゲストを適材適所に配し、東海岸の粋を
見事に伝えるニューヨークのレコード・プラント録音だ。


なお本作を最後に彼らは古巣アトランティックを離れ、EMIア
メリカと新たに契約し、遂に全米のトップ・バンドへと昇り詰
める。でもピーター・ウルフは髭を剃ってしまった。そんな意
味でも『モンキー〜』は分岐点の作品だったと思う。優れたア
ルバムと認める一方で僅かな痛みを覚えてしまうのは、彼らが
成功と引き換えに失ってしまったものを、今も思い出してしま
うからだろう。


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by obinborn | 2017-03-28 16:36 | rock'n roll | Comments(0)  

伊東ミキオさんと僕

この3月で一番嬉しかったのは、ロックンロール・ピアノマン
の伊東ミキオさんが拙書『Songs』を読んでくださっていたこ
とだった。ウルフルズからビッグ・ジェイ・マクニーリに至る
サポートの他、ソロ・アクトでも活躍され幅広い人気を得てい
るミキオさん。彼は20代の時に僕の本を夢中になって読み、そ
こで紹介したレコードを集め、今も書棚に置かれているとか。

楽器を弾き人々をハッピーな気持にさせるのは才能だと思う。
ミキオさんはそれを全国各地で日々実践されている。たぶん
いろいろな音楽的語彙をお持ちなのだろうが、彼の場合はとく
に弾けまくるブギウギ・ピアノが信頼を勝ち得ているみたいだ。
ジェリー・リー・ルイスやイアン・マクレガンやセス・ジャス
トマンといった偉人たちが切り開いてきた道。それをミキオさ
んは慈しみ、リスペクトしながら今晩もステージに立つ。僕に
は想像出来ない修練の日々を積み重ねてきたに違いない。

音楽家は歌い楽器を弾く。僕は文章を書く。それぞれが各自の
持ち場で一生懸命頑張ればいい。きっと誰かが見守っているか
ら...。いつか時間を作ってミキオさんのソロ・ピアノを聞きに
行ければと願っている。

(写真はミキオさんがTWに挙げてくださったもの。ご本人の
承諾を得て転載しました)


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by obinborn | 2017-03-26 20:00 | rock'n roll | Comments(0)  

追悼:チャック・ベリー〜あなたの歌とギターが大好きでした

「チャック・ベリーはギター一本を抱えてツアーする。彼が言う通りに進
めば問題はない。他の誰かが何かを口出しすると必ずトラブルが起こる」
88年に公開された彼の自伝映画『ヘイル!ヘイル!ロックンロール』の
ひとコマだ。そのなかではベリーが少年の頃『二都物語』を観ようと劇場
に足を運んだところ、黒人だからという理由で入場を断られたことが告白
されている。彼の心に沸き起こった疑念はいったいどれほどのものだった
だろうか。

そのベリーが3月19日亡くなった。享年90歳。新作アルバム制作の話が伝
えられたばかりだった。1955年の5月に録音された「メイビリーン」でデ
ビューした彼は、以降文字通りロックンロールの化身となり、時代を牽引し
ながらビートルズやローリング・ストーンズの誕生に一役買った。ルイ・
ジョーダンに代表されるジャンプR&Bサウンドを、ギター中心のスモール
・コンボ編成へと大胆に改変していった。

個人的な話をさせて頂ければ、日本のキャロルがラジオ番組でベリー作の
「メンフィス・テネシー」を演奏したことや、同曲をフェイシズがスタジ
オ・レコーディングしたことが懐かしく思い出される。その歌はジミー・
リード風のモダンなウォーキン・ビートを伴って、こう歌われていた「電
話交換手さん、お願いです。彼女に取り次いでください」と。その歌から
広がる南部の景色が好きだった。ベリー以前にブルーズ音楽の伝統がある
ことが感じられた。意外と内気でナイーブな青年の心のありかがしっかり
と伝わってきた。

冒頭の『二都物語』に話を戻そう。ベリーの地元セントルイスで映画が公
開された因縁の劇場で、彼は満員の聴衆たちに囲まれながら自分のショウ
を実現させる。その成功までには長い歳月があった。僕たちが普段まるで
毎朝の歯磨きやパンのように馴れ親しんでいる「ロックンロール」にはチ
ャック・ベリーを始め、リトル・リチャードやファッツ・ドミノやボ・デ
イドリーの積み重ねがあった。彼らなしにはけっして導かれることがない
道のりがあった。それを忘れたくはない。

最後になってしまったが、まだ無名でアマチュアだった60年代末のブルー
ス・プリングスティーンはこう回想している「自分たちのバンドで一度だ
けチャック・ベリーのバッキングをした。特別な体験だったよ。リハをし
ようと思って曲目を彼に尋ねたんだ。その時ベリーは何て答えたと思うか
い?”チャック・ベリーの曲だぜ!”だって(笑)だから僕たちは彼がイン
トロを弾き出した瞬間に、キーを探さなくてはいけなかったのさ!」

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by obinborn | 2017-03-20 00:28 | rock'n roll | Comments(2)