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カテゴリ:blues with me( 40 )

 

オールマン・ブラザーズと私

しかし中学〜高校と進むにつれて自分の手持ちのLPが
5枚から10枚へと少しずつ増えていくのは、これから
未来を開いていくようなドキドキ感があって、今から
振り返ればいいものでした。よく知り合いの(尊敬す
る)音楽家たちに「生涯の5枚は?」なんて訊くので
すが、そういう時に相手がどうしても音楽体験の初期
に接したアルバムを選んでしまうのは、最も多感だっ
た時期に聞いたが故、記憶の底にしっかり刻まれてい
るからでしょう。

私がオールマンズを知ったのはデュエイン・オールマ
ンとベリー・オークリィーが相次いで事故死してから
のことであり、その悲劇を乗り越えて再出発した『ブ
ラザーズ&シスターズ』(73年)が最初に買った彼ら
のレコードでした。シングル・カットされた「ランブ
リン・マン」が73年の9月に全米チャートの第2位に
輝き、またオールマンとデッドとザ・バンドで60万人
を集めたワトキンス・グレンのコンサートがウッドス
トック・フェスの集客を超えたと話題になった頃です。
そんな情報は所沢の田舎に住む私にもラジオを通して
伝わってきたのでした。

最初にA面一曲めの「虚しい言葉」を聞いた時は、デ
ィッキー・ベッツが弾くダル丸出しのスライドギター
の印象が強く「何てもっちゃりとした音なんだ!」と、
エッジの効いたブリティッシュ・ロック(クリーム、
フリー、ジェフ・ベック・グループ)と比べてしまい
ひどく落胆させられました。まだ自分には”ファットな
横揺れ”なんていう語彙はありません。しかしそのイモ
で田舎臭い音楽が、以降の私の音楽嗜好を明確にして
いったのですから面白いですよね。

デュエインに代わるギタリストをあえて補充せず(レ
ス・デューイックの「ランブリン・マン」へのゲスト
参加はありますが)、新たにチャック・リーヴェルの
ピアノを迎えたことからも解る通り、ギター中心のジ
ャム・バンド指向が弱まった一方、グレッグ・オール
マンの、あるいはディッキー・ベッツのヴォーカルを
聞かせようというソング・オリエンテッドな姿勢を感
じます。とくにボビー・ブランドで知られる曲をグレ
ッグが歌うブルーズ・ナンバー「ジェリー・ジェリー」
は感動的。ここら辺の良さは加齢ごとに染みまくるよ
うな気がします。とっくに当時の彼らの年齢を自分は
超えているのにね(笑)

以前もブルーズの古典的な名曲「ストーミー・マンデ
ィ」を取り上げていたオールマンズ。しかしながら原
作者であるT・ボーン・ウォーカー版というよりは、ボ
ビー・ブランドのヴァージョンに近い彼らの歌と演奏
を耳にしていると、メイコンで育ったオールマン兄弟
の音楽地図がくっきり見えてくるようです。そう、リ
チャード・マニュエルがそうであったように、グレッ
グ・オールマンもまたボビー・ブランドやレイ・チャ
ールズに憧れた青年の一人だったのです。

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by obinborn | 2017-01-26 18:02 | blues with me | Comments(0)  

真冬のカーレン・ダルトン

今日は寒かったのでカーレン・ダルトン。言わずと知れた
ウッドストックならでは手作りの質感と幽玄的なヴォーカ
ルの取り合わせが頂点に達している。30歳ちょっと過ぎの
カーレンがまるで達観した老女のように歌っている。湿性
フォークの先駆として今なお語り継がれているのは、そん
なミステリアスな存在感ゆえだろう。とくにザ・バンドの
IN A STATIONが秀逸。ジョージ・ジョーンズのカントリー
TAKE MEからマーヴィン・ゲイのR&B曲HOW SWEEET
IT ISまでの広角な選曲、2つのバンジョー・チューンの枯
れすすきのような味わいも格別で、SAME OLD MANでは
ホーリー・モーダル・ラウンダーズのスティーヴ・ウェバ
ーがアレンジを担当している。またアルバムの随所で印象
的なヴァイオリンを弾くボビー・ノコトフは、ザ・ロケッ
ツ〜初期クレイジー・ホースの作品でもおなじみだ。

ちなみに本作にフレッド・ニールはこんな讃辞を寄せてい
る「カーレンは60年代初期に私が自分のスタイルを模索す
る最中で最も影響を受けた重要なシンガーです。ある夜私
は彼女をヴィレッジのクック・アンド・ブル(のちのビタ
ー・エンド)に連れていきました。カーレンは私のBLUES
ON THE CEILINGを歌ったのですが、あまりにも感情を込
めて歌ったので、作者の私でさえその曲を作ったのは彼女
ではないか?と思うほどでした」

フレッド・ニールが言うように「他人の曲を自分の歌のよ
うに歌う」点に、カーレンの美点が凝縮している。そんな
彼女に引き寄せられるように、プロデューサーのハーヴェ
イ・ブロックス(エレクトリック・フラッグ〜ファビュラ
ス・ラインストーンズ)が貢献した。エイモス・ギャレッ
ト、ポール・バタフィールド、ジョン・ホール、ジョン・
サイモン、リチャード・ベル、ビル・キースetc...といった
ニューヨーク〜ウッドストック・エリアの演奏家たちが脇
を固めた。カーレン・ダルトンの『IN MY OWN TIME』は
そんな時代のモニュメントであり、その輝きが失われるこ
とはないだろう。

ジョン・ホールは言う「カーレンの歌に合わせてギターを
弾くのは大変だった。彼女のヴォーカルは限りなく飛翔し、
どこに着地するか予想出来ない種類のものだったからね」
フレッド・ニールの讃辞とともに、ジョン・ホールによる
回想(聞き手は筆者・99年)もまた、カーレンの歌唱を上
手く捉えていた。

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by obinborn | 2017-01-21 02:03 | blues with me | Comments(0)  

音楽に罪はない

そもそも何でぼくが差別問題を書くのかといえば、ぼく自身
が外国に行った際に蔑まれたことがあったからだ。サンフラ
ンシスコではJAP!と、ロンドンではYELLOW,GO HOME!と
言われた。むろん、逆に現地の人々との温かい交流もあった
けれど、局地的にこういう言葉を浴びせられたことはぼくに
人種を考えるきっかけを与えてくれた。昔の『ミュージック・
マガジン』にはニューオーリンズのクラブにミーターズを観
に行ったら冷たくされたという日本人の投書があったけ。そ
れらには世界大戦の傷跡があり、血塗られた植民地主義の痕
跡があり、”愛と平和”というスローガンでは到底埋めること
が出来ない、歴史の生々しい現実を感じずにはいられない。

差別撤廃をイシューに掲げて行進するのではなく、普段の暮
らしのなかで克服していく、というのがぼくの大まかな社会
的な態度である。実際に育った環境や生活風習が違う人種を
理解し合うのは難しく、綺麗ごとだけでは済まされない。そ
れらを公明正大な価値観や友愛の精神だけで解決出来るとは
思えない。こう言っては誤解を招くかもしれないが、ロンド
ンでもパリでも人種ごとに居住区の棲み分けがあるのは、彼
らのアイデンティティの保持であり、生き抜いていくための
知恵だろう。画一的なユートピアを夢見るほうがかえって気
味悪い。

この数年ぼくの心を曇り空のように占めているのは、普段は
交流のある韓国や中国の人たちと、ひとたび国家単位の問題
(靖国や慰安婦)になると、何故あれほどまでに意見が二分
してしまうのか?ということだった。日本人が犯した罪を認
めつつ、一方では何故いつまでも謝罪しなくてはならないの
か?もう十分謝ったではないか?という気持にもなる。

その点音楽は素晴しい。人種差別がとりわけ激しかった60年
代のアメリカ南部でも、マスルショールズのスタジオでは黒
人と白人が協力し合って幾多のレコードを作った。メンフィ
スではブッカー・T&MG'sのような黒白混成チームがスタッ
クス・サウンドに貢献した。アメリカン・サウンド・スタジ
オではボビー・ウーマックとレジー・ヤングが腕を競った。
アラバマでのウィルソン・ピケットとデュエイン・オールマ
ンの出会いなどは、最も美しい異人種同士の邂逅だろう。そ
のことをずっと忘れずにいたい。

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by obinborn | 2017-01-04 16:44 | blues with me | Comments(0)  

『ブルース&ソウル・レコーズ』誌の最新号に寄せて

『ブルース&ソウル・レコーズ』最新号が届く。特集は
ストーンズの『ブルー&ロンサム』。幾人かのライター
たちが各自の視点からこの”温故知新”作を検証し、言葉
を寄せているが、どうしても知り合いのお二人の文章か
ら読み進めてしまう。私とほぼ同世代と思われる妹尾み
えは「ソロ回しに頼らない」ストーンズ解釈のリトル・
ウォルター曲を、シンバル・ワークまで模したジミー・
リード曲を称える。一方で飲みダチの日向一輝はどうだ
ろう。彼はエディ・テイラー曲のストーンズ演奏につい
て「一発録りゆえ、ミックの歌唱部分にハープはない」
ことを指摘し、だからこそ、そこにブライアンの存在を
感じまくるのだと語る。いずれもブルースを深く聞き進
めてきた者ならではの洞察だ。だが彼らはマニアックな
地点に着地するのではない。妹尾はブルースをエンター
ティメントまで昇華させたストーンズの姿を評価する。
日向は一生懸命なミック・ジャガーの歌とハープに比喩
ではない青さを感じ、遥か年長者の音楽に驚愕する。

音楽について書かれた文章はそれこそピンからキリまで
ある。優れた評論が何であるか、また誰が書いたものか
どうかは意見が分かれるだろう。しかし、真逆にあるバ
ータ記事は多い。なかには音楽専門誌よりも一般新聞や
メガショップの広告誌のほうが遥かに身入りがいい!と
公言するクソ音楽評論家もいるくらいだ。そうした醒め
た(諦めた)認識が跋扈するなか、終始気持良く『ブル
ース&ソウル・レコーズ』誌を読み進めた。むろん音楽
を聞きながら。そう、今夜の私の友はジミー・リードの
『I'M JIMMY REED』だ。レコード・プレイヤーは二度
めのHONEST I DOを再生し、やがてB面にあるLITTLE
RAINを奏でてゆく。

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by obinborn | 2016-12-26 01:26 | blues with me | Comments(0)  

ありがとう、ボビー”ブルー”ブランドさんへ

今日(18日)は隣町・東長崎のクレオール・コーヒーに行き、
ボビー・ブランドの『Come Fly With Me』(abc 78年)を購
入しました。今さらと怒られそうですが、これメチャクチャ
良いですね!デューク/ピーコック時代のブランドがブルーズ
・ファンの”聖典”であることはむろん間違いないのですが、も
っと柔らかくなった彼の姿に出会えるという意味で、この通称
ブランコ・アルバムはまさに鉄板だと確信するに至りました。

もう少し具体的に言うと、リズムのヴァリエーションが広くな
り、時に使用されるエレピの柔らかな音色や女声コーラスも効
果を上げています。そういう意味ではよりソウルに接近したブ
ランドの姿に立ち会えます。デューク時代には殆ど見受けられ
なかった例の”うがい歌唱”も随所に押し出され、以降のマラコ
時代へと自然に繫がっていきます。新たにスタックスの社主と
なったアル・ベルのプロデュース。西海岸からナッシュヴィル、
さらにシカゴ、テキサスまで足を伸ばしたレコーディングから
は、新しい時代にどう対応しようか?というブランドの試行錯
誤とチャレンジングと孤独が密かに聴こえてくるようです。同
時代のオーティス・クレイやシル・ジョンソンの動きと比較し
てみるのも一興ですし、メンフィスで育ったソウル・チルドレ
ンがドン・ディヴィスと出会い、シカゴ録音の大傑作『FINDE
R KEEPERS』を作り上げたことなどを思い起こしてしまいま
した。

若い頃はよく理解出来なかったブランドの音楽が、今では毎日
の”きしみ”のように染み渡る。互いに悪意なんか全然ないのに、
レコード屋さんの話題を交わしただけで、「元カノは今も元気
で良かったなあ〜」と思う反面、まるで癒えていない古傷のよ
うな痛みを運んでくる。音楽とはきっとそういうものだろう。
ありがとう、ボビー・ブランドさん。ぼくはあなたの歌が大好
きです。

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by obinborn | 2016-12-18 18:50 | blues with me | Comments(0)  

ローリング・ストーンズ『ブルー・アンド・ロンサム』に寄せて

『ブルー&ロンサム』は収録曲の半分しか知らない音楽評論家を
青ざめさせ、ブルーズ愛好家を意気揚々とさせるブルーズのカバ
ー・アルバムだ、と昨日書いた。その気持にいささかも変わりは
ない。ビギナーや一般的なリスナーはともかくとして、少なくと
も公の場で文章を書いている音楽ライターや評論家だったら、最
低でも半分は原典作品を知っていなきゃ。そんな意味を込めた。

実際のところ、ぼく自身も”青ざめた”書き手の一人だった。勿論
個々のアーティストに関してはレコードを持ち、それぞれの音楽
性を把握していたのだが、楽曲単位での記憶という点ではおぼつ
かないものが少なくなかったのだ。ブルーズという音楽の構造上
個々の楽曲の識別が難しいという側面を考慮したとしても、実に
脇が甘いと言わざるを得ない自分を呪った。

そのように『ブルー&ロンサム』は激渋のブルーズ集となってい
る。例えばハウリン・ウルフであれば「44 Blues」や「Evil」もし
くは「Smokestack Lightnin'」、リトル・ウォルターだったら「
My Babe」や「Off The Wall」あるいは「Mellow Down Easy」と
いったナンバーが看板だろうが、そうした犬でも知っているよう
な(手垢に塗れた)作品を外し、もう少し地味な選曲を心掛けた
様子が伝わってくる。シカゴ・ブルーズを軸にライトニン・スリ
ムのルイジアナ・サウンドまでに足を伸ばす。そんなストーンズ
が魅力的だ。

それにしてもミック・ジャガーの精気に満ちたヴォーカルやブル
ーズ・ハープはどうだろう。とても70歳を超えたおじいさんの姿
とは信じられない。むろん他の三人にしても、生き生きと活気漲
る演奏を繰り広げている。原点回帰と言ってしまえばそれまでだ
が、やはりローリング・ストーンズという母船が帰っていく場所
とは、ブルーズという大きな港なのだろう。若さに物を言わせて
いた時期をとっくにやり過ごし、年齢と闘いながら築いてきた長
い道のり。もしかしたら彼らのそうした歩みこそがブルーズだっ
たのかもしれない。老練したロック・バンドの現在地点として、
これほど正直で誠実なアルバムは他にないだろう。今ぼくはそん
なことを思い始めている。

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by obinborn | 2016-12-03 07:29 | blues with me | Comments(0)  

追悼:モーズ・アリソン〜TELL ME SOMETHING

今年も様々な音楽家が亡くなった。世紀の変わり目というのは
このように10数年経ってから初めて意識されるものなのかもし
れない。それは親しかった者の不在が、慌ただしく興奮状態の
葬儀前後ではなく、半年くらいしてからやっと突然実感される
のと似ている。20世紀を彩った多くの偶像たちの退場。何だか
寂しいね。

モーズ・アリソンは50~60年代にプレステッジ、コロンビア、
アトランティックなどに結構な量のレコードを残しているけれ
ど、本人も参加したトリビュートに近いアルバムとしては、96
年に発売された『TELL ME SOMETHING:THE SONGS OF MO
SE ALLISON』をお薦めしたい。ヴァン・モリソン、ジョージィ
・フェイム、ベン・シドランと”大人の粋”を知り尽くした三人
が、大先輩であるモーズの歌を歌い、敬意を込めたナイスな作
品だ。

むろんモーズがこだわったスモール・コンボによる無駄のない
シンプルな演奏が用意され、幾多のモーズ・ソングスが最高の
形で再提示されるといった塩梅。彼の歌(その多くはぼやき節
やほろ苦い人生訓話)がザ・フー、カクタス、ボニー・レイッ
ト、ザ・ルーモアなど数多くのロック音楽家によって広まった
ことも忘れられない。この『TELL ME SOMETHING』では、
ポール・バターフィールドもベターデイズ時代に取り上げたIF
YOU LIVEが最もお馴染みだろうか?軽妙洒脱で足回りのいい
シャッフル・ビートのなか、ベン・シドランが憂いのヴォーカ
ルを、ジョージィ・フェイムが腹八分目のハモンド・オルガン
を弾く会心の演奏だ。さぞかし作者モーズはご満悦だったろう。

青年時代にはよく解らなかったモーズ・アリソンの良さが、今
では五臓六腑に染み亘る。やっとのことだ。ぼくの経験も人生
もまだまだだね、ミスター・モーズ。享年89歳。いままであり
がとうございました。

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by obinborn | 2016-11-16 13:09 | blues with me | Comments(0)  

クラン・レコードの平野実さんを偲ぶ

何の変哲もない私鉄沿線の町にその店はあった。今や伝説として
語られる輸入レコード店・クランのことだ。テックス・メックス
とルイジアナのスワンプ・ポップ&ザディコを看板にした同店は、
いつしか人と人の交差点となり、何人かのミュージシャンやライターを輩出していった。その渦の真只中にはいつも店主の平野実さんがいらっしゃった。今や故人となってしまった彼をクランの思い出とともに偲びたい。そう、1978年から2008年までの30年、平野さんはずっと店を支え続けたのだった。

☆      ☆      ☆

開店は78年 当初は当時潮流だったSSW~スワンプ・ロックを中心に掛けるロック喫茶だった

私が最初に行ったのは79年の夏 初めてのリクエストは『ジェシ・ウィンチェスター』

リクエストはLPの片面単位ごと あの頃はこうした店が主流だった

トム・ウェイツ『クロージング・タイム』をフルで流す夜も

西武池袋線江古田駅北口から約5分 三叉路前の青梅(現:西京)信用金庫が店の目印だった

コーヒーは豆を挽いていた 値段は250~300円前後と記憶する

夜は次第に呑み屋へと変化  私はサントリーホワイトのボトルをよく入れていた

美味しかったフードはボルシチ ごく初期にはカレーも置いていたらしい

まだSNS環境がない時代 店に置かれた一冊のノートが「つぶやき」の場だった

渋谷のブラックホークを意識してか、月曜夜に英トラッドを聞く会を開催

トイレには「ウンコは家でしましょう」の張り紙が

店では野良猫がよく平野さんに懐いていた 心温まる風景だった

マチケン(町田謙介)、クランでソロ・ライブ

友部正人が自主制作盤『何でもない日には』販促のため来店

湯布院のSSW通販店タンボリンと親交 「田圃林通信」を配布

八王子のロック喫茶「アルカディア」と親交  「アルカディア通信」を配布

常連の長谷雅春氏、「ビール・ストリート」~「レッドビーンズ(赤豆報)」と自らミニコミで大活躍

私(小尾)のミニコミ「ハックルバック」にも平野氏は寄稿して
くださった

当初から委託中古盤などを扱っていたが、やがて輸入盤専門レコード店へと方向転換

Pヴァインがチェスの権利を獲得した80年代前半頃から、同社と取り引き開始

平野氏、本格的な音楽体験のため、幾度かテキサスへと旅立つ

スワンプ・ポップに着眼 大河シリーズ『ジェイ・ミラー・セッションズ』を取り扱う

フラーコ・ヒメネスの貴重なインディー録音盤をがっつりと輸入

ジョー・キング・カラスコやバックウィート・ザディコら新世代もいち早く紹介

ロス・ロボスのメジャー・デビュー作『AND A TIME TO DANCE』を輸入 音楽メディアなど各方面に衝撃を与えた

ファビュラス・サンダーバーズやリロイ・ブラザーズも積極販売

スティーヴ・レイ・ヴォーン来日時には「SRV公演のため本日臨時休業」の張り紙も

サニー・ランドレスが帯同したジョン・ハイアット来日公演のため臨時休業

スティーヴ・ジョーダンやフレディ・フェンダーの輸入盤を国内配給開始 ライナーも平野氏(ときにペンネームの黒岩姓で)担当

アコーディオンやラブボードといった楽器、スラック・キーの教則本、ルイジアナ音楽研究の第一人者であるジョン・ブローヴェンの著作なども販売 音楽ファンから信頼を得る

ダグ・サームのビデオ上映会を開催 小型テレビ画面で見せられた

レコを買うとポイント制の割引券(茶色の名刺サイズ)が貰えた

レア盤の購入には、例えば¥2,800円プラス割引券20枚要というハードルあり

そのハードルでリードーシーのポリドール盤やSDQのマーキュリー盤を購入した思い出も

ブレイヴ・コンボのカール・フィンチ、来日時のステージで招聘の平野氏を讃える

平野氏、『ミュージック・マガジン』『レコード・コレクターズ』に幾つかの記事を寄稿

『ミュージック・マガジン』の連載で店が紹介される

山崎直也、中山義雄といった鋭い感性の音楽評論家諸氏も店を愛した

さらにチカーノ・ラップのカセットまで取り扱うマニアックぶりを発揮

この頃からクレイジー・ケン・バンドの横山剣氏と親交

90年代後半からは古着や中古オーディオ機器の扱いも始める

平野さんは配線回路に詳しく、機械の修理にも長けていた

クラン閉店は2008年の春 とくに告知はぜず、粛々と

平野さんは常に無口で淡々とした風情 「世間に動ぜず」が基本姿勢だったように思える

私が最後にお会いしたのは2014年秋のスクイーズボックス・ナイト
お元気そうだったのに…

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by obinborn | 2016-11-01 18:36 | blues with me | Comments(0)  

追悼:バックウィート・ザディコ


バックウィート・ザディコ(スタンリー・デューラル)が癌
のため亡くなりました。遅ればせながら何枚かの所有盤を持
ち出してきて追悼しています。クリフトン・シェニエが60〜
70年代を通してザディコ音楽を広めたスターだとすると、バ
ックウィートはその後、80年代以降のザディコを牽引してい
く存在でした。当初はサニー・ランドレスも所属していた地
元南ルイジアナのレーベル、ブルーズ・アンリミッテッドで
ローカルな活動に甘んじていたバックウィートでしたが、や
がてブラックトップやラウンダーといったルーツ音楽に理解
のある白人向けの中堅レコード・カンパニーと契約しながら、
音楽の幅を広げていきました。87年には何と大手のアイラン
ドへと移籍してファンを驚かせます。折しもこの頃は、ワー
ルド・ミュージックの全盛期。ザディコというルーラルな音
楽をもっと広めたい!というクリス・ブラックウェルの思惑
も容易に想像されます。正確な時期はもう忘れてしまいまし
たが、確か90年前後に初来日した際の公演を私は渋谷のクア
トロで観ていたのでした。

今聞いているのはブラックトップを経てラウンダーに移籍し
た最初のアルバム『TURNING POINT』〜84年です。アルバ
ム表題曲はタイロン・ディヴィスの代表的なノーザン・ソウ
ルのカバーであり、このようにR&B/ソウルの有名ナンバーを
取り上げ、ザディコ音楽としてリアレンジするアプローチが
バックウィートにはとくに顕著でした。どこまでレーベルが
主導するアイディアだったのか、それとも本人による選択だ
ったかは解りませんが、少なくとも音に接している限り、私
には親しげに語り掛けてくる気持を感じます。まあ逆にザデ
ィコというクレオール(フランス系入植者とルイジアナ黒人
との混血)文化にどこまでも学究的〜フォークリリックな態
度を求める方々には、適さなかったのかもしれません。

「ぼくの父は本物のフランス人でした。ぼくの家庭ではフラ
ンス語で会話するのが当たり前の環境でした。当時はクリフ
トン・シェニエくらいしか、ぼくたちフランス系クレオール
が聞ける音楽はなかったんです。やがてぼくは自分でザディ
コを演奏し始めました。父親には”学校に行け!”と言われま
したけど、ぼくはやがてファッツ・ドミノやリトル・リチャ
ードに夢中になりました。71年になって本格的にバンドを組
む頃には、クール&ザ・ギャングやアース・ウィンド&ファ
イアそしてパーラメントなどのファンク・ジャズも聞いてい
ましたよ」(『TURNING POINT』のライナーに於けるバッ
クウィートの回想より)

音楽が何よりも混血文化であることを身を持って示してくれ
たバックウィート・ザディコさん、本当にありがとうござい
ました。あえてバックウィート(黒ん坊という蔑称。ガーラ
ンド・ジェフリーズの歌に「俺をバックウィートと呼ぶな」
という人種問題を告発した歌があるほど)という芸名を用い
ながら、ザディコとR&Bとロックを分け隔てなく歌い演奏し
続けたバックウィート・ザディコ。私はあなたの理解者であ
りたいと願っています。

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by obinborn | 2016-10-05 17:26 | blues with me | Comments(0)  

ビリー・バトラーとともに、夕暮れ時を。

今日は昨日とは対照的に暑い日でした。それでも夕暮れが早く
なり何となく秋を実感する時期になりました。というわけで
さっきレコ棚からアットランダムに引っぱり出してきたのが、
ビリー・バトラーのセカンド・アルバム『GUITAR SOUL!』
(プレステッジ 69年)です。私が所有しているのはOJS(オリ
ジナル・ジャズ・シリーズ)の廉価リイシュー盤で、あの懐か
しい西武百貨店系列のWAVEの値札が貼ってあるので、恐らく
90年代に池袋の同店で購入したものだったと推察されます。

私がビリー・バトラーというジャズ・ギタリストを知ったのは、
彼が昨日紹介したビル・ドゲット・コンボに在籍してからであ
り、およそ55年から60年にかけてビリーはビル・ドゲットたち
とともに初期のキャリアを磨いていきます。そういう意味では
ジャズというよりもR&Bテイストをルーツに持つ人だったのか
もしれません。そんなビリーはやがてビル・ドゲット・コンボ
から独立しソロ活動へと転じます。ブルーノートと並ぶジャズ
の名門レーベル、プレスティッジに招かれた彼は大いに自信を
深め、メルヴィン・スパークスやブーガルー・ジョーンズとと
もに同レーベルお抱えのセッション・ギタリストとして活躍し
始めるのでした。

この『GUITAR SOUL!』はそんなビリーのリーダー・アルバム
第二弾です。まず驚かされるのがA面冒頭の超ファンク・ナン
バーBLOW FOR THE CROSSING。彼は何とワウワウ・ペダル
を駆使しながら、69年前後のジミ・ヘンドリクスと同期するよ
うなエグいプレイを展開しているのです。スペックス・パウエ
ルのファットバック・ドラムスが俄然映えるのも、こうしたフ
ァンク曲ゆえでしょう。ボブ・ブッシュネルのフェンダー・ベ
ースとの絡みも効果的。かと思えばA2曲のGOLDEN EARRIN
GSと、B4のAUTUMN NOCTURNE/YOU GOT MY HEADでは
まるでジャンゴ・ラインハルトのようなジプシー・ジャズを奏
でるのですから多面的ですね。さらにラテン・ビートの応用と
いう50年代からジャズと親和性が高い領域については、B面3
曲めB&B CALYPSOのお遊びを、余裕でこなしていきます。

それでもビリーのルーツとなるのは、やはり圧倒的にR&Bな
のでしょう。かつて同じ釜の飯を喰ったビル・ドゲットの看板
曲HONKY TONKを堂々とB1に配していることが何よりの証明
です。ちなみにこのHONKY TONKというR&Bインストを私が
最初に聞いたのは、ロギンス&メッシーナのカバー・アルバム
『SO FINE』(コロンビア 75年)でした。ボビー・ダーリンか
らハンク・スノウ、クライド・マクファッター、エヴァリーズ、
チャック・ベリー、さらにクリス・ケナーまで幅広くセレクト
したこの盤は、私のハイスクール・イヤーズの聖典でした(出
来ればもっと評価して欲しい!)

「ビリーは踊るヴァイオリンのようにギターを弾く。あるいは
自ら歌うようなギターを奏でる。私は彼に尋ねた”きみにはどん
なメゾットがあるんだい?するとビリーは答えた”きみが何かを
掴み取った時に自分自身であればいいんだよ。別にそれがラジ
オ局と取り引きする時に、価値あることでなくともさ!”」

1969年の11月に記されたラリー・カートのライナーノーツには
そんな記述があります。ビル・ドゲットのR&Bコンボに在籍し
つつも、チャーリー・クリスチャンの甘美なシングル・ノート
に憧れ、またジャンゴ・ラインハルトとT.ボーン・ウォーカー
を視界に収め、恐らくジミ・ヘンドリクスの台頭も意識してい
たのでしょう。そんなことを思い浮かべながらこの『GUITAR
SOUL!』を聞いていると、当時の音楽状況(ロックとジャズとR
&Bのシンクロナイズのようなもの)が、はっきり浮かび上がっ
てくるのです。

世間一般ではあまり評価されていないビリーですが、彼が60年
代というワン・ディケイドの混沌のなかにあって、『GUITAR
SOUL !』のような名作を残したことにひたすら感謝しています。
あ〜、夕暮れが迫ってきました。

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by obinborn | 2016-10-04 18:02 | blues with me | Comments(0)