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カテゴリ:インタヴュー取材( 28 )

 

パイレーツ・カヌー〜ロング・インタヴュー

 パイレーツ・カヌーと出会ったのは2011年の10月のことだった。最初は初々しくってちょっといいバンドだなあ〜と思う程度だったのだが、やがて何かがぼくの心を刺した。それからカヌーのCDを買ったり彼女たちのライブに通い始めたのだと記憶している。演奏は確かな技術を伴っていたが、かといってテクニックに溺れてしまうような傲慢さは微塵もなかったし、大学の音楽サークルからそのまま抜け出してきたようなルックスや、ぎこちないMCはかえって真実味を伝えていた。そして何よりもルーツ音楽の再現だけに留まらない奔放な感性にぼくは夢中になった。あの時から数年経ちカヌーは14年の春に新作『OneFor The Pain In My Heart』を完成させた。せっかくだからと思い立ち、この機会にグループのキャプテンこと河野沙羅に話を伺った。今夏、東京とカヌーの活動拠点になる京都とでやり取りされたメールが元になっているが、彼女とこうして”会話”出来たことを嬉しく思う。なおカヌーは8月に青山CAYにて中村まりとのツーマン・ライブを行い、大きな成功を収めた。そのことも併せてご報告しておこう。

*        *        *
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☆いつの間にかこの6人が揃い、パイレーツ・カヌーが船出しました

ーー7月20日に高円寺のJIROKICHIで久し振りにパイレーツ・カヌーの演奏を拝見しました。素晴しいのひと言でした!ぼくが最初にカヌーを観たのは2011年の10月。やはり今回と同じ会場での東京ローカル・ホンクとのツーマンだったのですが、あれから3年経ち随分成長された印象を受けました。ここ数年の自分たちを振り返ってみて、どういう感想をお持ちですか?

 自分たちでは、成長は分からないですね。ただただ目まぐるしくて、ずっと同じに感じます(笑)でも変わらずこのメンバーで、あぁでもない、こうでもないと言いながら音楽に全力投球出来ていることを、いつも奇跡に感じています。

ーー少しばかりカヌーが結成された2009年前後のお話を聞かせてください。まず女トリオとして出発され、次第に他の男性メンバーが加わっていったそうですが、もう少し詳しくメンバーとの出会いを教えて頂けますか?

ややこしいですが、ご勘弁を(笑)まず、岩城さん(ドブロ)は、大学で私が参加していたアメリカ民謡研究会のOBでした。ヨッシーさん(ドラム)は10年前に対バンしてからの音楽仲間でした。潤さん(ベース)は、岩城さんとヨッシーさんが参加していた「靴ピカ」というバンドに新しく加わったベーシストで、私の憧れの人でした。私が一時期、音楽から離れていた時に、岩城さんとヨッシーさんが「一緒に音楽してみたら?」と紹介してくれたのがベス(ギター、ボーカル)です。いわゆる、お見合いです。
ベスは、父親と一緒に家で演奏したり、結婚式や友達の前で演奏したことはあっても、ライブをしたことはなかった娘でした。ベスの友達が「靴ピカ」の知り合いで、一緒にライブを見に行った時、その友達が「この子、歌うまいよ~。」ってベスを男性陣に紹介して。「じゃぁ今度、コーラスでバンドに参加してよ。」ということなって。リハーサルでベスの歌を聴いた男性陣は、おったまげたみたいです。自分たちが出したくても出せなかった、大好きなアメリカンサウンドがそこにあったそうです。そこでなぜか、私が借り出されるわけです。「どんな音楽を聴かれるんですか?」というような、まさにお見合いでした。
そしてお見合いの数日後に、行きつけの立ち飲み屋で飲んでいると、たまたま私の隣に来たのがキャッシー(バイオリン)でした。バイオリンケースを持って立ち飲み屋にいるお嬢様はとても凛々しく見えて、お酒の力もあって、思わず一緒に音楽しようと誘ってました(笑)そのころのキャッシーは、クラッシックからアイリッシュに転身しようと、京都に出てきて間もないころだったそうです。私のことを怪しみながらも、一緒にベスの歌を聴きにアイリッシュバーのオープンマイクに行ってくれました。そこで初めてベスの歌を聴いて、キャッシーも私(マンドリン、ヴォーカル)も惚れてしまうわけです。
それから、なぜか男性陣から練習しようと連絡があって、あぁ男性陣も一緒にバンドをするつもりなんだなぁと気づいて。同時にベスと2人で活動したり、女3人で活動したりもしてました。そしていつの間にか、この6人でパイレーツ・カヌーでした。

ーー改めて6人のメンバーの紹介とバンド内での各自の役割について、沙羅さんの目を通して語って頂けますか?

まず、パイレーツ・カヌーの主軸はベスです。彼女の歌詞の世界、音楽の世界がないと始まりませんでした。彼女一人でオーケストラみたいなのだけど、ベスというアーティストをメンバー全員が大好きで、なにか一緒にやりたいという思いで、1曲1曲アレンジしています。彼女はイラストレーターでもあるのですが、絵の世界も素晴らしいです。音楽でも絵でも、彼女が繊細に感じていることが表現される時、悲しみも痛みも、こんなに美しいことはなくて、私は泣いてしまいます。でも普段はおバカで最高にキュートな女性です。

キャッシーは、クラッシックとアイリッシュで培った技術と、柔軟な感性でバンドに風を吹き込んでくれます。こういう曲には、こういうアレンジという概念が全くないので、いつも驚くような案をくれます。その案がスタックしたメンバーを前へと進めてくれます。彼女が紡ぐ一音一音が、繊細で力強くて、聴き惚れます。そして、一番年下ですが一番落ち着いています。危険察知能力も抜群で、ベスと私をいつも守ってくれています。

岩城さんは、アレンジリーダーです。そして彼ほど、無駄な音を省くことに長けている人を知りません。ちょっとでもいつもより多く弾くと、すぐにバレます。こんなに素晴らしいプレイヤーなのに、曲によっては1音も鳴らさない時もあります。楽器職人でもあるので、メンバーの楽器のメンテナンスは、ほとんど彼にお願いしています。義理堅く、めちゃくちゃ心優しい男です。

ヨッシーさんは、お母さんです。いつもメンバーをよく見ていて、気遣ってくれます。これだけ年齢も性別も生活環境も違うメンバーが、音楽を続けていられるのはヨッシーさんのおかげです。アレンジする時も、作曲者の意図を汲もうと愛をそそいでくれます。本当はもっと思いっきり叩きたいだろうに、スティックの代わりに菜箸や編み棒を持って来ては、小さい音で最高のグルーヴを追求してくれるドラマーです。

潤さんは、ほとんどしゃべりません。時々、急に楽しそうに大きな声で話しますが、どこにスイッチがあるのか、メンバーのだれも解明できていません。いたずらな子供のようで、決まったフレーズを弾くのが苦手です。後ろを向いて主旋律を大声で歌ったりします。あまり言うことをききませんが、なぜか癒されます。そして、何をしたって潤さんのベースは素晴らしいです。

最後に私は、キャプテンです。幸い、大人なメンバーが冷静な判断はしてくれるので、とにかく音楽できるところを見つけて、面白いことを見つけて「やりましょうっ!」と先陣を切る係だと思っています。無理難題でも、私の説明がめちゃくちゃ分かりにくくても「ほなやろか。」と腰を上げてくれるメンバーに感謝でいっぱいです。

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☆☆メンバーそれぞれ根っ子が違うんです。違うというか、多種多様ですね

ーーカヌーの根っ子にあるのはいわゆるルーツ・ミュージック、とくにフォークやブルーグラス、 カントリーやアイルランド音楽からの影響を感じますが、若い人達でそのような音楽に取り組む姿勢がぼくのようなオジサンにはとても新鮮でした。そもそもどういう音楽体験をしてこられたのでしょうか?

メンバーそれぞれが根っ子が違うんです。違うというか、多種多様ですね。
潤さんとヨッシーさんは、どちらかというとソウルフルなレイドバックした音楽を演奏していました。ブルーグラスやカントリーなどは、パイレーツ・カヌーを始めてから聴き込んでいったようです。
岩城さんと私は、大学のアメリカ民謡研究部でブルーグラスに心奪われましたが、それまでは岩城さんはロック小僧でしたし、私はタップダンス娘でオールドジャズが好きでした。キャッシーはアイリッシュを学ぶ前は、音大でクラッシックを学びつつ、J-POPも好きだったようです。ベスは父親がカントリーやフォークミュージック好きで、最終的にはベスも大好きになってしまうのですが、昔はビートルズが大好きだったようです。

ーーアイルランドやアメリカの音楽に感化されつつも、例えば「HOTARU」に顕著なように、カヌーの音楽には知らず知らずのうちに日本的な情緒というかワビサビの世界が染み込んでいるような気がします。そうした部分にもすごく惹かれるのですが、そうした「日本的な」部分に関して意識されることはありますか?

意識していないというと嘘になります。でも、ライブに1曲、アルバムに1曲ぐらい日本語の曲もあった方が飽きないかなぁと、その程度の意識なんです。「En Ulas Ta」という造語の曲がありますが、それが日本語の曲としてアメリカのラジオで紹介されてたり、日本人からは「ケルト語だと思ってた」と言われたり。パイレーツ・カヌーをどうジャンル分けするかもリスナーによって多様で、面白く感じています。まだ、自分たちでもパイレーツ・カヌーらしさを解明中です。

☆☆☆新作は今までのなかで一番皆と話し合いながら作ったアルバムです

ーー最初のミニ・アルバム2枚がとりあえずのご挨拶というか名刺代わりだとしたら、女トリオだけの編成でレコーディングに臨んだ『Sailing Home』(12年)は新たな意欲作だと思いました。このアルバムを作ろうと思われた動機について教えてください。

 SXSW(注:サウス・バイ・サウスウェスト〜テキサス州オースティンで毎年3月に行われている多彩な音楽見本市)に出演が決まって、女3人で北米ツアーをすることとなったのですが、その時はまだフルメンバー6人で一発録りしたミニアルバムしかなかったんです。そんな時、キャッシーと私が知り合った立ち呑み屋で、以前、坂庭省悟さんのトリビュートアルバムでお世話に録音エンジニアさんと再会して、録音しないか?と誘っていただいて。北米ツアーで売りまくる為にも、女3人でスタジオ録音してみようという話しになりました。

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ーーその後再びフル・メンバーでの『Three』(13年)が作られ、今回もまた6人が揃った待望の新作『One For The Pain In My Heart』が完成しました。今回の新作に賭けた意気込みとか従来とは違うポイントなどをぜひ聞かせてください。

 今回の新作を作りたかったのは、たぶん最初はベスと私だけだったんです。私はとにかく早くフルバンドのフルアルバムを流通に乗せて多くの人に聴いてもらいたくて、セルフカバーアルバムでもいいと思ってました。でもベスは、作るなら新曲をたくさん入れたいと思っていて。ヨッシーさんと岩城さんは、ライブミュージックを一番に考えて来た人で、スタジオワークへの興味というか意義を見出せないでいたようです。ライブで再現出来ないことを録音でやることへの不安も感じてはりました。とにかくモメました(笑)そこで岩城さんを説得して下さったのが、東京ローカル・ホンクの木下弦二さんです。でも、どう説得して下さったのかは知りません。私も聞きたかったです。そして私に、そろそろ新曲を書きなさいと説得してくれたのはベスです(笑)
とにかく皆、いままでで一番たくさん話しをして、いままでで一番好き放題したと思います。今までのミニアルバムは、数日で一発録りした最高品質の「今」を切り取ってお届けして来ました。今回のアルバムは、メンバー全員が何かしら初挑戦した作品です。これからのパイレーツ・カヌーも想像してもらえるような、素晴らしい作品になったと思っています。

ーー「Guitar Blue」と「Goodbye Jacqueline」の2曲は正確にはセルフ・カヴァーとなると思いますが、今回この2曲を再度レコーディングしよう!と決められたのは、どんな理由があったのでしょうか?

 あまりドラマのない話しで申し訳ないのですが、全国流通にあたって上記2曲はアルバムに入れて欲しいと、自主レーベル「オンザコーナーレコーズ」の中井(大介)代表に頼まれ、納得したからです。Guitar Blueはパイレーツ・カヌー初のオリジナル曲であり代表曲ですし、上記2曲はPVも作って公開していたので、まだ見ぬリスナーが聴いてくれているとしたら、この2曲だろうと考えました。しかし、この2曲が入ったミニアルバムは流通には乗っていませんので再び録音しました。

ーー今回のアルバムではとくに「Gull Flying North」が胆になっていると思います。ハント(エリザベス)=沙羅のソングライティング・コンビによる才気とカヌー全員によるバンド・サウンドが全開ですね。その一方でエリザベスさんが単独で作詞・作曲をされたナンバーもあります。また過去にはキャッシーさんによる意欲作「Fake」もありましたね。そこら辺の役割分担とか、アルバム収録に当たっての取捨選択に関しては、やはり広くミーティングを開いてメンバーたちと話し合われるのでしょうか?

アルバム収録曲の取捨選択について話し合いの中で、いつも自然と決まって行くように思います。パイレーツ・カヌーは全員で情報を共有し、話し合うための場をWEB上に設けています。そこでの話し合いだと、普段あまりしゃべらないメンバーの意見も聞けて面白いです。なんだか現代っ子ですね。
ソングライティングに関しては、ベスはアルバムを作る時でも、そうでなくても、いつも不意に名曲を書いて来てくれます。私はアルバムを作る時に、こういう感じの曲を書いて欲しいとメンバーからのイメージをもらって(お尻を叩かれて?)書いています。キャッシーは、次のアルバムでインストを作って入れてみない?と尋ねた時、やってみたかったのだと答えて、素晴しい曲をすぐに仕上げて来てくれたので、これからも時々書いてくれるのではないかと期待しています。

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*2014年の春にリリースされた最新作『One For The Pain In My Heart』カヌーにとってアメリカでのライブ盤を含めれば通算6枚めとなる。一発録りでライブ感を重視した従来のアルバムに対して、今回はスタジオ・レコーディングならではの精緻で丁寧なサウンドスケープが光っている*


☆☆☆☆一番のビッグニュースは来年の4月にアポロシアターに出演することです!

ーーところで、地元京都のお客さんを前にする時とその他の地域、例えば東京でのライヴの時とは勝手が違うものなのですか?

 情けないかな私は未だにステージ上でアップアップなもので、あまり冷静に見れていません。なじみの場所や、なじみのお客さんに励まされることは多々ありますが、ステージに上がってる間の勝手は違わない気がしています。うまくいったり、いかなかったり。ライブの怖いところであり、楽しいところです。あえて違いを言うなれば、初めてのお客さんが多いときはMCを慎めと言われています。

ーーエリザベスさんが一時アメリカに帰国されるとのことで今後のバンド活動を心配するファンの方々もいます。そこら辺のことを含めて、今後の予定や抱負をぜひお聞かせください。

 来年の1月にベスが一度日本に戻ってきますので、できるかぎりツアーに回ろうと考えています。また、来年3月のSXSWに応募しました。そして一番のビッグニュースは、来年4月にアポロシアターに出演することです!アポロシアターからオファーが来た時は詐欺だと思っていたのですが、どうやら本当のようです。来年3~4月にかけて、ベス・岩城・ヨッシー・中井代表・私の5人でアメリカツアーを計画中です。キャッシーの出産も来年。メンバーの生活環境がどんどん変化していっていますが、これからも長く続けられるよう試行錯誤して行こうと思います! 
 
☆☆☆☆☆全てを演じきる音楽家もいますが、芯の部分はなかなか隠せない。音楽では弱い部分や駄目な部分は隠せないと思っています

                                         ーーカヌーの音楽にジャーナリスティックな話題はあまり似合わないかもしれませんが、東日本大震災以降ミュージシャンのなかには具体的な主張やメッセージを込める人たちも出てきましたね。でもその一方で比喩的な表現のなかに自分なりの思いを込める人たちもいます。一人の音楽家としてオーディエンスに伝えられることは何だと思われていますか?

難しい質問ですね。音楽で伝わることは計り知れないと思っています。主張やメッセージが音楽として湧き出てくるのか、主張したいから音楽をやっているのか。その主張が世の中に対してなのか、人々に対してなのか、家族や友人や恋人に対してなのか。様々ですが、ステージに立つ人には必ず主張があると思います。ステージ上での佇まいで、隠してもオブラートに包んでも、その人の芯の部分が少なからず見えてしまうと感じます。全てを演じきる音楽家もいますが、芯の部分はなかなか隠せない。音楽じゃ弱い部分、駄目な部分はなぜか隠せないですから。悲しみも苦しみも、一緒に唱えてとにかく生きるには音楽がぴったりです。
しかし私には今回の東日本大震災に対する思いを曲にすることが出来ていないので、機を見て発言するようにしています。地震や津波に関しては乗り越えなきゃいけない災害として、なんとかふんばろうと言えます。でも原発が本当に余計でした。二度とあんなこと起してはいけません。そして今も苦しむ人に手を差し伸べ続けます。

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*メンバー紹介を時計回りで。欅夏那子、岩城一彦、河野沙羅、谷口潤、エリザベス・エタ、吉岡孝*

ーーやや脱線しますが、沙羅さんは昔から東京ローカル・ホンクの大ファンでいらっしゃったとか。ぼくも実はホンク・ヘッズの一人(笑)なのですが、彼らとの出会いや、彼らの音楽のどういう部分に惹かれたのかを教えて頂けますか?

 大学の夏休み、実家で父が聴いていたのが東京ローカル・ホンクのアルバムでした。一度聴いたら止まらなくなって夏中聴いていました。そして、どうしてもライブが見たくて東京まで行って。そのライブにおったまげて、出待ちしてネコババしてた父のアルバムにサインをもらいました。
とにかく一聴き惚れでした。ある日聴いたこともない音楽が流れて来て、メロディーも歌詞も全部が聴こえて来て、自分が吸収されてしまったような感覚でした。自分でも気づいてなかった、自分に一番必要なものを、ある日突然差し出されて、どうして~!どこにあったのいままで~!なんで分かったの~!という感覚でした(笑)

ーー今回はお忙しいなか、どうもありがとうございました。最後の質問になります。メンバー6人それぞれの生涯のマイ・フェヴァリット・アルバムを5枚選んでみてください。勿論今日の気分で決めて頂いて構いません。

 こちらこそありがとうございました。いつもライブに来て頂いたり、レポートを書いてくださったり、とても感謝しています。

河野沙羅
・Dave Frishberg "Oklahoma Toad"
・Eddi Reader "Love Is The Way"
・東京ローカル・ホンク "東京ローカル・ホンク"
・The Band "The Band"
・Four Freshmen "Four Freshmen And 5 Trombones"

エリザベス・エタ
・Tom Waits "Alice"
・Patty Griffin "Children Running Through"
・Chris Whitley "Perfect Day"
・Tori Amos "Under the Pink"
・Levon Helm "Dirt Farmer"

欅 夏那子(キャッシー)
・FISHMANS「空中ベスト・オブ・フィッシュマンズ」
・キセル「マジックアワー」
・LAU「Lightweights & Gentlemen 」
・LEAHY「NARADA」
・BOB DYLAN「DESIRE」

岩城 一彦
・RALLY PAPA &CARNEGIE MAMA 「LIVE」
・安宅 浩司 「それでいいんじゃないか」
・CLASSIC CHIMES 「SEXTET MOVIE RUSTICS」
・ALISON KRAUSS +UNION STATION 「LIVE」
・EAGLES 「The Very Best Of The EAGLES」

吉岡 孝(ヨッシー)
・Al Green "Lay It Down"
・Amos Lee "Amos Lee"
・Bill Withers "Live At Carnegie Hall"
・The Meters "Funky Miracle Disc1・2"
・Aoife O'Donovan "Fossils"

谷口 潤
・Eark King "Street Parade" 
・Otis Redding "Love Man" 
・Hirth Martinez "Hirth from Earth" 
・The Esso Trinidad Steel Band "The Esso Trinidad Steel Band" 
・NRBQ "Grooves in Orbit"

(2014年の夏、メールにて。取材:小尾 隆)

なおパイレーツ・カヌーのオフィシャル・サイトは以下になります。
http://www.piratescanoe.com

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by obinborn | 2014-09-10 00:31 | インタヴュー取材 | Comments(0)  

ロング・インタヴュー、谷口邦夫(上巻)

 オレンジ・カウンティ・ブラザーズというバン
ドを覚えている方はどれくらいいらっしゃるだろ
うか。76年にレコード・デビューして79年に解
散するまで、彼らはカントリーやテックス・メッ
クスを引き寄せながら、自分たちの音楽を作った。
埃っぽい情感に安酒場の賑わい、そして一途な思
い。彼らに脈打っているのは、そんな血の通った
光景だ。恐らく音楽を愛し過ぎていた故に彼らは
時代の波に乗ることが出来なかったのだろう。そ
うした逆説がまたあまたの伝説となり、今宵もま
たどこかのバーで人々は彼らの名を呼ぶ。オレン
ジ・カウンティのペダル・スティール・ギター奏
者、谷口邦夫に話を聞いた。

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☆成増には昔、グラントハイツという米軍用の住宅
がありました。

ーーまずは谷口さんの個人史を少々お伺いしたいと
思います。

 生まれは板橋区の成増です。結婚してからは隣町
の和光市に移ったのですが、それ以外はずっとこの
近辺です。家は兄弟が多くって女女男男男の5人兄
弟で私は末っ子でした。一番上の姉はパット・ブー
ンが好きで、二番目の姉さんはプレスリーの姿はそ
うでもないけど声が好きだとか言っていましたね。
ですから音楽に目覚めたのはそういう家庭環境があ
ったからだと思います。あと私の家はずっと質屋を
やっていますので近くにあるグラントハイツという
米軍用の住宅、ここは今では光が丘に移っているん
ですが、そこから持ち込まれたレコードにも影響を
受けました。ハンク・スノウとかファッツ・ドミノ
とかチャビー・チェッカーなどのレコードが日本盤
ではなく洋盤で集まってきたんです。今それが手元
に残っていたら膨大なコレクションですよね(笑)。
日本人では小坂一也の「デビー・クロケットの唄」
とかクレイジー・キャッツのソノシートなんかをよ
く聴いていました。幼稚園から小学校低学年くらい
でしょうか。ナベプロのアメリカン・ポップスのカ
ヴァーがテレビに溢れていて、演歌が入り込む隙が
なかったかな。

ーー楽器を手にされるようになるにはどういうきっ
かけがあったのでしょうか。

 姉たちに教えるため家にはピアノの先生が毎週来
ていたんです。その先生が「この子は音感がいい!」
って誉めてくれたみたいなんですね。母親がその気
になって私にヴァイオリンを買ってくれたらしいん
ですけど、首がくすぐったくって全く習いませんで
した。その時やっていれば、ケイジャン、安積始じ
ゃなくて私が弾いていたかも。
 それからは中学くらいで、兄がギターを始めてい
たこともあってギターも練習しましたが、インスト
ゥルメンタルよりは歌を歌うことのほうが好きだっ
たので、歌の伴奏ということでギターを始めました。
三つくらい上ですとヴェンチャーズ世代なので例に
よってエレキのテケテケテケ~なのでしょうが、そ
の時は加山雄三やグループ・サウンズが流行ってい
る時代で、私はビートルズやモンキーズそしてアメ
リカのフォーク・ソング。中三の頃はニュー・ロッ
ク全般が好きでした。

ーーやがて高校生になられる。

 歌を歌いたかったので高校ではアメリカ民謡同好
会に入りました。当時は五つの赤い風船なども好き
で、山野楽器が主催していたフリー・コンサートな
ども見に行きました。URCから出た五つの赤い風船
と高田渡とのカップリングLPを同級生に借りて、け
っこう衝撃でした。それですぐにオート・ハープを
買ったんです。私と二人で組んでいた稲田っていう
奴はやがて”梅祭り”というバンドでデビューしたん
だけど、知らないかな。
 ちょっとお笑いが混ざったフォークでしたけれど、
その稲田と二人で学園祭で「遠い世界に」や「血ま
みれの鳩」といった五つの赤い風船の曲を歌いまし
た。彼が普通の6弦ギターだったので、私は音に厚
みを持たせるために12弦ギターを弾いたり、オー
ト・ハープをじゃ~んと弾いたり。オート・ハープ
といってもカーター・ファミリーのように色々と出
来るわけじゃなく、「遠い世界に」で使っていただ
けなんですけどね。その頃から弦が多くてちょっと
変な楽器が好きだったのかもしれない。
 私が通っていた城北高校というのは進学校なんだ
けど、教頭の息子のバンドが和田アキコが司会をや
っていた『R&B天国』っていう番組で優勝して、
ドラム・セットを貰って来たりしたのでバンド活動
にはうるさくなく、まあバンカラではあるんだけれ
ど、わりと自由な校風でした。当時はCSN&Yのラ
イヴ・アルバム『フォー・ウェイ・ストリート』辺
りをよく聴いていたのですが、その頃になるとギタ
のめちゃくちゃ上手い奴(現在はジャズ・ベーシス
トの桜井郁雄)を入れて三人編成で、その『フォー・
ウェイ・ストリート』に入っていたニール・ヤング
の「カウガール・イン・ザ・サンド」や、ジェイム
ズ・テイラーの「スウィート・ベイビー・ジェイム
ズ」を高校の講堂の落成式で歌いました。

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☆☆ペダル・スティールは初心者にはちょっと手が
出せない楽器なんです。

ーーそうしてどんどん音楽にのめり込んでいかれる。

 楽器をやるという目的で大学に行きました。たま
たま入学したのが法政大学だったのですが、そこで
カントリー・レンジャーズっていう軽音楽部のC&
W(カントリー・アンド・ウェスタン)のバンドに
入ったんです。他の大学にも伝統あるC&Wのバン
ドというのはあったと思うのですが、法政のそこは
戦後初めてC&Wを演奏した学生バンドだったらし
いです。ただ世の中はもう完全にロックの時代に入
っていたから、そのバンド自体もC&Wから新しい
音楽を模索し始めた時でした。そこで本格的にペダ
ル・スティールを習い始めました。ギターでは他に
上手い人たちが沢山いましたので、こりゃ今から始
めても遅いんじゃないかとも考えた。しかし、ペダ
ル・スティール・ギターという楽器はある程度きち
んと教えてくれる先生がいないと初心者にはちょっ
と手が出せないものなんですね。メカニカルな部分
からチューニングが狂った時の調整方法まで含めて
シロウトが自己流で始めるにはなかなか大変な楽器
なんです。
 私の場合はたまたまペダル・スティールの第一人
者である尾崎孝さんが二学年上にいたり、尾崎さん
の紹介で私が使っている日本で唯一のペダル・メー
カーFUZZYの社長である藤井さんと知り合えたり
しました。藤井さんというのはジミー時田のマウン
テン・プレイボーイズのペダル奏者だった人で、あ
のバンドはベースがいかりや長介でギターは寺内タ
ケシ、マンドリンはジャイアント吉田でした。これ
がドリフターズの前身だと言われています。藤井さ
んには初歩的なピッキングを教わったり、FUZZY
の工場でアルバイトして、毎日スティールで使うス
テンレスのバーを磨いたりしていました。オレンジ
で使っていたペダル・スティールはそのバイト代で
買いました。そんなわけで私はペダル・スティール、
安積はフィドルを習い始めたんです。

ーー当時はどんな音楽を聞かれていたのでしょうか。

 先ほどお話したCSN&Yやニール・ヤングから広が
ってカントリー・ロックと呼ばれていたものも勿論聞
いていたんですが、やはり子供時代に体験したファッ
ツ・ドミノのような黒人のリズムが頭にありましたか
ら、そういう意味では物足りなさも感じていました。
そんななかでジェイムズ・テイラーの『マッド・スラ
イド・スリム』を聞いた時、これだ!って思ったんで
す。というのもジェイムズの音楽っていうか、ザ・セ
クションの演奏にはブラック・ミュージックの要素が
自然に溶け込んでいて、白人離れしたリズム感が気持
ち良かったんです。それでも彼のヴォーカルはハンク・
ウィリアムスやジョージ・ジョーンズなんかのカント
リー・シンガーの伝統を通過していますよね。『マッ
ド・スライド・スリム』を初めて聴いたのは、大学を
受験する夏のことでした。大学時代は必要に駆られて
ペダル・スティールの入った有名なアルバムを聴きま
くっていました。そこで出会ったのがニュー・ライダ
ーズ・オブ・パープル・セイジのバディ・ケイジです。

(中巻に続く)
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by obinborn | 2012-06-17 06:30 | インタヴュー取材 | Comments(6)  

ロング・インタヴュー、谷口邦夫(中巻)

☆☆☆飯田くんは最初、私のことをへたくそだと思っ
ていたみたいです。

ーーそれではオレンジ・カウンティ・ブラザーズ結成
前夜のお話に入っていきたいと思います。一般的には
73年の秋、埼玉大学の”オールナイト・エレクトリッ
ク・ショウ”で飯田雄一さんがステージに立たれた時が
バンドの母体になったと伝えられていますね。

 私はまだその場にはいなかったんですが、ジプシー
・ブラッドだったかオズ・バンドだったか、どのバン
ドか定かではないんですが、穴を空けてしまったんで
す。そこで夕焼け楽団の(久保田)麻琴ちゃんが急遽
代役を立てなければならず、「誰か演奏しない?」っ
ていう問い掛けに「オレたちカントリーみたいなのや
るよ」って手を挙げたのが飯田くん、倉田義彦、鵜沢
章でした。麻琴ちゃんは飯田くんのロングヘアとカン
トリーがオシャレだと感じたみたい。そこに夕焼け楽
団の洋ちゃん(藤田洋麻)がギターで加わった演奏だ
ったと聞いています。「Truck Driving Man」か「Ja
mbaraya」がオレンジが生まれた最初の曲だったよう
です。でもとにかくまだこの時は私も安積もバンドに
いなかったし、ギターの中尾(淳乙)も参加していま
せんでした。

ーー谷口さんが飯田さんと最初に出会ったのはいつだ
ったのでしょう。

 今日このインタヴューがあるからこの前飯田くんと
電話で話したんだけど、正確なところはもう覚えてい
ません。ただ飯田くんがビクターが企画した『大学バ
ンド対抗合戦』というアルバムに参加するために、私
の師匠の尾崎孝を招聘して、ヴォーカルが飯田、ドラ
ムが倉田、ペダル・スティールが尾崎、その他のメン
バーは解りませんが、とにかく日本大学の代表として
フォー・レター・ワーズというバンドを結成したよう
です。
 そのアルバムに収録された曲目は日大が飯田くんの
オリジナル「Honky Tonk Downtown」、法政は何と
私が歌うフライング・ブリトー・ブラザーズ(リック
・ロバーツ)の「コロラド」でした。その時は私は
まだスティールは二軍で、レギュラー・メンバーとし
てはセカンド・ヴォーカルでした。本来はメイン・ヴ
ォーカルだった先輩のカントリー・ソングをレコーデ
ィングする予定だったんですが、ビクターの女性ディ
レクターが、ついでに演奏した私の曲のほうがいいと
いうことで急遽そうなったんです。「Honky Tonk D
owntown」はオレンジのアルバムには入っていません
が、初期には何回か演奏していましたね。
 当時その『大学バンド対抗合戦』のために法政の部
室に来て練習していた飯田くんは、学生NO.1の尾崎
の演奏に比べてまだ覚えたてだった私のペダル・ステ
ィールを「へたくそだなあ」って思ったらしいんです。
それから二年くらい経って飯田くんが風の噂で法政に
スティールの上手い奴がいるって聞いて呼んだのが、
その”へたくそな”私でした。
 飯田くんが倉田と出会ったのは、当時『ライト・ミ
ュージック』っていう音楽雑誌があって、そこのメン
バー募集欄に倉田が「デッドやジェファーソンをやり
たい!」って書いたのを飯田くんが読んで誘ったんだ
と思います。当時倉田は鵜沢と一緒に複葉機というバ
ンドをやっていたんですが、そうやって次第にオレン
ジ・カウンティのメンバーが集まってきたんです。オ
レンジが結成された当初はもうダグ・サームか、ニュ
ー・ライダーズ・オブ・パープル・セイジかという感
じでした。

ーーレコード・デビューは76年、トリオ・レコードの
ショウボート・レーベルからでした。久保田麻琴さん
のプロデュースによるハワイ録音でしたね。

 デビューにあたってどういう段取りがあったかはも
う忘れてしまいましたが、麻琴ちゃんは当時からすで
に別格というかちょっと特別な存在でしたね。オレン
ジでも夕焼け楽団の話題はしょっちゅうしていたし、
オレンジと夕焼け楽団で共演し、そこでジャムったり
ウィーピング・ハープ妹尾が加わることも多かった。
ライヴのMCにしても「おまえら元気か!」という激
しい音楽の乗せ方とは違う、もう少し自然で柔らかい
鼓動を感じさせました。彼はもう前年に夕焼け楽団の
『ハワイ・チャンプルー』(75年)でハワイ録音を
経験していましたから、その流れでオレンジもハワイ
に行ったのだと思います。サウンズ・オブ・ハワイの
スタジオにはワイキキのアラモアナ・ショッピング・
センターのすぐ近くにあったバンヤン・ホテルという
名の安アパートから、のんびりハワイ見物しながらの
出勤だったので、東京の自宅から都心の立派なスタジ
オに通うような緊張感がまるでありませんでした。ス
タジオ自体も普通の家のように物が雑然と散らかって
いて、日本のスタジオとは雰囲気が違っていましたね。
勿論16トラックでリズム・セクションから録音してい
く方法自体は日本と同じで、いわゆる一発録音ではな
かったのですが、とてもリラックスしながら演奏する
ことが出来ました。レコーディング・エンジニアも『
ハワイ・チャンプルー』と同じ松本裕くん(松本隆の
弟)でした。

ーー麻琴さんはプロデューサーとしてどういう風にレ
コーディングを進めていったのでしょうか。

 優しいお兄ちゃんという感じかな。こっちが演奏し
やすいような雰囲気を作ってくれたと思います。勿論
局面局面でいろいろなアドバイスをし、困った時には
ちゃんと答えを出してくれました。でもオレンジの音
というのは飯田くんの頭のなかでもうアレンジが出来
上がっていたわけだから、それを自然に活かすやり方
だったですね。人や立場によって久保田麻琴という人
の捉え方は違うだろうけど、以前も小尾さんにお話し
たように、私の場合はその時の麻琴ちゃんのイメージ
が今も変わらずにずーっとあります。

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(76年の8月に石川県の高原で行われた第三回夕焼け祭りの記念撮影。
バンド、ファン、関係者が一堂に会しツアー・バスへと乗り込んだ。
勿論オレンジのメンバーも写真のなかに)


☆☆☆☆『Soap Creek Saloon』が一番いいアルバ
ムかな。

ーー77年のセカンド・アルバム『Soap Creek Saloo
n』はサンフランシスコ録音でしたね。

 メンバーのなかでも「あれが一番いいかな」ってい
う声は多いです。スタジオはヘイト・アシュベリーの
近くにあって、レコーディングに(ダン・ヒックス&
ザ・ホットリックスの)ジョン・ガートンとマリアン
・プライスの二人がピックアップ・トラックに乗って
駆けつけてくれたのも嬉しかった。「On The Beach
Of Hawaii」ではマリアンのスキャットをフューチャ
ーしていますが、これだけでもかなり効果が出ている
でしょ? 麻琴ちゃんはこのアルバムをのちにリミッ
クスしましたけど、あのリミックス・アルバムはメン
バーの間では評判が悪い。私がドブロを弾いている曲
がクレジットでは(シェリフの)青木(繁久)くんに
なっていたのは青木くんがブルーグラスのミュージシ
ャンだから麻琴ちゃんは勘違いしたのかな。私はとく
にそのことを麻琴ちゃんには言わなかったけれど。

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(メンバーの間でも「これが一番!」という声が多い77年のセカンド・
アルバム。ダグ・サームに捧げられた一曲めから思わず胸が焦がすような
ホンキー・トンク・ソングスの数々を収録している。印象的なイラストレ
ーションは中尾紀久子。オレンジのアルバムはすべて彼女のイラストでト
ータライズされていた)

ーーアルバムは冒頭からダグ・サームへのトリビュー
ト・ソングと言うべき「Soap Creek Saloon」で始ま
ります。70年代半ば当時はシュガー・ベイブ、めんた
んぴん、センチメンタル・シティ・ロマンスなど、そ
れぞれが憧れの音楽にアプローチしていった時期だっ
たと思いますが、オレンジの場合はダグ・サームへの
愛情が際立っていました。やはりここら辺は飯田さん
の存在感がずば抜けていたとも感じるのですが、その
点はどうでしょうか。

 飯田くんはずっと横浜育ちで、浜っ子ならではとい
う言い方は変かもしれないけれど、そこら辺は彼が思
うところのお洒落な感覚があって音楽をやってきたん
じゃないかな。これが関西の人になると東京には負け
ないぞ!みたいな気負いが出て来てしまう場合もある
のでしょうが、ほら横浜って東京人よりも文化面で上
だと本人たちが思っているようなところがあるじゃな
い? 飯田くんは確かに存在感はあるんでしょうけど、
だんだん声が痰絡みになってきてしまったのが少し残
念だけど。彼は「昔はウィーン少年合唱団みたいな声
だったんだぞ」って言ってたけれど(笑)。飯田くん
はダグ・サームの「サンアントン」やチャック・べリ
ーの「ナディーン」を日本語の歌詞で歌った。彼の訳
詞は作者に対する愛情が溢れていて好きです。あと作
詞については倉田が多くを担当しました。あのインチ
キ・ウェスタンみたいなオレンジの楽しくて奇想天外
な世界は倉田の功績じゃないかな。

(下巻に続く)
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by obinborn | 2012-06-17 06:17 | インタヴュー取材 | Comments(0)  

ロング・インタヴュー、谷口邦夫(下巻)

ーー78年には日本コロンビアに移籍してベターデイズ
・レーベルから3作め『Cruisin'』を発売しますが、
環境の変化などは感じられましたか。

 私はあんまり感じなかった。ソニーでニュー・ライ
ダーズを担当していたディレクターの柳生さんには、
「ライダーズみたいな音楽をやっています」ってバン
ド全員で挨拶に行ったことがあって、その彼がコロン
ビアに移ったということを聞いて、オレンジも移籍す
ることになったんです。その頃コロンビアには大滝詠
一や佐藤奈々子がいました。佐藤奈々子とはどこかの
野外ライヴで一緒になって、当時オレンジ全員のアイ
ドルだったマリア・マルダーに似てるね、ってステー
ジの袖からみんなでニヤニヤしながら観ていましたね
(笑)。大滝詠一さんとの思い出は『GO GO ナイア
ガラ』のレコ発ライヴが渋谷公会堂であって、駒沢裕
城さんとともにスティールを並べてバッキングで参加
したこと。オレンジは当時たくさんライヴをやってい
ましたから、とくに印象に残っている演奏を思い出す
のは難しいのですが、大きいコンサートでは夕焼け祭
りと春一番にそれぞれ二回ずつ参加しました。そうだ、
あと大阪の中之島公会堂でちょっと風変わりなコンサ
ートがありました。出演者は詩人の金子光晴、作家の
田中小実昌、紀伊国屋の田辺茂一そしてオレンジ・カ
ウンティ。お三方のおしゃべりコーナーのあと、我々
の伴奏で田中小実昌が「道頓堀行進曲」、例の〜赤い
灯、青い灯〜ってやつ。田辺茂一は「黒猫のタンゴ」
の替え歌で「茂一のタンゴ」。「道頓堀行進曲」のイ
ントロをスティールで弾いていると、マヒナスターズ
になったような気分でした(笑)。

☆☆☆☆☆「谷やんが最高のプレイをしたから俺も頑
張って歌ったんだ」って飯田くんが言ってくれた。あ
の時は嬉しかった。

ーー79年のスタジオ・ライヴ盤『Jump And Shout』
を最後の置き手紙のようにして、オレンジは一旦解散し
てしまいます。解散の原因を一言で言うのは難しいと思
いますが、時代もパンクやニューウェイヴが主流になっ
てきた頃のことでした。

 音楽をやっていてだんだん楽しくなくなってきてしま
った。聞いてくれるファンにとってはずっと大事に繋が
っていることでも、演奏している方には生活の問題があ
ったのが一番の原因かもしれません。サンディ&ザ・サ
ンセッツのように新しい波に乗っかれるバンドもいれば、
それが出来なかったバンドもいる。オレンジの場合はき
っと後者だったのでしょう。

ーーそれでも今なお熱心なファンがいたり、ザディコキ
ックスやコスモポリタン・カウボーイズなどオレンジの
遺伝子や匂いを受け継いだようなバンドがいます。

 ザディコキックスの西田(琢)くんなんかはまさに飯
田くんのお洒落な部分をそのままザディコに置き換えて
いるね。彼はオレンジが解散したあと、飯田くんのバン
ド、サイケデリック・カウボーイズにゲスト・フィドラ
ーとして参加してくれて、オレンジが復活して狭山のハ
イドパーク・フェスや、京浜ロック・フェスに出演した
時も彼が手伝ってくれた。安積が仕事の関係や家が遠く
て来れなくても「ニシダなら大丈夫!」って。たぶん彼
はオレンジの4枚のアルバムは全部頭のなかに入ってい
るんじゃないかなぁ。
 カウボーイズの(ハル)宮沢くんを初めて見た時は久
保田麻琴かと思った(笑)。彼がオレンジの曲を歌って
くれているのはすごく嬉しい。それに彼はハンク・ウィ
リアムスの曲に自分の日本語詞を付けるなど努力をして
いる。そうやってハンクの曲を自分の歌にしている。ま
さに「俺のハンクはこれだ!」っていう感じで、そうい
う匂いも飯田くんに通じているのかな。宮沢くんのカウ
ボーイズで叩いているドラムの東野りえさんの演奏スタ
イルも好きです。

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(ザディコキックスのギター&フィドル奏者、西田琢と。
80年代以降不遇続きだったオレンジを支えたのが彼だった。
2010年の10月、ジェフ・マルダー&エイモス・ギャレット
公演が行われた渋谷クアトロにて)

ーーオレンジ・カウンティ・ブラザーズという素晴らし
いバンドがありました。谷口さんが今振り返ってみて、
どんな感想をお持ちでしょうか。

 当時のライヴで私はペダル・スティールを後ろで座っ
て弾いていたのですが、飯田くんはギターの音がでかく
ってね(笑)。他のメンバーもみんなそう思っていたら
しい(笑)。ミュージシャンなんてギターでもドラムで
も自分が世界で一番だと思わなければやっていられない
ようなところがあるけれども、私の場合あの頃は懸命に
やるだけだったし、後からバンドに入ったという気持ち
が心のどこかにあったのかもしれない。それでもライヴ
の発掘音源集『Far East Swampers』(99年)が発売
された時、年月が経ってきたせいもあるのかもしれませ
んが、初めて自分の演奏を客観的に見ることが出来まし
た。自分のプレイが自分が思っていたほどしょぼいもの
ではなかったんだなと確認出来た時はやはり嬉しかった。
そこにはジミー・クリフの「Many Rivers To Cross」
が収録されていて、飯田くんが最高のヴォーカルを聴か
せているんですが、いつだったか飯田くんに「気合いが
入っているね」と言ったら、彼は「谷やんが最高のプレ
イをしたから、俺も頑張って歌ったんだ」と言ってくれ
た。あの時は本当に嬉しかったです。私の演奏では(78
年の秋に札幌で録音された)「Many Rivers To Cross」
がベストかもしれません。

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(99年になって初公開されたオレンジの未発表ライヴ音源集。何より
もライヴ・バンドだった彼らの実力が隅々にまで息付いている)

ーーオレンジ以外の代表的なセッション・ワークを教え
て頂けますか。

 オレンジ以外で最初に行ったスタジオ・ワークはガロ
の最後のアルバム『三叉路』です。隣でしゃかしゃかと
マラカスをやっていて「うるさいなあ〜」と思ってクレ
ジットを見たら松崎茂でした。アイドルワイルド・サウ
スの最初で最後のアルバムに「憧れのジョージア」って
いう曲があるんですが、そこでもペダル・スティールを
弾いています。細野晴臣さんの『泰安洋行』では「ポン
ポン蒸気」に参加しました。
 オレンジが解散してからは、札幌のリンダ・ロンシュ
タドと呼ばれていた宮田あやこの『Lady Mockin Bird』
、久保田麻琴のソロ『On The Border』のなかの「Me
And Bobbie Maggie」、最近では東京ローカル・ホンク
の「遠い願い」でペダル・スティールを弾かせてもらい
ました。もっとも彼らと一緒にシンガポールまで行った
わけではなく、(プロデューサーである)麻琴ちゃんに
呼ばれてオーバー・ダビングしたんですが、京浜ロック
でも共演させてもらいました。東京ローカル・ホンクは
奇跡のように素敵なバンド。もっと売れたらいいなぁと
思います。

ーー谷口さんのお好きなペダル・スティール奏者を教え
てください。

 高校時代、まだスティールを演奏するようになるまえ
に、はっぴいえんどの「空色のくれよん」で弾いていた
駒沢裕城さんや、CSN&Yの「ティーチ・ユア・チルド
レン」に参加していたジェリー・ガルシアのイントロが
印象に残っています。
 昔バック・オウエンズのバッカルーズで弾いていた、
リック・ネルソンのストーン・キャニオン・バンドのぺ
ダル奏者、トム・ブラムリーの明るくて気持ちいいステ
ィールが好きです。イアン・マシューズのバンドで弾い
ていたゴードン・ハントレーは確か「サイオン」という
曲で音数は少ないんだけど印象に残る演奏をしていまし
たね。あとはやはりバディ・ケイジです。ニュー・ライ
ダーズの『Powerglide』は衝撃的でした。エイモス・
ギャレットと一緒にやっていたグレイト・スペックルド
・バード時代に、すでにあの奏法をマスターしていたの
にもびっくりしました。彼らが70年に大阪万博で演奏し
た音源も一部で出回っていますよね。あの人はナッシュ
ヴィル的な仕事はしていないようだし、ポップなフィー
ルドに引っ掛かってくるわけでもないので、どうやって
生活しているのか? バディは基本的なピッキングはカ
チッとしていて全くレイジーではないんだけれども、ガ
ルシアと同じでコード進行に縛られない、空中を飛び回
っているみたいな自由なフレーズが特徴です。彼のよう
に演奏出来たら楽しいだろうな、って思わせてくれる。
あとは最近You Tubeで見つけたアイリッシュのペダル・
スティール奏者のデヴィッド・ハートレーが気になりま
す。

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(不定期ながら近年も活動を続けるオレンジ・カウンティ。下は06年9月
に狭山で行われた第二回ハイド・パーク・フェスに出演した時のステージ)

ーー今日はお忙しいなかどうもありがとうございました。
最後の質問ですが、生涯のフェイヴァリット・アルバム
を5枚ほど選んで頂けますか。

 こちらこそありがとうございました。小尾さんが『F
ar East Swampers』のアルバム・レヴューでありがた
いことを書いてくださり、それでこの人に会いに行って
みようと思ったのが最初でした。ライヴ会場でもしょっ
ちゅうお会いしてますね(笑)。
 好きなアルバムを5枚選ぶのはとても難しいのですが、
ビートルズの『セカンド・アルバム』とジェイムズ・テ
イラーの『マッド・スライド・スリム』はやはり入れた
いです。あとはアーロン・ネヴィルの『ソウルフル・ク
リスマス』、高校生の頃”ゆでめん”よりも先に買った
はっぴいえんどの『風街ろまん』、そしてダグ・サーム
ですね。ダグはCCRのリズム隊が入った『グルーヴァー
ズ・パラダイス』にしようかな、それとも『ジュークボ
ックス・ミュージック』にしようかな。オレンジが「Ho
key Pokey」でリフを借用させてもらった「ニッティ・
グリッティ」が入っている『テキサス・トルネード』も
ダグのなかでは好きな作品です。あと一枚いいですか?
ジョン・セバスチャンの『ターザナ・キッド』も忘れら
れない大好きなアルバムです。(了)


取材・文:小尾 隆
質問協力:多加谷茂
(6月6日 池袋:ポルカドッツにて)

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by obinborn | 2012-06-17 06:01 | インタヴュー取材 | Comments(0)  

ロング・インタヴュー、新井健太(上巻)

東京ローカル・ホンクのライヴに接していると、アラケン           (新井健太)のベースがこのバンドにどれだけ貢献してい
るかが次第に解ってくる。やがて彼のプレイの虜になる。
今回の取材記事を読んで頂ければお解りのようにアラケン
はどこまでも控えめで、かつ思慮深い。そんな彼に震災後
の心境やツアー・ファイナルのこと、そして音楽遍歴やベ
ースという楽器に対する考え方などを伺った。なおバンド
の未来図に関しては、「まだまだやりたいことはいっぱい
あります」と力強い言葉が返ってきた。

*    *    *

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☆東北地方を回って思ったこと

ーーまずは新作アルバム『さよならカーゴカルト』のツアー終了、
お疲れ様でした。今回のレコ発全国ツアーは昨年の秋に始まり、
新年を挟んで先日(3月23日)ファイナルを迎えたわけですが、
今回のツアーで印象に残ったのはどんなことですか。

 ホンクとして初めて、しかも震災後の東北地方を友部正人さん
に機会を頂いて回ったことは大きかったです。もっと早く行きた
かったし、行かなければいけなかったのかもしれません。震災や
原発事故は一大事ですし、自分で見てみなければこれからの自分
がやりたいことも解らなくなると思っていました。まさに明日は
我が身ですからね。でも、単なる野次馬根性で行くわけにはいか
ないですし、そこら辺は難しいのですが、とにかく仙台や福島の
人たちと話をしてみたかった、町の様子を見てみたかったという
気持ちがありました。
 町の様子は、といってもオレたちが行ったのは仙台や郡山など
の内陸部になるわけですが、人は一見普通に歩いていたり、子供
たちも普通に外で遊んでいたり、オレはなんとなく当たり前のよ
うにマスクをしていたのに対し、現地の人達はけっこうマスクを
していなかったりしたのも少し意外でした。
 しかし本当は町を離れたくてもいろいろな事情でそう簡単には
動けないだろうし、自分たちの生まれ育った町を捨てることなど
なかなか出来ないのだと思います。実際オレの友だちに、生まれ
たばかりの子供がいるけれど福島から動けないという人がいて、
逆に彼は東京に住んでいて沖縄に逃げるような人たちをちょっと
腹立たしく思っていたりもすると言うんです。ちょっと怒りの矛
先が違うような気もしますが、彼の言わんとすることも理解出来
る。また人によっては放射能なんて全然大丈夫だよ、と言ったり
しますよね。本当に人間はいろいろな考え方をするもんだな、と
今回改めて強く思っています。オレはそのうちの誰かの意見を否
定することは出来ないし、すべてが同じでなければいけないとも
思っていません。お互いを尊重しつつ排除もせず、それぞれが生
きていくのって本当に難しいなあと、今更ですけど思っています。
 福島のことは何とも言えず悲しいですね。自分たちが何をどう
出来るのかは解らないし、間違って変なことをしてしまうかもし
れない。放射能のことだって、いろいろな人が出てきていろいろ
な事を言うから、どれが本当の事なのかバカなオレとしては全然
解らないですからね。
 そこで自分たちホンクの事に立ち戻るわけですが、(木下)弦
二くんをはじめホンクのメンバーでよく話すのは、『さよならカ
ーゴカルト』は震災以前から録音していたけれども、震災後も違
和感がないというか、嘘ではなかった、自分たちがやってきたこ
とは間違いじゃなかったという気持ちです。震災後にラジオで流
れた曲などは、個人的には「ちょっとなあ〜」という気持ちがあ
り、音楽をやっている人間としては無力さを感じることもありま
した。

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01. 泥男      07. 目と手
02. 拡声器    08. 昼休み
03. 自然ソング 09. おいでおいで
04. 鏡の中    10. お散歩人生
05. 冬眠      11. はじまりのうた
06. お休みの日





ーー今回は仙台の”おとのわ”のチャリティ・イベントにも参加
されたり、ホンクは毎月のバンドの売上げから震災の寄付金を
ソウル・フラワー・ユニオンを通して送っていますね。素晴ら
しいことだと思います。しかし、音楽家が社会的なものや政治
的なことに関わっていくのにはいろいろな方法があると思うん
ですね。それこそソウル・フラワーの人たちのようにがっつり
と現地に入っていってタグを組むようなやり方もあれば、もう
少し間接的な形でコミットしていく方法もある。これからはバ
ンドとしてどういう方向性を考えていらっしゃいますか。

 バンドの四人のなかで少しずつ考え方が違うのかもしれませ
んが、確かに東京ローカル・ホンクというバンドが一定のイメ
ージで捉えられてしまうのは嫌ですね。オレは最初はやはり音
楽から入っているし、音の美しさや音の響きとして音楽を愛し
てきたわけですから。思想的なものを伝える手段として音楽を
使うのは、きっと何かを排除してしまうことになってしまうと
思う。オレはそれが嫌なんです。メンバーが最終的にどういう
手段を選ぶかは解らない部分がありますが、何もオレたちは反
体制とか反原発という動機で音楽を始めたわけではなく、町に
いる普通の人たちの様々な物語を歌ってきたわけですからね。
オレは曲も歌詞も書けないけれど、たぶん弦二くんも同じよう
に思っているんじゃないかな。ホンクの世界は間口が広く、聞
く人によって、またその人の経験によって様々な解釈が出来る
と思うんです。だからやはり一つの色に染まったり、ホンク=
反原発といった特定のイメージで語られるようになったら嫌だ
なあ。
 それでもこういう事故が起こると、やはり考えることは多い
です。震災基金にソウル・フラワーを選んだ理由は、マネージ
ャーの常木さんが周りとの繋がりや外のことをよく見渡せる人
で、彼からの提案もありました。オレにしてもソウル・フラワ
ーは同じミュージシャン同士だし、ソウル・フラワー基金に賛
同している人たちもそう遠くないと感じました。

ーー今日たまたま自分のブログに書いたのですが、音楽家が本
気で社会と関わっていくとすると、なかには国会議員や地方議
員になっていく人もいますよね。ぼく個人の意見としては、そ
ういうのは少しどうかなあ~という気持ちがあるんです。聞き
手の一人としては、ミュージシャンにはやはりずっと音楽をや
り続けていて欲しいと思いますし。

 うん、そういう人たちもいますね。オレも社会的な問題意識
を持つことは必要だけど、そのぶん音楽が窮屈になってしまう
のはちょっとね。それはある意味ホンクが今までやってきたこ
とを裏切ってしまうことにもなりかねませんから。

ーーアルバム『さよならカーゴカルト』の発売に先駆けて、シ
ングルを3曲(「はじまりのうた」「目と手」「昼休み」)を
ダウンロード配信するという新しい試みをされました。スタッ
フともいろいろな議論をされた結果だと思いますが、アラケン
さんのお気持ちはどういうものでしょうか。

 オレは10代の頃から友だちと遊ぶような感覚で音楽をやっ
てきました。そのぶんどういう段取りで音楽を人に伝えるか?
というか、どうやって売り込むか? 的なことは殆ど考えて
こなかったんですね。同じ頃に弦二くんやクニくん(田中邦雄)
がやってたことに至っては、ある意味もっとかなり閉鎖的に見
えたかもしれない。だけどとにかく一日じゅうずっとスタジオ
にこもって練習をしていた彼らの姿をオレは美しいと思った。
その後オレは他の音楽の仕事をしていたり、ベースを人に教え
ていたりもしたんだけれど、そういうの全部が嫌になってしま
う位彼らは魅力的だったんです。
 でも、ホンクもこうしてそれなりに歴史を重ねていくと、実
生活を取り巻く状況もいろいろ変わってくるわけで、次第に、
このバンドを続けていくためには、より多くの人にホンクの音
楽を聞いて頂いて、より多くの賛同を頂いて、経済的な援助を
頂くようなカンジがあってもいいのではないかという考えも出
てきたわけで、、、。ホンクがやっていることをお金に換える、
という言い方が適切かどうかは解りませんが、そのなかの一つ
の手段としてマインズ・レコードの石塚くんの意見もあって、
今回はダウンロード配信をしてみよう!と決めました。彼以外
にも、きっといろいろな人たちがホンクのことを考えてくれた
んだと思っています。まあ、ダウンロードといってもオレには
未だによく解らないし(笑)、自分を振り返ってみても、好き
な音楽はレコードやCDを買ってきたわけですから、確かにあり
がたみがあまりないカンジですよね。でも、今の若い人たちが
ダウンロードで音楽を買うのであれば、「ああ、そうなんだあ
〜」と思うしかありませんし、それならばそういう新しい環境
でやってみようじゃないかと思いました。実際やってみなけれ
ばどういう反響があるかも解らないわけですからね。そういう
意味でも今回のこの試みはやってよかったと思っています。

☆☆ツアー・ファイナルではホンクの土台を見せたかった

ーーツアー・ファイナルとなった吉祥寺のスター・パインズ公
演についてお伺いします。この公演では外部ミュージシャンを
5人招いた”ホンク9”が実現しました。とてもスリリングで
大胆な試みだったと思いますが、そもそもこのアイディアはど
ういう風に生まれたのでしょうか。

 やはりツアーの最終日ですからいろいろな人に見に来てもら
いたいし、興行としても成功させなければいけないとレーベル
側からも言われました。そうするためにはどうしたらいいのか
を考えてみると、今までお世話になってきた人たちを呼んでみ
ようとか、ビッグ・ネイムを招いてみようとか、いろいろな意
見が出てきました。ホンクだけで『さよならカーゴカルト』の
アルバムをあの曲順通りにライヴで再現してみるのはどうだろ
うかという方向も考えましたが、結局はオレたちホンクに縁の
あるミュージシャンを集めながら、せっかくだから面白いこと
をしてみようよ、という話になったんです。ミュージシャンの
具体的な選択は弦二くんを中心に行っていきました。

ーー9人が集まったリハーサルは”ホンク体操”から始まったそ
うですね。

 ホンク体操と言っていますけど(笑)、あれに関してはそれ
こそオレがホンクの前身である“うずまき”に入った頃は勿論、
他のメンバーはそれ以前からやってたことなんですね。彼らは
普段から音楽だけでなく、政治や宗教や文化のことなどを話し
合っていたし、ホンクっていうのはそうした社会性や精神的な
もの全部をひっくるめて自分たちの音楽にしたいと思っていま
す。やはり体も音楽と密接に結び付いてくるものですから、体
操をすることで肩の力を抜くっていうのは重要だということで
しょうか。
 そういえば、昔はオレなんかベースを弾くときは力一杯ピッ
キングしてやるっていう気持ちになりがちで、またそれがカッ
コイイことだと思ってて、今でもそういう気持ちが無くはない
けど、最近はそれと同時に力を抜いて弾くことの美しさも解る
ようになってきたし、出来るようになったなあ。

ーードラムスが4台でベースが2本というダイナミックな編成
でした。ドラムスが4人という意図はポリリズム的な広がりや
ユニゾン的な効果という意味で自分なりに理解出来たのですが、
ベースを2本にしたのはどういう意図があったのでしょうか。

 何の考えも無くベース2本を同時に弾いたら、音域の問題で
せっかくのアンサンブルが簡単に崩壊するでしょうね。今回は
ただのセッションではなく、そういうのもすべてちゃんと計算
してアンサンブルを作りたかった。例えばオレがエレベではな
くコントラバスを弓で弾く時、オレの演奏がどの程度実現出来
ているかどうかは置いといて、弓で弾くことでチェロみたいな
色合いが出せたらいいなと思ったんです。そういう高い音域を
オレが弾いている時、ヤセイ・コレクティヴのミッチくん(中
西道彦)にはエレベで低いパートを補って欲しかったというの
もあるし、『さよならカーゴカルト』では曲によってオレがエ
レベとコントラバスの両方を弾いているから、それを再現した
かったというのもあります。あとミッチくんは鍵盤楽器も出来
るから、一部でキーボードも弾いてもらったりも出来たし。
 彼はご両親が音楽をなさっていたり、クラシック・ピアノを
習っていたり、ちょっと羨ましいくらいの音楽的素養があるん
です。そして何よりヤセイ・コレクティヴのリズム隊として、
ドラマーの(松下)マサナオくんとのコンビに魅力を感じてい
たというのも大きいと思います。彼らはまだ若いんだけれども、
アメリカでともに音楽修行をしてきて一緒に修羅場をくぐって
きたということで、すごく二人の関係性というか、結びつきの
カンジというか佇まいが微笑ましいんです。
 今回のホンク9はそのヤセイの二人に、ラップ・スティール
の克ちゃん(佐藤克彦)、前から友だちだったタマコウォルズ
の中原由貴さん、そしてサーディンヘッドの小林武文くんにお 
願いして実現しました。彼らなら解ってくれるという気持ちと
同時に、逆に彼らにホンクの音がどういう風に成り立っている
のかをぜひ見て欲しかった。勿論、お客さんにもホンクの音の
土台というものをこの機会に感じて欲しかったんです。

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ーー9人が一本のマイクを囲んでアカペラ・コーラスをする導
入部には驚きました。しかも、よくあるファルセットで軽く合
わせるものではなく、ブルガリアン・ヴォイスのような腹の底
から出す低音による分厚いコーラスが圧巻でした。

 声を回していくアレですが、べつに今回が初めての試みだっ
たわけではなく、これもホンクが昔からずっとやってきたこと
で、アレはもっといろいろなヴァリエーションがある中の一つ
です。弦二くんはある高校のサークルでギターや歌の指導をし
ていたこともあって、大人数で声を出す楽しさを知っていたこ
ともあったし、彼には世界の音楽について何でも知りたい、そ
の音楽の成り立ちを研究したいって思っていた時期があったん
ですよね。まあ、それは音楽をやっていればみんな大なり小な
り興味を持つことなのかもしれないけど、今回のはそれらのい
ろいろなものが核になってるんだと思います。そういえばブル
ガリアン・ヴォイスに関しては、オレも以前サントリー・ホー
ルに観に行ったけど素晴らしかったなあ。
 またあのコーラスのエコーやディレイなどオペレイトに関し
ては、バンド側からとくに注文を出すことはせず、エンジニア
のハルクさんにお任せしました。こういう音響面ではやはりエ
ンジニアやPA担当者との信頼関係が大切でしょうね。そういう
部分で彼らもまた同じ表現者なのかもしれません。確かにあま
り馴染みがない小屋では音響面で「ちょっと違うんだよなあ」
と感じることもある。でも、その人はその人でその小屋のこと
を一番熟知してやってくれているわけですからね。お客さんが
増えてくればくるほど、そうしたトータルで考えていかなけれ
ばいけないことは増えてきますね。

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ーー「泥男」の途中にはスタジオ版にはない”ケチャ、ケチャ”
というコーラスが入っていましたね。ぼくにはアフロ・ビート
とラップの合体のように聞こえました。

 先ほど世界中の音楽を知りたかったというお話をしましたが、
バリ島のケチャを一時期よく聞いていたことが何となく反映さ
れているのかもしれません。だから今回の「泥男」はアフリカ
音楽とケチャが同時に混ざっているのかも。日本の民謡なんか
を聞いていても面白いグルーヴを感じるときがあります。オレ
たちがそうやって様々な音楽要素を吸収しながら、結果として
アウトプットしたものは、全部ホンク・サウンドになっている
と思う。だから音楽の知識なんかなくっても、そのグルーヴを
感じ取って貰えればそれが一番楽しいですよね。

(下巻に続く)
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by obinborn | 2012-04-14 15:15 | インタヴュー取材 | Comments(0)  

ロング・インタヴュー、新井健太(下巻)

☆☆☆オレは音楽という絵の背景になれればいい

ーーさて、ここからは少し過去のお話を伺っていきたいと思い
ます。ホンクの前身バンドである”うずまき”では迫田敬也さん
がベースを弾かれていました。迫田さんが自身の音楽を追求す
るため99年の暮れに脱退され、その後アラケンさんがうずまき
に参加されたわけですが、メンバーになられたいきさつを教え
てください。

 オレは東京で生まれて小さいころからずっと世田谷の九品仏
に住んでいます。中学時代はフォーク・ギターを一人で弾いた
りしていたんですが、高校になると品川在住のニッチ(西海茂)
ってヤツとバンドを組みました。彼の兄である西海孝さんなん
かの影響も受けつつ、あの頃はとにかくたくさんレコードを聞
いたり、ジェフ・ベックやクラプトン、とかツェッペリンとか
ブリティッシュ・ロックなんかが好きでコピーとかしてました。
それで練習はよく馬込のスタジオでやっていたんですが、そこ
ではやはり品川一帯で活動している他のバンドの情報とかが自
然と入って来るんです。弦二くんやクニくんっていう凄い人た
ちがいるぞ!っていう話も聞くようになって、そのうち井上
(貴文)くんもそうだけど、互いに違うバンド同士のままスタ
ジオやライブハウスですれ違ったり、話をするようになりまし
た。迫田のことも昔から知っていました。迫田とニッチは同じ
高校じゃなかったかな。迫田はとても頭がいい奴で音楽を理解
する能力も深いんですが、それ故に弦二くんとぶつかることも
あったんじゃないかな。だからちょくちょくくっついたり離れ
たりしていて、その度にオレがうずまきを手伝ったりもしてて、
だけど結局迫田はうずまきを脱退することになったんです。そ
れで弦二くんに「アラケン、ベースを弾いてくれないか?」と
誘われました。ちょうどオレもニッチとやっていたバンドが解
散していたこともあって喜んで加入しました。とにかくその時
のオレは、うずまきと一緒に演奏出来るようになったのが嬉し
かったですね。
 ニッチはオレに音楽に関して一番影響を与えた人物ですし、
今でも大事な仲間です。最近はホンクとは別に、彼とドラムの
葛迫隆敏とで当時やっていた”エレキメロン”というバンドを復
活させてときどき演奏しています。

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ーー同じベーシストですが、迫田さんとアラケンさんとはどう
いう部分が一番違うと思われますか。

 そうですね、迫田は昔から頭も耳もいいからコピーを徹底的
にするんです。オレは途中であきらめて自分の出来る範囲での
プレイになる(笑)。迫田は基本、音数が多いかな?(フレッ
トの)音域の上から下までを駆使して饒舌に語るカンジなのか
な。迫田に比べたらオレの場合は、地味にアンサンブルを支え
るようなベースなのかな。迫田が空間を埋めて歌うベースなら、           オレは隙間があってたまに自分がいなくなっちゃうこともある
リズム重視の踊るベースかな。こんなこと勝手に言って迫田は
怒るかもしれないな。いや、でも本当素晴らしいベーシストで
あり音楽家です。迫田は今6弦ベースを使ったりもするんです
が、オレは普通の4弦ですからそういう部分も違いますね。
 オレ自身も最近はやっと力を抜いた自然なプレイが出来るよ
うになってきました。ベーシストに限らずプレイヤーは誰もが
自己顕示欲の塊ですよね。勿論オレにもテクニックを見せたい
気持ちはあるんだけれど出来ない。自分の性格を変えられない
ように、結局のところ、楽器の演奏にも個人それぞれの性格が
出るのかもしれません。オレも歳を重ねてきて最近やっと何も
しない、禁欲的な演奏が出来るようになってきました。ホンク
でもそうですが、友部正人さんのバックで演奏する時も殆ど何
もしていません。なんか歌のチカラがある場合は、それを削が
ずに曲を一番美しく太くする表現方法がそれのような気がする
んです。人によっては我慢出来ずについ手を出してしまうとこ
ろも弾きません。
 ときどき「何でベースなんか弾いているんですか」とか「ア
ラケンさん、じゃんけんで負けた口ですか」なんて言う人がい
ますが、冗談じゃない。そのくらいベースの世界は深いんです。
まだまだ研究の余地がありますね。オレはラリー・グラハムと
チャック・レイニーが一番好きなんですが、ホンクでは本当に
に何もしていないんです。弦二くんのように詞や曲を作れるわ
けでもないしね。でもオレは弦二くんの世界を受け入れ、彼の
歌に寄り添うことが出来る。弦二くんの言うこと、語ることの
の理解者になれる。そういう意味でオレ自身はホンクという音
楽の絵の背景になれればいいなと思っています。

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ーー現在使用されているべースの機種を教えて頂けますか。

 はい。フェンダーのプレシジョン・ベースと、フリーダムの
ジャズ・ベースの2本を現在メインで使っています。プレシジ
ョンはこっちが何もしなくても語ってくれる大切なベースで、
20代前半の頃に買いました。フレットは打ち替えたりしている
んですが、1959年製だからオレより年上ということになります
ね。もう20年以上使っています。ジャズ・ベースのほうは逆に
何かをしたくなるベースです。あと最近はそんなに出番がない
のですが、G&Lのクライマックス・シリーズという日本にあま
り入ってきていないベースもたまに使います。このベースのい
いところは、どんな場所でもちゃんと聞こえることですね。こ
れを含めればメインのベースは3本です。

ーー「ハイウェイソング」などでは、音が伸びるエフェクター
を使用されていますね。あれは何というエフェクターなんです
か。

 ジェット・フェイザーです。ラリー・グラハムも使っていま
す。まあ”飛び道具”みたいなもので、アドレナリンは一気に
上がりますね(笑)。オレは基本的にはアンプに直結した装飾
のないベースの音が好きなんですが、部分部分で色合いを出す
ために、他にもいろいろなエフェクターを使っています。ジェ
ット・フェイザーはこの前(吉祥寺のスター・パインズ)の途
中で壊れてしまったんです。

ーーそのツアー・ファイナルで「社会のワレメちゃん」を演奏
されている途中、アラケンさんがちょっと指を痛めるような仕
草をされましたね。

 オレは一切ピックを使わずに指でべースを弾いているんです
が、あれは別にベースを弾いていて痛めたわけでは無くて、ひ
び割れが痛くて貼っていた絆創膏がベトベトして邪魔になって
きたので、「もうめんどくさい!痛くてもいいや」と思って途
中で剥がしたんです(笑)。ああ、そういうところもみんな見
てくれているんですね。

☆☆☆☆まだまだやりたいことはいっぱいある

ーーメンバー四人のなかではアラケンさんが一番ブラック・ミ
ュージックがお好きな方だという印象を受けます。

 オレに限らずみんなブラック・ミュージックは好きだと思い
ますよ。井上くんはブルーズが好きだしね。確かにオレは二十
代の頃ファンク・バンドをやっていたりもしたし、16ビートが
が好きというのはあるかもしれません。ベーシストにはブラッ
ク・ミュージックが好きな人が多いんじゃないかな。
 昔やっていたファンク・バンドを振り返ってみれば、ハッピ
ーになれるけどハッピーじゃないというか、いつまでも能天気
ではいられない自分を感じていました。ファンク・バンドの場
合は、ヴォーカルがよほど強烈なキャラクターでないと難しい
ような気がするし、演奏面でテクニックを重視していくとフュ
ージョン音楽のほうに流れてしまったりとか、そこら辺はちょ
っと違うなと思っていましたね。

ーー井上さんもこの前おっしゃっていましたが、ホンクの場合
四人がいい部分も悪い部分も徹底的に関わることが、バンドの
特徴みたいですね。客の一人としてこちらで聞いているぶんに
は、現在ひとつの頂点に差し掛かっているのかな、という印象
も受けますが、まだまだやりたいことはありますか。

 まだまだいっぱいあります。これから先この四人がもっと歳
を取ってからどうなっていくのかを見てみたい気がします。こ
れだけ長く一緒にバンドを続けていると、語らずとも互いのこ
とが解るんです。リハの時でも「今日はあいつ何だか様子が変
だぞ」とか、そういう調子の悪い時のことも全て含めてですね。
最高の時にはこっちがベースで適当にボン、ボン、ボンと鳴ら
したのが、クニくんのベードラとばっちりシンクロして「おお、
何だよ気持ち悪いなあ!」(笑)というくらいだったり。クニ
くんは自分のことは自分でよく解らないのかもしれないですけ
ど、やっぱ凄いです。そうだなあ、クニくんがハイハットの16
ビートを切る(刻む)のとかホント気持ちいい。例えば「はじ
まりのうた」にしても、そのリズムにはいろいろなヴァリエー
ーションがあるんですが、ちょっと不思議な位オレはぴったり
と一番馴染めるんです。そういう意味ではもはやホンクは音楽
というよりも何だろう? 宗教ではないけれども、一つの家族
のようなものかもしれませんね。演奏面では他の三人が宇宙人
です。四人のなかではオレが一番普通かもしれません。何もオ
レは選ばれた人間ではないですし、そこにたまたま配置された
という気持ちかな。

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ーーアラケンさんにとって『さよならカーゴカルト』はどんな
アルバムでしょうか。

 悲しさかもしれません。楽しさと悲しさがないまぜになって
いると思います。オビさんが以前、「冬眠」のクラベスを何故
オレが叩いたのかを質問されてましたけど、言い出しっぺがそ
の楽器をやってみただけのことです(笑)。

ーー今日はお忙しいところどうもありがとうございました。最
後に生涯のフェイヴァリット・アルバムを5枚挙げてみて頂け
ますか。

 こちらこそありがとうございました。このような機会を与え
て頂き、すごく感謝しています。好きなアルバムは勿論たくさ
んありますが、まずリッキー・リー・ジョーンズの『パイレー
ツ』、グラハム・セントラル・ステイションの『いかしたファ
ンキー・ラジオ』、それからアレサ・フランクリンの『ヤング
・ギフテッド・アンド・ブラック』かな。ダニー・ハサウェイ
の『ライヴ!』も勿論大好きなんですが今日は止めておきます。
そうだな、あとはジェフ・ベック・グループの『ラフ・アンド・
レディ』と、最後はやはりスライ&ザ・ファミリー・ストーン
のアルバムから選びたいです。『スタンド!』もいいけれど、
やはりデビュー作の『新しい世界』にしましょう。
 他にもベック・ボガード&アピスとか、オレはクライヴ・チ
ェアマンのベースも好きだから、ベック・グループの二期とか
ハミングバードのアルバムもいいですね。スティーリー・ダン
も好きだったけれど、最近はもうあまり聞かないなあ。あと、
小学生の頃は所ジョージが好きで、一枚目から五枚目まではア            ルバムを全部発売日に買っていました。子供の頃はオリビア・
ニュートンジョンが大好きでして、オリビアの『そよ風の誘惑』
なんかを聞いていました。LPに付いていたオリビアの等身大の
ポスターを部屋に貼ったりしてね(笑)。カーペンターズも好
きだったなあ。オレの場合女性ヴォーカルが好きっていうのも
あって、ロバータ・フラック、マレーナ・ショウ、ミニー・リ
パートン、ジョニ・ミッチェル、フィービー・スノウも好きで
す。日本ではサイクルズにいた森川亜希子さんやイトウサチな
ど、昔からのバンド仲間の女性ヴォーカルもやはり好きですね。


2012年3月30日 九品仏の庄屋にて
取材・文:小尾 隆
写真:Mr.Uta(すべてツアー・ファイナルの吉祥寺公演から)
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by obinborn | 2012-04-14 14:46 | インタヴュー取材 | Comments(0)  

ロング・インタヴュー、井上文貴(上巻)

およそ4年ぶりとなるサード・アルバム『さよならカーゴカルト』を発表した
東京ローカル・ホンクは、2011年の秋からレコ発のツアーを行い各地で好評を
博している。前身となるバンド、うずまきを含めればもう18年ほどのキャリア
を誇る彼らだが、その最新作に日本語ロックの成熟を感じた方々も少なくない
だろう。11年2月に行った木下弦二の取材に続いて、今回はツアーから一旦戻
ってきたばかりの井上文貴に話を伺った。
無口な彼をフロントマンの弦二がいじるというステージではお馴染みの"寸劇”
が微笑ましく言い含めるように、ホンクの四人のなかでは最も寡黙な印象を与
える井上だが、インタヴュー本番前には筆者を逆取材するなど案外お茶目で細
やかな気遣いを見せる。むろんけっして弁が立つというタイプではないのだが、
その言葉のひとつひとつには確かな実感が込められていた。クラスに一人か二
人は必ずいた内気な青年を懐かしく思い起こす方がいらっしゃるかもしれない。
その青年は学校の誰よりもギターが上手く、誰もいなくなった放課後の教室か
らいつも窓の彼方をすくっと見渡している。

    *      *      * 

☆楽しかったツアー

ーーレコ発の西日本ツアー、お疲れ様でした。東京で馴染みのお客さんたち
をまえに演奏するのとはまた違ったと思いますが、手応えはどうでしたか。

 京都では毎年のように演奏していますが、対バンしてくれたPirates Canoeが
温かく迎えてくれたこともあり、お客さんもいい雰囲気でした。九州は食べ物も
美味しかったし、初めて広島は福山にも行きました。
 今回は(マインズ・レコードの)レーベル・メイト、ヤセイ・コレクティヴと
と一緒の旅で彼らからの刺激も大きかったです。来年は初めて東北地方も回るん
ですが、知らないところでもっと演奏したいですね。
 Beautiful No Nameツアー(07年秋)などレコ発のライヴは過去にもありまし
たが、個人的には今回がレコ発を意識した初めてのツアーでした。というのも、
以前は自分たちがずっと演奏してきた曲をそのままやるという感じだったのです
が、今回はまだライヴであまり演奏したことのない曲も結構あって、それらの曲
に関してはツアーをしながら演奏を固めていくというのがあったからかもしれま
せん。ツアーの前、リハーサルの時間があまり取れなかったということもあり、
東京に戻った12月3日の渋谷B.Y.Gあたりでやっと形になってきたという気がし
ます。

ーーこの『さよならカーゴカルト』ツアーは来年春まで続くわけですが、今年の
ぶんは12月の東京ツー・デイズ(2日高円寺JIROKICHI、3日渋谷B.Y.G)でひと
まずファイナルでしたね。そのツー・デイズの演奏を聞いていて、東京ローカル・
ホンクが現在何度目かのピークにあると感じました。こうした演奏はやはり始ま
ったばかりのバンドには出来ないし、緊密な人間関係の上に成り立っている音楽
だと改めて痛感させられました。やはり長年一緒にやってきて達成感を覚えるこ
とはありますか。

 達成感というのではありませんが、この4人で今も音楽ができるという喜びみ
たいなものはありますね。バンドには色々なタイプがあると思いますが、自分た
ちの場合は徹底的に関わることで良い所も悪い所も消化してからじゃないと前に
進めないことがあったりして、時間はかかりますが少しずつ前に進むタイプなん
ですね。まだまだやれることが一杯あるし、そういったことを新鮮な気持ちでで
きるっていうのは、貴重なことだと思います。

ーー12月8日には原宿のクロコダイルでヤセイ・コレクティヴのワンマンがあり
ました。ぼくはその日はお伺い出来なかったのですが、井上さんはゲストでギター
を弾かれたみたいですね。ヒューマン・タッチの極限のようなホンクとエレクトロ
ニカのヤセイとでは音楽性がかなり違うと思うのですが、その点はどうでしょうか。

 そういった違いはあまり感じません。彼らの音楽がどういうジャンルになるのか
は解りませんが、バンド内での個々のあり方が面白いと思ったし、ホンクと遠くな
いとも感じました。あの日は彼らがホンクをイメージして書いたという「Country
Dad」という曲、これは彼らのアルバムにはまだ入っていないと思いますが、その
曲を一緒に演奏しました。そこで私は『さよならカーゴカルト』から「泥男」と「
鏡の中」のイントロ、そして「昼休み」の展開部のフレーズを彼らの変拍子のなか
に織り混ぜて弾きました。そうそう、導入部ではベーシストの中西道彦が「カミナ
リ」のベースラインをくずした形で弾いていました。

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01. 泥男   
02. 拡声器 
03. 自然ソング   
04. 鏡の中   
05. 冬眠   
06. お休みの日
 ☆  ☆
07.目と手
08.昼休み
09.おいでおいで
10.お散歩人生
11.はじまりのうた

☆☆自分なりに出したい音がある

ーー井上さんがステージで使用されているメインのギターを教えてください。

 はい。ミュージックマスターとスライド・ギター用のグヤトーンです。グヤト
ーンは改造してギブソンのハムバッキングのPUを装着しています。エフェクターは軽く歪ませるためのオーバードライヴなどを使っています。

ーー今回のアルバムでは「拡声器」「自然ソング」「冬眠」「おいでおいで」と4
曲でスライド・ギターを弾かれています。井上さんらしい控えめなフレーズで、
高音部が澄み渡ったきれいな音色ですね。

 自分なりに出したい音というのはあるんです。自分の持っている楽器とアンプ
の範囲内でいい音をいつも探すようにはしています。今回の『さよならカーゴカ
ルト』では「鏡の中」「お休みの日」「お散歩人生」では実はテレキャスターを
使っているんです。「お散歩人生」はカリカリとした方のギターがテレキャスタ
ーです。テレキャスターは一時期ライヴでも使っていたことがあるんだけど、リ
アのピックアップのどうしても暴れるようなハイの音が苦手で、フロントでしか
弾いていませんでした。でも今回は久し振りにアルバムの部分部分で少し弾いて
みました。「鏡の中」では、あえて(ピックアップの)リアの部分で弾いていま
す。あのフレーズはミュージックマスターでは生まれてこなかったと思う。それから「おいでおいで」のエンディング間際のスライドは、チャンドラーのストラトキャスターで弾いたものです。

ーー『さよならカーゴカルト』の録音に関するエピソードをもう少し聞かせて頂け
ますか。

 ファースト・アルバム(『東京ローカル・ホンク』05年)の際は久保田麻琴さん
にテイクの取捨選択まで関わって頂きましたが、今回は全てのテイクを自分たちホ
ンクのメンバーで選び、その上で麻琴さんにマスタリングとミックスをお願いしま
した。「冬眠」はそのファースト用に録音されたテイクですが、今回やっと初めて
アルバムに収録することが出来ました。この「冬眠」の録音の音がすごく良かった
ので、今回のアルバムでは核となって、アルバム全体をいかにこの曲へと近づける
かがテーマのひとつだった、と麻琴さんから聞いています。
 とにかく今回のアルバムは、自分たちのイメージする音と麻琴さんの感覚が初め
からぴったり合ったのが良かったとみんなで言っています。自分のギターのことを
言うと、「鏡の中」はディレイ・サウンドを前提にフレーズを組み立てましたが、
最終的にはディレイを通していない音になりました。”それがいい!”って他のメ
ンバーに言われてね。「昼休み」のソロにしても、採用されたテイクは試し録りし
ていた時のものです。また「目と手」に関してはもの凄い数のテイクを録音したの
ですが、最終的に使ったのはレコーディングの初期段階のテイクでした。弾けてる
弾けてないということよりも”なにか世界がある”っていうことを優先したので、
そのようなテイク選びになったんですね。

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(アルバムの発売に先行して「はじまりのうた」「目と手」「昼休み」と3曲を
ダウンロード配信で連続シングル・リリースするなど、ホンクは新しいメディアへ
の意欲的な取り組みを示した。いずれの曲もアルバムとは異なるヴァージョンに仕
上げられている)

ーー「はじまりのうた」はライヴでも終盤の山になるような重要な曲へと成長してい
きましたね。ベースとドラムスのシンクロ感はハイ・サウンドのようなメンフィス・
ソウル風味があるし、井上さんのギターもループ感が最高に気持ち良くって、後半
どんどん盛り上がっていきます。でも、この曲で井上さんがコーラスに加わっていな
いのは何故ですか?

 ただギターに集中したかったからです。あの曲では一切コードは弾いていなくって、
もう本当にメロディだけを繰り返し弾いています。あのメロディを元にしてギターの
フレーズを広げていく方向も考えたことはあるのですが、弦二さんから”この曲につ
いてはそのままにして欲しい”って言われました。というわけでピッキング・ハーモ
ニクスを元にしたあのフレーズは、あえてああいう禁欲的なものになっています(笑)。
でも、小尾さんは二声のコーラスだと物足りない?

ーーいや、気になったことはないよ。むしろ「目と手」の三声コーラスがより際立つ
というか、いいコントラストになっていると思います。確かにレコーディングで井上
さんのコーラスをオーバーダビングするという方法もあったかもしれませんが、あま
りライヴと違うアプローチをするのも不自然でしょうから。

 そういう意味では「おいでおいで」でも、自分はコーラスに参加していません。こ
の曲もやはりギターに集中したいからなんです。あまりライヴと違うことはやりたく
なかったしね。
(続く)

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photo by Takashi Obi
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by obinborn | 2012-01-28 02:55 | インタヴュー取材 | Comments(0)  

ロング・インタヴュー、井上文貴(下巻)

ーー井上さんのギターは極めて独創的です。何かお手本があってそれを研究するといっ
たタイプのギタリストとは違いますよね。たとえばエルモア・ジェイムズ「ダスト・
マイ・ブルーム」風の3連スライドを極めるとか、クラプトンのようにここでタメを作
ってここでシングル・ノートで一気に畳み掛けてとか、そういうヒーローを追い求め
ていくようなイメージをまったく受けません。

 逆に言うとそこが怖いところでもあるんです。オレはあまり誰かのコピーをしたこともないし譜面も読めないから、自分で自分なりの了解点を見つけるしかないんですが、そ
れが中途半端になってしまう危険性は常にあるわけです。ライ・クーダーは好きなギ
タリストですけど、あんなフィンガー・ピッキング、オレ出来ないから、、、。

☆☆☆エレクトリックのなかでも生音の響きを探している

ーーでしゃばらないギター、抑制されたフレーズ、歌と並走していくような表現力。
これが井上さんのギターだとぼくは思っています。

 そう言ってくれるのはすごく嬉しいのですが、オレ個人は合の手を入れられないタ
イプなんですよ。歌とギターとの関係で言えば裏メロ的にかぶせていくという感じだし、いわゆる既存の合の手というのはあまり得意じゃないし、できなかったりします。

ーー確かに井上さんはスタジオ・ミュージシャン的なあり方とは対照的ですね。

 自分はファビュラス・サンダーバーズのジミー・ヴォーンが好きで、彼を通して
ギター・スリムやジョニー・ギター・ワトソンを知って、彼らも大好きなんですが、
正直に言うと一番影響を受けたのは木下弦二のギターなんです。若い頃からずっと
スタジオに籠って、弦二さんと対面になってギターを弾いてきたから。

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photo by Takashi Obi

ーー「生きものについて」「社会のワレメちゃん」「カミナリ」などでは弦二さん
自身もバリバリとギター・ソロを弾き、それが井上さんのギターとうまく絡み合っ
ていますね。今日久し振りにうずまき時代の「カミナリ」を聞いてきたのですが、
現在とは違うアコースティック・サウンドでした。やはり曲の構成やアレンジはど
どんどん変化していくものなのでしょうか。

 そうですね。確かに当初「カミナリ」はアコースティックでやっていました。
クニさん(田中邦男)もフレーム・ドラムを叩いていたし。そうしたバンド・アンサ
ンブルに関しては、ライヴを重ねていくうち自然と現在のスタイルに辿り着いてい
きました。

ーー長尺ジャム・ナンバーの「カミナリ」はライヴでも人気の曲ですが、決めのフ
レーズや曲の骨格以外は全部即興の演奏ですか。

 曲の途中でぐちゃぐちゃになる部分とかはね。でも録音で完成していったフレー
ズというのもあって、いいのか悪いのかは解りませんが、そのフレーズにライヴの
場でも頼ってしまう部分はどうしてもあります。逆に違うものが出てくる時は、き
と新しい何かが生まれている訳で、そうした時はいい演奏になっていると思います。

ーー古い話になってしまいますが、『東京ローカル・ホンク』に収録されている「
遠い願い」では井上さんのソロではなく、オレンジ・カウンティ・ブラザーズの谷
口邦夫さんによるペダル・スティール・ギターが採用されています。これは久保田
麻琴さんの提案によるものなのでしょうか。

 どうだったかなあ~。もう忘れてしまいました。確か『喫茶ロックNow』のコン
ピレーション・アルバムに収録されていた方の「遠い願い」のヴァージョンでは
オレがギター・ソロを弾いていたんじゃないかな。いや、これも覚えていません(
註:実際井上さんが弾いている)。でも、曲が良くなるんだったら場合によりますが、
自分のソロじゃなくても構いません。


☆☆☆☆振り向いたらいつの間にか舟が岸を離れていてここまでやってきた


ーーもうかなり長い時間を東京ローカル・ホンクというバンドとともに歩んでこられ
ましたね。

 本当にそうですね。そもそもはうずまきの前身のゲクサというバンドのテープを
貰ってよく聴いていたんです(ゲクサという名前は木下弦二のゲ、田中邦男のク、
迫田敬也のサから取ったもの)。オレは当時別のバンドにいたのですが、そのオレの
バンドとゲクサとアラケンさん(新井健太)のバンドが同じライブハウスで揃うという時もありました。迫田さんが抜けていた時期に残りの二人とセッションのつもりで一緒に音を出していたのが、気がついたらずっと一緒にやるようになっていた。不思議ですね。振り向いたらいつの間にか舟が岸を離れていてここまでやってきた、という感じです。


ーー弦二さんはうずまき時代、小さな音に対する意識に取り組んだとおっしゃってい
ましたが、その点はいかがですか。

 あの頃は白金台のスタジオにずっと籠って、実験的なことをやっていた。前のバンドでもリハーサルを自分の家でやったりしてましたから、小さい音というのは自分にとって普通のことでした。アコースティックとか生音というのは、やはり本当はミュージシャンに
とって感情的にも盛り上がるし、やり易い環境だと思うんです。むしろアンプやPAを
通すといろいろなことが出来る反面難しいっていうか、選択しなければいけないことが
増えてしまうんですね。結局エレクトリック・サウンドのなかで生音の響きを探してい
るような部分もあります。

ーーそういえば「サンダル鳴らしの名人」もあの頃のレパートリーですね。

 今のライヴでは弦二さんのアコースティック・ギターとアカペラであの曲をやってい
ますが、以前は自分がウクレレを弾いていた時期もあったんです。またいつかウクレレ
を入れて演奏してみようかな。


ーーホンクの音楽は弦二さんが持って来た曲のデモを元に全員でふくまらせながら完成
させていく、基本的にはそんな風に考えてよろしいでしょうか。

 うん。でも他の三人のほうが先に音が固まって、オレの場合はみんなに待ってもらう
場合が多い。全体のサウンドのなかでギターがどう位置するかを決めたあと、できるだけ
削ぎ落とした形を考えると時間がかかってしまうんですね。

ーーところで、井上さんはオフの時どうされているんですか。

 何もないときはよく寝てます(笑)。

ーー今日はお忙しいなか、どうもありがとうございました。それでは最後に、井上さん
生涯のフェイヴァリット・アルバムを5枚ほど教えてください。

 今日はわざわざオレの家の近くまで来てくれてありがとうございます。そうですね、
最初はキッスとか、ハードな音楽をよく聞いていたなあ。そうしたものから次第に興味が変わってきた頃に出会ったのはライ・クーダーの『パラダイス・アンド・ランチ』、エリック・クラプトンの『ノー・リーズン・トゥ・クライ』、ダイアー・ストレイツのファースト、バッド・カンパニーのファースト、いやフリーの『ライヴ!』かな。別にこれらがフェイヴァリットっていう訳じゃないけど、やはり若い頃聞いたものって忘れられないですよね。オレ、高校を卒業してからはよく渋谷に出てレコードをジャケ買いしていたんです。その頃買ったものでは、アラン・ガーバーの『アラン・ガーバー・アルバム』が良かったです。
 あとは自分の父親が仕事の関係でけっこうサンプル盤を貰えて、それが家にわりとあっ
たんです。そのなかにエイプリル・ロートンがいたラマタムのセカンドとか、ダグ・サームの黄色いジャケットのやつ(Doug Sahm And Band)とかがあって、印象に残っています。
ダグ・サームはずっと後になってからよく聴くようになって、彼の『ホンキー・ブルーズ』でしたっけ? 長いタイトルの曲(「You Never Get Too Big And You Sure Don't GetToo Heavy, That You Don't Have To Stop And Pay Some Dues Sometime」)が入っているアルバムとかいいですね。父親のレコードではインディオのタバハラスという兄弟のギターデュオがクラシックを演奏しているLPとか、洋楽を日本語で歌ったクリスマス・アルバムも心に残っています。あと最近ではニューオーリンズR&Bのコンピレーションで英ACEから出た『Gumbo Stew』のシリーズでは赤いジャケのもの(第二集の『More Gumbo Stew』)がとくに好きで、そこに入っているプリンス・ララは最高ですね。

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2011年12月20日 武蔵小山cabeにて
取材・文 小尾 隆
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by obinborn | 2012-01-28 02:44 | インタヴュー取材 | Comments(0)  

ロング・インタヴュー、山本智志(その1)

ミュージシャンへの取材が3度続いたので、今回はやや視点を変えて編集者・音楽評
論家の方をご紹介しよう。ロック音楽を報道する立場で70年代からお仕事をされてき
た山本智志さんは、いわば音楽ジャーナリストの草分け的な存在だ。一見華やかそう
に見える音楽業界にあって、雑誌や書籍の編集という作業、あるいは音楽について書
くという行為はとても地味で裏方的なものかもしれないが、優れた音楽家や敏感な聞
き手たちほど見識あるジャーナリストに理解を示し、ある種の敬意を払う。佐野元春のツアーを記録した『ワン・フォー・ザ・ロード』(大栄出版 95年)や、仲井戸麗市との対話を纏めた『ロックの感受性ービートルズ、ブルース、そして今』(平凡社新書 02年)、『アサイラム・レコードとその時代』(音楽出版社 06年)などの著作でも知られる山本さんにお話を伺った。互いの都合もあってメールでの長い”筆談”となってしまったが、30年以上に及ぶ氏のキャリアをこの機会に振り返って頂いた。

  *        *        *

☆アルバイトから始まった『ニューミュージック・マガジン』の仕事


ーーまずは山本さんの自己紹介と経歴を教えて頂けますか。

  1951年、札幌生まれです。このあいだ60歳になりました。地元の高校を卒業したあと1年浪人して、1971年に大学進学を機に上京したんですが、大学在籍時に「ニューミュージック・マガジン」(現ミュージック・マガジン) でアルバイトを始め、そのまま会社に居着いたという感じです。
 大学2年のとき、意を決してニューミュージック・マガジン社を訪ねたんです。上京したら一度マガジン社を訪ねてみようと思っていたので。創刊当初から熱心に読んでいたニューミュージック・マガジンがどんなところで作られているのか、どんな人たちが作っているのか、ずっと興味があったんです。当時、マガジン社は渋谷の桜丘町の坂の上にあった。渋谷駅から5、6分のところです。マガジン誌の最後のページに会社の地図が載っていたのでそれを見ながら行ったんですが、なかなか見つけられなくて、あたりをぐるぐる回ったあげく、ようやくマガジン社が入っている古い5階建てのマンションを探し当てました。
 編集部はその5階の一室で、ドアをノックしたら女性が出てきた。もうドキドキで、息が苦しいくらいだった。電話もせずに突然やってきた学生に彼女も戸惑っていましたが、こっちも必死でした。しどろもどろになりながらなんとか自己紹介をして、「一度訪ねてみたいと思っていたんです」と言ったら、「じゃあ、どうぞ入って」と言ってくれて、コーヒーまで出してくれました。ちょうど編集室でドアーズの『アブソルートリー・ライヴ』がかかっていて、マガジン誌のレコード評で木崎義二さんがそのアルバムについてどう書いていたかを話したら、「きみはマガジンをよく読んでいるんだね」と感心された。どんなロックが好きか、いまのマガジンをどう思うかなど、編集部の人にいろいろ聞かれました。ぼくも聞きたいことがたくさんあったはずなのに、ほとんどなにも聞けず、帰りしなに「もしアルバイトの仕事があったら、ぜひやらせてください」と頼むのが精一杯でした。それから何週間かあと、マガジン社から電話があって、アルバイトができることになったんです。
 仕事は、マガジン誌の配本や郵便物の発送、レコード会社などへのお使い、編集室の掃除や電話番など、いろんなことをやりました。週に3日くらい通っていたかな。とくに仕事がないときには、編集室の壁一面を埋めたレコード棚からアルバムを抜き出しては、初めのうちこそ「これ、聴いてもいいですか」と編集部の人に断っていましたが、そのうち勝手に片っ端から聴いていました。
 給料日には経理の人が茶封筒に入った現金を渡してくれました。銀行振込みじゃなかった時代です。毎月、その日は仕事が終わるとまっすぐ日本楽器の渋谷店に向かい、次に買おうと決めていたLPレコードを2枚買いました。日本盤は1,800~2,000円、アメリカ輸入盤は2,200~2,400円、イギリス盤は2,800~3,000円くらいしていたと思います。当時の物価からすればレコードはひどく高価なものでしたが、本にせよレコードにせよ、自分で働いて得たお金で欲しいものが買えるという喜びは格別でした。親からの仕送りは受けていましたが、自分が少し社会に足を踏み入れたような気がしてうれしかったですね。次第に下宿とマガジン社の往復が主になり、大学にはあまり足が向かなくなりました。このころは、そんな東京でのひとり暮らしをいきいきと過ごしていたという幸せな記憶があります。

ーーそれからやがて社員になられるのですね。

 アルバイト生活が1年くらい続いたあと、編集長の中村とうようさんのアシスタントというか、雑用係として雇われたんです。そのころ、とうようさんは「ブルース・フェスティバル」の企画制作やマガジン増刊号の発刊など、編集長としての仕事以外に個人としてもいろいろやろうとしておられたので、手伝いが必要だったんだと思います。とうようさんに命じられて、たとえば野口久光さんや藤井肇さん、福田一郎さんといった著名な音楽評論家たちや、レコード会社やキョードー東京のお偉方に連絡したり、書類を届けたり、ということをするようにもなったので、なにか自分がアルバイト時代にくらべてもぐっと成長したような、充実感がありました。大学を辞めたのはそのころです。
 とうようさんの下で1年あまり働いたあと、1975年に編集部員として正式にニューミュージック・マガジン社の社員にしてもらいました。北中正和さんが編集部を離れ、音楽評論家として独立するということになった時期で、「アルバム・レヴュー」や「ランダム・ノーツ」など、北中さんが担当していたページの何割かを引き継ぎました。もちろん編集という仕事をなにも知らずに編集部員になったわけで、校正のしかたなど、北中さんや他の編集部の人たちから多少教えてもらったとはいえ、ほとんどぶっつけ本番で仕事を覚えていったようなものでした。
 筆者の人たちからなかなか原稿をもらえなかったり、徹夜で入稿作業をしたりと、締め切り間際はけっこう大変でしたけれど、やりがいがあったし、楽しかった。それまで読者の立場だった自分が、マガジンの誌面を通して名前だけはよく知っていた音楽評論家の人たちにじかに会って原稿を依頼できるなんて、もう、舞い上がるような気分でした。ロックが好きでマガジン社に入ったわけですけれど、そこで編集という仕事のおもしろさや楽しさも知りました。
 70年代はロックに活気があったし、仕事を通して本当にたくさんの音楽を聴くことができたのも幸運でした。海外アーティストも相次いで来日しましたしね。ジェスロ・タル、ロリー・ギャラガー、ニール・ヤング、イーグルス、ロッド・スチュアート&フェイシズ、エリック・クラプトン、リオン・ラッセル、ジャクソン・ブラウン、リトル・フィート、ボニー・レイット、リンダ・ロンスタット、マリア・マルダー、グレアム・パーカー&ザ・ルーモア、エルヴィス・コステロ……。多くの初来日公演を観ることができました。マガジン社で働くようになる前には、フリー、レッド・ツェッペリン、シカゴ、ジェイムス・テイラーなどのコンサートを観ています。
 フリーは初めて観た外国のロック・グループです。忘れもしない1971年5月1日、深夜12時過ぎからはじまったオールナイト・コンサートでした。大手町のサンケイホール。本当にすごいライヴでした。上京して1か月しか経っていなかったぼくの海外ロック・グループのライヴ初体験で、しかも連中はぼくとさほど齢も違わなかったので、大きなカルチャー・ショックを受けました。

☆☆試行錯誤しつつもフリーランスの道へ

ーーそれでも、せっかく就職したマガジン社を退社された理由は何だったのでしょう。


 マガジン社には1980年の夏までいました。在籍期間は5年半くらいです。当時、マガジン誌は誌面刷新が急務でした。売り上げ部数が落ち込みはじめていましたし、レコード会社の宣伝も音楽専門誌が主体ではなくなってきて、広告収入も減少していました。編集方針の面でも、ロックの低迷やヒップホップ・カルチャーの誕生など、新しい動きへの対応が求められていた。でも、ぼくはいわば“マガジンの守旧派”で、と言っても守旧派はぼくひとりだったんですが、それまでのマガジン誌の色にしっかり染まっていたので、編集会議などでしばしば他の編集部員と意見が対立しました。とうようさんにもずいぶん楯突いたりしましたし。そんな状態が1年近く続いたあと、マガジン社で定年を迎えるなんて考えられないし、このままここにいるよりもどこか小さな出版社に入れてもらって、童話の本かなにかを作れるようになればいいなあ、などと都合のいいことを考えて、マガジン社を辞めました。29歳のときです。
 残念なことに、というか当然のことながら、お世話になろうと思う出版社とは巡りあえず、失業保険の支給期間も終わってしまい、さて、どうしようという毎日が続くと、さすがに不安や焦りを感じました。子どももいたのでとにかく生活費を稼がなくてはならず、とは言ってもできることは原稿書きくらいしかないので、音楽雑誌から取材記事や新譜紹介の仕事をもらったり、アルバムのライナー・ノーツを書かせてもらったり、ということを始めるようになりました。あとは編集雑務の下請け仕事をやったりして食いつないだ、という感じですけど、それってつまり、いまとほとんど同じなわけで、そんな感じで30年あまりやってきたことになります。初めて書いたライナー・ノーツはシー・レヴェルのアルバム『Ballroom』でした。1980年の秋だったかなあ。これからどうしようとため息をついていたぼくに、当時フォノグラムの洋楽ディレクターだったWさんが、ライナー・ノーツを書かないかと言ってきてくれたんです。あのときは本当にうれしかった。いま読むと恥ずかしくなるような文章ですが、ぼくにとって記念すべき最初の仕事です。
(続く)
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by obinborn | 2012-01-21 06:53 | インタヴュー取材 | Comments(8)  

ロング・インタヴュー、山本智志(その2)

ーー読者の方のなかには編集というお仕事がなかなか具体的に
 思い浮かばない人もいらっしゃるかもしれません。実際にはど
 ういうお仕事なのかを簡単に説明して頂けますか。

 単行本と雑誌とでは多少仕事の中身が異なりますが、基本的には編集というのは、記事のテーマを考え、原稿を依頼し、締め切りまでに原稿をもらうという仕事です。もちろん、必要な資料や写真を集めたり、写真家やイラストレイターに仕事を依頼したり、デザイナーに本文のレイアウトなど誌面のデザインをしてもらったり……。入稿したあとは校正を何回かやって、校了に持っていく。社外編集者としての雑誌の仕事はそれでひとまず終わりです。書籍の場合は、その後の印刷屋さんや製本屋さんとのいろんなやりとり、本ができたあとの取次店や書店対策、そしてプロモーション計画など、仕事はまだ続くし、ときには予算の確保・管理という大きな責任を引き受けることもあります。
 でも、一番楽しいのは、どんな記事を作ろうかと考え、その原稿をだれに書いてもらおうかと考えているとき。そのあと、筆者に会って原稿を依頼し、その内容についていろいろ打ち合わせをしているとき。そして、原稿を受け取って、それを“最初の読者”として読むときです。とくに3番目は役得というか、本当にうれしい。いまのようにメールに添付して原稿を送信してもらうのではなく、筆者と会って直接“生原稿”を受け取り、その場で読ませてもらうんです。読んだ感想も直接伝えるわけで、その緊張感も好きだった。「ここはもっと突っ込んで書いたほうがいいのでは」とか、「この段落はちょっとわかりにくいですね」とか、注文を出すこともありました。そう言われて筆者がどう思ったかはわかりませんが、ぼくはそのやりとりも楽しかった。まして、「こういう記事が読みたかったんです」とお礼を言いたくなるような原稿をもらったときは、本当にうれしいものです。

☆☆☆佐野元春との出会い

ーー山本さんといえば佐野元春を初期から聞いてこられた良き
 理解者としても知られています。まずは佐野さんとの出会いに
 ついて教えてください。

 ニューミュージック・マガジンを辞めたあとのぼくに目を掛けてくれていた音楽雑誌の編集長がいて、ある日、何か仕事がないかと彼に会いに行ったんです。1981年のことです。編集部でいろいろ話しているうちに、彼が「きみならきっと気に入ると思うんだが」と机の引き出しから1本のカセット・テープを取り出して、聴かせてくれた。それが発売前のシングル「サムデイ」でした。一度聴いたあと、もう一度聴かせてもらいました。それまでずっとおしゃべりをしていたのに、曲がかかっている間はふたりともほとんど無言でした。その曲にぼくはすっかり魅せられてしまった。そのカセットをその場でコピーしてもらい、家に帰ってからも繰り返し聴きました。そして、聴いているうちに、「この男に会わなくてはいけない」と思いました。
 翌日、エピック・レコードに電話をして、親しくしていた宣伝担当者に「佐野元春に会えないか」と頼んだんです。そうしたら彼は、「お、いま、ちょうど佐野のマネジャーが来ているから聞いてみるよ。ちょっとこのまま待ってて」と、電話を保留にした。そして1分か2分もしないうちに電話に戻ってきた。「OKだってさ」という返事でした。マネジャー氏に電話が代わり、あっけないほど簡単にインタヴューの日時と場所が決まった。ぼくはまだ駆け出しのフリーランス・ライターで、雑誌に自分のページを持っているわけではなかったし、インタヴューさせてもらってもその記事をどこに書けるか、当てがあるわけではなかった。それでもマネジャー氏はインタヴューの申し入れを受けてくれたんです。いくら佐野元春がまだビッグ・ネームというわけではなかったとはいえ、おおらかな時代でした。
 佐野元春に初めて会ったときのことは、いまでもはっきりと覚えています。ニュー・シングル「サムデイ」のことはもちろん、すでに発表されていた2枚のアルバムのこと、デビューまでの紆余曲折やデビュー後も悪戦苦闘の連続だったこと、ライヴのこと、ソングライティングのこと、日本のロック状況や好きな英米のロックのことなどを、ぼくらは与えられていたインタヴューの時間をはるかに超えて話し合いました。そして、長いインタヴューの割には短い原稿を2本、「サムデイ」を聴かせてくれた編集長の音楽雑誌と週刊誌の音楽コラムに書きました。
 佐野元春の印象は、初めて会ったそのときも30年経ったいまも、ほとんど変わりません。ぼくの質問をじっと聞いて、それにじっくりと答える彼の態度や口調が、なんていうか、とても新鮮で、かつ不思議な感じがしました。この人は英語で考えて、それを頭の中で日本語に翻訳してしゃべっているのではないか、と思ってしまうような、独特の口調がとくに印象的で、まるで日本語の上手な海外アーティストにインタヴューしているような気がしたほどでした。しかも彼の話はひとつひとつがとても明快で、インタヴュー・テープを起こしても、彼の発言には言葉を整理したり補足したりする必要がほとんどなかった。われわれ、原稿書きや編集者にとってこれほどありがたいことはないですよね。そのまま記事や見出しが作れるんですから。ニューミュージック・マガジン時代を含めて、それまで取材を通じてそんな日本のミュージシャンに会ったことはありませんでした。

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☆☆☆☆佐野元春を聞く理由


ーーそのような出会いから今日まで佐野さんの音楽を見守り続
 けてこられたわけですが、彼の音楽のどういう部分に惹かれて
 こられたのでしょうか。

 どういう部分に惹かれたか、ですか。うまく答えられないかもしれません。ただ、はっきり言えることは、佐野元春の新しいアルバムを聴くたびに、そこに収められた曲はぼくにいろいろなことを考えさせる。何度か聴くうちに、その曲について考えてしまう。それは詞のある1行についてだったり、歌の主人公のことだったり、イントロがもたらすイメージについてだったり。ブリッジに入ってゆくときの昂揚感、耳を捕らえる転調、独白といった感じのうたいかたや感情を撒き散らすようなシャウト……。とにかく、彼の曲を聴くと、いろんなことについて、つい考えを巡らせてしまうんです。
 多分、佐野元春というロック・アーティストのソングライティングにおける作家性に、いつもぼくの関心は向かってしまうのだと思います。その最初の体験が「サムデイ」であり、「ロックンロール・ナイト」でした。あの2曲がぼくを捕えて放さなかった。佐野元春はとても自覚的に、フィクションとしてのロックの楽曲を書き続けてきた。そんな彼の歌の中に浮かび上がるロックのロマンティシズムとでもいったものに、ぼくは強く引きつけられたんだと思います。
 佐野元春に対する評価はいろいろあるでしょうが、ぼくは彼の音楽をためらいなく「日本語のロック」と呼ぶことができる。それが佐野元春を聴き続けてきた一番の理由かもしれません。彼の楽曲は総じて“洋楽的”で、一部は“翻訳小説”のようでしたが、そうした点もぼくは好んだのかもしれません。それまで友部正人や鈴木慶一など、何人かの同世代のアーティストの歌に強い共感を覚えたことはありましたが、自分よりも年下のミュージシャンの歌をそんなふうに聴いたことはありませんでした。
 ロックであること――いまどきそんな価値基準を後生大事に抱えている奴がいるなんて滑稽だと言われるかもしれませんが、ぼくにとってロックと呼べる音楽かどうかということは、いまも大事なんです。もちろん、いい音楽はロック以外の分野にもたくさんあるし、80年代以降ロックが輝きを失ってしまったのはたしかですが、だからといってロックを卒業してほかの音楽を聴くということはぼくにはできなかったし、したくなかった。そう思っていたときに佐野元春を聴いたというのは大きかったのかもしれません。

ーー70年代も後半になるとロックはどんどん産業化が進み、一方でパンク/ニューウェイ
ヴのようなロックの体制内批判といった新しい動きも出てきました。またジョン・レノン
に関して言うと、彼の新しい歌 「もう一度始めてみようよ(Starting Over)」が届いたば かりだった80年の冬のある日、悲劇的な結末を迎えてしまいます。
当時を振り返ってみると、いわばロックの荒野が広がりつつあったように思うんですね。
それは荒野であり砂漠であったかもしれません。佐野元春のレコード・デビューは80年
の3月でしたが、ぼくにとって彼の音楽はまるで枯れかけた花に水を注ぐ、そんな勇敢で
向こう見ずな行為のように映りました。

 それはぼくもまったく同感です。話が逸れますが、ニューミュージック・マガジンを辞めるまでの1年あまり、編集部内でのぼくと他の編集部員の意見の対立というのも、そうした点にあったのかもしれません。ロックがつまらなくなっていくなか、そんなつまらないものを聴くくらいならもっとほかの素晴らしい音楽を聴け、と言わんばかりにワールド・ミュージックや歌謡曲やその他の音楽に誌面の多くを割くことには同意できなかったし、それが誌面刷新だとも思わなかった。ロックがつまらなくなったからといって、さっさとほかの音楽に乗り換えるというのでは、創刊から10年間、ロックを啓蒙し続けてきたニューミュージック・マガジンの責任はどうなるのかと、ぼくは主張しました。第一、それまでもマガジンはけっこうつまらないロックも紹介してきたではないか。それと同じことを今度はほかの音楽の分野でやろうというのか。そういう議論でした。たとえばポスト・パンクなどの新しい動きを伝える記事を作るべきだし、つまらないロックの現状をきちんと指摘する記事も作っていかなくてはならないのではないか。そう思っていました。
(続く)
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by obinborn | 2012-01-21 06:51 | インタヴュー取材 | Comments(0)