<   2012年 01月 ( 28 )   > この月の画像一覧

 

1月30日

飯館村の住民は現在福島県内外で避難生活を送っている。
県の借り上げ住宅に避難している人々からは「なんで仮設住宅のほうばかりに
支援物資がいくのか」という不満の声が上がっている。いずれの場合も家族全員
で住んでいる家庭は50%に満たない(子供だけ県外に避難させる家庭が多いから)。
収入は当然減り、睡眠がうまく取れず、アルコールや煙草に依存する人も増えている。
人の心を蝕むのは何よりも先が少しも見えないことなのだ。
県内に留まる人と県外へ避難した人との間には埋められない溝も生まれてきた。
ある住民は言う。「飯館村のことを思うと悲しくなり涙が止まらない。途方に暮れ
不安になる。子供が突然涙を流し”早く帰りたい”と言う」



ある家族は中学生と小学生の子供を山形県に避難させ、親である自分たちは
飯館村に残った。週末に子供に会いに行くが別れの時間はすぐやってくる。
両親が車のバックミラーを見ると、女の子が泣きながら自転車で追いかけてきた。
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by obinborn | 2012-01-30 19:07 | rock'n roll | Comments(2)  

1月29日その2

 グレイトフル・デッドでぼくがイメージするのは、いつも長距離の夜行列車のこと。
その列車はポートランドにも行くし、ダラスにもテュペロにも行く。
 寒いケベックへと向かうかもしれないし、温かいニューオーリンズまで南下するか
もしれない。 
 列車のなかではボブ・ウェアがギターを弾いている。フィル・レッシュがメガネを
拭いている。ビル・クレイツマンとミッキー・ハートがトランプをしながらふざけて
いる。ジェリー・ガルシアがスティームの音を聞いている。              ある駅で新しい乗客(ファン)が汽車に乗り込むのも自由で、次の駅でひとまず降りるのもむろん構わない。列車というのは具体的なツアーとともに、音楽や世代そして歴史の継承といった比喩として。デッドという名の列車が走る線路ごしにはずっと汽笛が鳴り響いていて、ぼくはそれをいつも聞いている。そんな広くて大きなイメージかな。

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by obinborn | 2012-01-29 23:16 | one day i walk | Comments(0)  

1月29日

昨日中村まりのライヴに行く前にいつも通り中古レコード店の老舗、フラッシュ・
ディスク・ランチを訪ねた。開店は82年。当時から通っていた店だけに今も元気
で椿さんが働かれている姿を見ると何だかこっちまで元気が出てくる。CDは一切
置かず、アナログ盤の仕入れルートはすべてアメリカ現地での直接買い付け。世界
的レベルから見ても、今やこんなレコード店はかなり貴重なのではないだろうか。

昨日は約60分しか持ち時間がなく店内をすべて見ることは出来なかったが、久し
振りに充実した捕獲が出来たのでご報告しよう。
まずはR&B/ソウルの7'sから行こう。300円〜800円のシングル盤コーナーは
新入荷もあり大充実の一日だった。

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中央下から時計回りに
ジョー・テックス「If Sugar Was As Sweet As You」ミリアム・マケバ「Pata Pata」
オリンピックス「Good Lovin'」タイロン・ディヴィス「Turning Point」J.J.ジャクソン
「But It's Alright」アーロン・ネヴィル「Tell It LIke It Is」と計6枚。
楽曲としてはテックスをロックパイルが、オリンピックスをヤング・ラスカルズ、デッド
が、ディヴィスをデヴィッド・リンドレーがカバーしている。白眉はアーロンのParlo盤
だろうか。これはBサイドの「Why Worry」も素晴らしい。マケバ「Pata Pata」はレア・
グルーヴの古典として知られる。

さて、LPは今回一枚だけ購入しました。

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写真上が今回フラッシュで入手したカナダstone盤(SX3702)

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こちらがUKオリジナルのFontana盤( TL5295)

私はスペンサー・ディヴィス・グループの熱心なコレクターなのだが、
彼らのセカンド・アルバムをカナダ盤で初めて見つけた。とは言っても英盤セカンドとは
一曲を除いてすべて選曲が違う。チェックし始めたらこれはシングル・ヒット
「I'm A Man」(67年1月英9位、4月米10位)をトップに置き、他の曲は彼らのシングル
やアルバムから独自(というか勝手)にセレクトした非常にレアなもの。
音楽はむろん気風あるビートと野心に満たされている。問題はグループ名だけで、
これはやはりスティーヴィ・ウィンウッド・グループと名付けるべきだった(笑)。

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創業30年のフラッシュさん、これからも応援します!
さて、ワシはこれから日課のウォーキング90分をこなし、それから飲みじゃ^0^
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by obinborn | 2012-01-29 16:29 | one day i walk | Comments(0)  

1月28日

ソロとしては今年初めてのライヴとなる中村まりを、下北沢のleteにて。

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昨年はロンサム・ストリングスとのツアーが忙しかった中村だが、こうして
ソロのワンマンをじっくりと味わうのは久し振りだ。
しかも会場は彼女のホームとも言うべきlete。狭い空間故に親密感溢れるこの
場所での弾き語りである。ぼくは駆け付けずにはいられなかった。
意外かもしれないが、中村がleteで演奏するのは実に昨年2月以来のこと。

過去2枚のアルバムからのオリジナル・ソングスにポール・マッカートニー
「Mother Natures Son」やロン・セクスミス「God Loves Everyone」を
加え、ブルーズの古典からはビッグ・ビル・ブルーンジー「Key To The
Highway」を、伝承歌からはウディ・ガスリーからエリザベス・コットンまで
が歌った「Going Down The Road Feeling Bad」と、この夜はまさに
ベスト・オブ・中村まりといった選曲。加えて最近練習しているというバ
ンジョーも持ち出し一曲披露するという贅沢な全21曲だった。とくに自身
によるハーモニカを加えながら続けた終盤の3曲「Our Blue」「Good Eno
ugh For Me」「Going Back To My Home」の染み入るような情感には思わ
ず息を呑むほど。そこには幾多も歌われてきたトレイン・ソングの系譜が
折り重なってゆく。そう、過去と現在が自然と結び目を作るように。

また珍しくもブルーズ語法のひとつである一音下げチューニングの秘密を
明かしつつ「Lonesome Valley Blues」をじわりと聞かせるなど、この夜
は静謐な表現がとくに際立っていた。一日の終わりにそっと寄り添うような
「When The Day Is Over」、ハーモニカが温かい「Hold A Little Hand」、
そして掌に残ったものを確かめるような「Still In The Sun」と、三曲のまだ
スタジオ・レコーディングが為されていない曲も、ステージを重ねるごとに
その枝を次第に伸ばしていくようだった。

あまりの寒気で駅で待つ手は震えかじかむほどのものだったが、そんな
真冬の夜の何処かにも中村まりの歌はひっそりと羽根を休めながら、まるで
精霊の如くどこまでも静かに静かに宿っていった。

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中村まり(Vocal And Martin 000−18)
(pt. 1)
1. A Brand New Day
2.Little House
3.Mother Nature's Son
4.Black Eyed Suzan
5.Key To The Highway ( accompany with Harmonica)
6.If Only I Had Known
7.Hold A Little Hand (aw/ Hmc)
8.Little Blue Day ? (aw/ Banjo)
9.Peace Of Mind
10.When The Day Is Over

(pt .2)
1.Grow To The Sun
2.Sleep Well
3.There's No Point
4.Lonesome Valley Blues
5.God Loves Everyone
6.Going Down The Road Feeling Bad
7.Still In The Sun
8.Night Owls
9.Our Blue (aw/Hmc)

〜〜
e1.Good Enough For Me (aw/Hmc)
e2.Going Back To My Home (aw/Hmc)
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by obinborn | 2012-01-29 02:41 | 中村まり | Comments(2)  

ロング・インタヴュー、井上文貴(上巻)

およそ4年ぶりとなるサード・アルバム『さよならカーゴカルト』を発表した
東京ローカル・ホンクは、2011年の秋からレコ発のツアーを行い各地で好評を
博している。前身となるバンド、うずまきを含めればもう18年ほどのキャリア
を誇る彼らだが、その最新作に日本語ロックの成熟を感じた方々も少なくない
だろう。11年2月に行った木下弦二の取材に続いて、今回はツアーから一旦戻
ってきたばかりの井上文貴に話を伺った。
無口な彼をフロントマンの弦二がいじるというステージではお馴染みの"寸劇”
が微笑ましく言い含めるように、ホンクの四人のなかでは最も寡黙な印象を与
える井上だが、インタヴュー本番前には筆者を逆取材するなど案外お茶目で細
やかな気遣いを見せる。むろんけっして弁が立つというタイプではないのだが、
その言葉のひとつひとつには確かな実感が込められていた。クラスに一人か二
人は必ずいた内気な青年を懐かしく思い起こす方がいらっしゃるかもしれない。
その青年は学校の誰よりもギターが上手く、誰もいなくなった放課後の教室か
らいつも窓の彼方をすくっと見渡している。

    *      *      * 

☆楽しかったツアー

ーーレコ発の西日本ツアー、お疲れ様でした。東京で馴染みのお客さんたち
をまえに演奏するのとはまた違ったと思いますが、手応えはどうでしたか。

 京都では毎年のように演奏していますが、対バンしてくれたPirates Canoeが
温かく迎えてくれたこともあり、お客さんもいい雰囲気でした。九州は食べ物も
美味しかったし、初めて広島は福山にも行きました。
 今回は(マインズ・レコードの)レーベル・メイト、ヤセイ・コレクティヴと
と一緒の旅で彼らからの刺激も大きかったです。来年は初めて東北地方も回るん
ですが、知らないところでもっと演奏したいですね。
 Beautiful No Nameツアー(07年秋)などレコ発のライヴは過去にもありまし
たが、個人的には今回がレコ発を意識した初めてのツアーでした。というのも、
以前は自分たちがずっと演奏してきた曲をそのままやるという感じだったのです
が、今回はまだライヴであまり演奏したことのない曲も結構あって、それらの曲
に関してはツアーをしながら演奏を固めていくというのがあったからかもしれま
せん。ツアーの前、リハーサルの時間があまり取れなかったということもあり、
東京に戻った12月3日の渋谷B.Y.Gあたりでやっと形になってきたという気がし
ます。

ーーこの『さよならカーゴカルト』ツアーは来年春まで続くわけですが、今年の
ぶんは12月の東京ツー・デイズ(2日高円寺JIROKICHI、3日渋谷B.Y.G)でひと
まずファイナルでしたね。そのツー・デイズの演奏を聞いていて、東京ローカル・
ホンクが現在何度目かのピークにあると感じました。こうした演奏はやはり始ま
ったばかりのバンドには出来ないし、緊密な人間関係の上に成り立っている音楽
だと改めて痛感させられました。やはり長年一緒にやってきて達成感を覚えるこ
とはありますか。

 達成感というのではありませんが、この4人で今も音楽ができるという喜びみ
たいなものはありますね。バンドには色々なタイプがあると思いますが、自分た
ちの場合は徹底的に関わることで良い所も悪い所も消化してからじゃないと前に
進めないことがあったりして、時間はかかりますが少しずつ前に進むタイプなん
ですね。まだまだやれることが一杯あるし、そういったことを新鮮な気持ちでで
きるっていうのは、貴重なことだと思います。

ーー12月8日には原宿のクロコダイルでヤセイ・コレクティヴのワンマンがあり
ました。ぼくはその日はお伺い出来なかったのですが、井上さんはゲストでギター
を弾かれたみたいですね。ヒューマン・タッチの極限のようなホンクとエレクトロ
ニカのヤセイとでは音楽性がかなり違うと思うのですが、その点はどうでしょうか。

 そういった違いはあまり感じません。彼らの音楽がどういうジャンルになるのか
は解りませんが、バンド内での個々のあり方が面白いと思ったし、ホンクと遠くな
いとも感じました。あの日は彼らがホンクをイメージして書いたという「Country
Dad」という曲、これは彼らのアルバムにはまだ入っていないと思いますが、その
曲を一緒に演奏しました。そこで私は『さよならカーゴカルト』から「泥男」と「
鏡の中」のイントロ、そして「昼休み」の展開部のフレーズを彼らの変拍子のなか
に織り混ぜて弾きました。そうそう、導入部ではベーシストの中西道彦が「カミナ
リ」のベースラインをくずした形で弾いていました。

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01. 泥男   
02. 拡声器 
03. 自然ソング   
04. 鏡の中   
05. 冬眠   
06. お休みの日
 ☆  ☆
07.目と手
08.昼休み
09.おいでおいで
10.お散歩人生
11.はじまりのうた

☆☆自分なりに出したい音がある

ーー井上さんがステージで使用されているメインのギターを教えてください。

 はい。ミュージックマスターとスライド・ギター用のグヤトーンです。グヤト
ーンは改造してギブソンのハムバッキングのPUを装着しています。エフェクターは軽く歪ませるためのオーバードライヴなどを使っています。

ーー今回のアルバムでは「拡声器」「自然ソング」「冬眠」「おいでおいで」と4
曲でスライド・ギターを弾かれています。井上さんらしい控えめなフレーズで、
高音部が澄み渡ったきれいな音色ですね。

 自分なりに出したい音というのはあるんです。自分の持っている楽器とアンプ
の範囲内でいい音をいつも探すようにはしています。今回の『さよならカーゴカ
ルト』では「鏡の中」「お休みの日」「お散歩人生」では実はテレキャスターを
使っているんです。「お散歩人生」はカリカリとした方のギターがテレキャスタ
ーです。テレキャスターは一時期ライヴでも使っていたことがあるんだけど、リ
アのピックアップのどうしても暴れるようなハイの音が苦手で、フロントでしか
弾いていませんでした。でも今回は久し振りにアルバムの部分部分で少し弾いて
みました。「鏡の中」では、あえて(ピックアップの)リアの部分で弾いていま
す。あのフレーズはミュージックマスターでは生まれてこなかったと思う。それから「おいでおいで」のエンディング間際のスライドは、チャンドラーのストラトキャスターで弾いたものです。

ーー『さよならカーゴカルト』の録音に関するエピソードをもう少し聞かせて頂け
ますか。

 ファースト・アルバム(『東京ローカル・ホンク』05年)の際は久保田麻琴さん
にテイクの取捨選択まで関わって頂きましたが、今回は全てのテイクを自分たちホ
ンクのメンバーで選び、その上で麻琴さんにマスタリングとミックスをお願いしま
した。「冬眠」はそのファースト用に録音されたテイクですが、今回やっと初めて
アルバムに収録することが出来ました。この「冬眠」の録音の音がすごく良かった
ので、今回のアルバムでは核となって、アルバム全体をいかにこの曲へと近づける
かがテーマのひとつだった、と麻琴さんから聞いています。
 とにかく今回のアルバムは、自分たちのイメージする音と麻琴さんの感覚が初め
からぴったり合ったのが良かったとみんなで言っています。自分のギターのことを
言うと、「鏡の中」はディレイ・サウンドを前提にフレーズを組み立てましたが、
最終的にはディレイを通していない音になりました。”それがいい!”って他のメ
ンバーに言われてね。「昼休み」のソロにしても、採用されたテイクは試し録りし
ていた時のものです。また「目と手」に関してはもの凄い数のテイクを録音したの
ですが、最終的に使ったのはレコーディングの初期段階のテイクでした。弾けてる
弾けてないということよりも”なにか世界がある”っていうことを優先したので、
そのようなテイク選びになったんですね。

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(アルバムの発売に先行して「はじまりのうた」「目と手」「昼休み」と3曲を
ダウンロード配信で連続シングル・リリースするなど、ホンクは新しいメディアへ
の意欲的な取り組みを示した。いずれの曲もアルバムとは異なるヴァージョンに仕
上げられている)

ーー「はじまりのうた」はライヴでも終盤の山になるような重要な曲へと成長してい
きましたね。ベースとドラムスのシンクロ感はハイ・サウンドのようなメンフィス・
ソウル風味があるし、井上さんのギターもループ感が最高に気持ち良くって、後半
どんどん盛り上がっていきます。でも、この曲で井上さんがコーラスに加わっていな
いのは何故ですか?

 ただギターに集中したかったからです。あの曲では一切コードは弾いていなくって、
もう本当にメロディだけを繰り返し弾いています。あのメロディを元にしてギターの
フレーズを広げていく方向も考えたことはあるのですが、弦二さんから”この曲につ
いてはそのままにして欲しい”って言われました。というわけでピッキング・ハーモ
ニクスを元にしたあのフレーズは、あえてああいう禁欲的なものになっています(笑)。
でも、小尾さんは二声のコーラスだと物足りない?

ーーいや、気になったことはないよ。むしろ「目と手」の三声コーラスがより際立つ
というか、いいコントラストになっていると思います。確かにレコーディングで井上
さんのコーラスをオーバーダビングするという方法もあったかもしれませんが、あま
りライヴと違うアプローチをするのも不自然でしょうから。

 そういう意味では「おいでおいで」でも、自分はコーラスに参加していません。こ
の曲もやはりギターに集中したいからなんです。あまりライヴと違うことはやりたく
なかったしね。
(続く)

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photo by Takashi Obi
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by obinborn | 2012-01-28 02:55 | インタヴュー取材 | Comments(0)  

ロング・インタヴュー、井上文貴(下巻)

ーー井上さんのギターは極めて独創的です。何かお手本があってそれを研究するといっ
たタイプのギタリストとは違いますよね。たとえばエルモア・ジェイムズ「ダスト・
マイ・ブルーム」風の3連スライドを極めるとか、クラプトンのようにここでタメを作
ってここでシングル・ノートで一気に畳み掛けてとか、そういうヒーローを追い求め
ていくようなイメージをまったく受けません。

 逆に言うとそこが怖いところでもあるんです。オレはあまり誰かのコピーをしたこともないし譜面も読めないから、自分で自分なりの了解点を見つけるしかないんですが、そ
れが中途半端になってしまう危険性は常にあるわけです。ライ・クーダーは好きなギ
タリストですけど、あんなフィンガー・ピッキング、オレ出来ないから、、、。

☆☆☆エレクトリックのなかでも生音の響きを探している

ーーでしゃばらないギター、抑制されたフレーズ、歌と並走していくような表現力。
これが井上さんのギターだとぼくは思っています。

 そう言ってくれるのはすごく嬉しいのですが、オレ個人は合の手を入れられないタ
イプなんですよ。歌とギターとの関係で言えば裏メロ的にかぶせていくという感じだし、いわゆる既存の合の手というのはあまり得意じゃないし、できなかったりします。

ーー確かに井上さんはスタジオ・ミュージシャン的なあり方とは対照的ですね。

 自分はファビュラス・サンダーバーズのジミー・ヴォーンが好きで、彼を通して
ギター・スリムやジョニー・ギター・ワトソンを知って、彼らも大好きなんですが、
正直に言うと一番影響を受けたのは木下弦二のギターなんです。若い頃からずっと
スタジオに籠って、弦二さんと対面になってギターを弾いてきたから。

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photo by Takashi Obi

ーー「生きものについて」「社会のワレメちゃん」「カミナリ」などでは弦二さん
自身もバリバリとギター・ソロを弾き、それが井上さんのギターとうまく絡み合っ
ていますね。今日久し振りにうずまき時代の「カミナリ」を聞いてきたのですが、
現在とは違うアコースティック・サウンドでした。やはり曲の構成やアレンジはど
どんどん変化していくものなのでしょうか。

 そうですね。確かに当初「カミナリ」はアコースティックでやっていました。
クニさん(田中邦男)もフレーム・ドラムを叩いていたし。そうしたバンド・アンサ
ンブルに関しては、ライヴを重ねていくうち自然と現在のスタイルに辿り着いてい
きました。

ーー長尺ジャム・ナンバーの「カミナリ」はライヴでも人気の曲ですが、決めのフ
レーズや曲の骨格以外は全部即興の演奏ですか。

 曲の途中でぐちゃぐちゃになる部分とかはね。でも録音で完成していったフレー
ズというのもあって、いいのか悪いのかは解りませんが、そのフレーズにライヴの
場でも頼ってしまう部分はどうしてもあります。逆に違うものが出てくる時は、き
と新しい何かが生まれている訳で、そうした時はいい演奏になっていると思います。

ーー古い話になってしまいますが、『東京ローカル・ホンク』に収録されている「
遠い願い」では井上さんのソロではなく、オレンジ・カウンティ・ブラザーズの谷
口邦夫さんによるペダル・スティール・ギターが採用されています。これは久保田
麻琴さんの提案によるものなのでしょうか。

 どうだったかなあ~。もう忘れてしまいました。確か『喫茶ロックNow』のコン
ピレーション・アルバムに収録されていた方の「遠い願い」のヴァージョンでは
オレがギター・ソロを弾いていたんじゃないかな。いや、これも覚えていません(
註:実際井上さんが弾いている)。でも、曲が良くなるんだったら場合によりますが、
自分のソロじゃなくても構いません。


☆☆☆☆振り向いたらいつの間にか舟が岸を離れていてここまでやってきた


ーーもうかなり長い時間を東京ローカル・ホンクというバンドとともに歩んでこられ
ましたね。

 本当にそうですね。そもそもはうずまきの前身のゲクサというバンドのテープを
貰ってよく聴いていたんです(ゲクサという名前は木下弦二のゲ、田中邦男のク、
迫田敬也のサから取ったもの)。オレは当時別のバンドにいたのですが、そのオレの
バンドとゲクサとアラケンさん(新井健太)のバンドが同じライブハウスで揃うという時もありました。迫田さんが抜けていた時期に残りの二人とセッションのつもりで一緒に音を出していたのが、気がついたらずっと一緒にやるようになっていた。不思議ですね。振り向いたらいつの間にか舟が岸を離れていてここまでやってきた、という感じです。


ーー弦二さんはうずまき時代、小さな音に対する意識に取り組んだとおっしゃってい
ましたが、その点はいかがですか。

 あの頃は白金台のスタジオにずっと籠って、実験的なことをやっていた。前のバンドでもリハーサルを自分の家でやったりしてましたから、小さい音というのは自分にとって普通のことでした。アコースティックとか生音というのは、やはり本当はミュージシャンに
とって感情的にも盛り上がるし、やり易い環境だと思うんです。むしろアンプやPAを
通すといろいろなことが出来る反面難しいっていうか、選択しなければいけないことが
増えてしまうんですね。結局エレクトリック・サウンドのなかで生音の響きを探してい
るような部分もあります。

ーーそういえば「サンダル鳴らしの名人」もあの頃のレパートリーですね。

 今のライヴでは弦二さんのアコースティック・ギターとアカペラであの曲をやってい
ますが、以前は自分がウクレレを弾いていた時期もあったんです。またいつかウクレレ
を入れて演奏してみようかな。


ーーホンクの音楽は弦二さんが持って来た曲のデモを元に全員でふくまらせながら完成
させていく、基本的にはそんな風に考えてよろしいでしょうか。

 うん。でも他の三人のほうが先に音が固まって、オレの場合はみんなに待ってもらう
場合が多い。全体のサウンドのなかでギターがどう位置するかを決めたあと、できるだけ
削ぎ落とした形を考えると時間がかかってしまうんですね。

ーーところで、井上さんはオフの時どうされているんですか。

 何もないときはよく寝てます(笑)。

ーー今日はお忙しいなか、どうもありがとうございました。それでは最後に、井上さん
生涯のフェイヴァリット・アルバムを5枚ほど教えてください。

 今日はわざわざオレの家の近くまで来てくれてありがとうございます。そうですね、
最初はキッスとか、ハードな音楽をよく聞いていたなあ。そうしたものから次第に興味が変わってきた頃に出会ったのはライ・クーダーの『パラダイス・アンド・ランチ』、エリック・クラプトンの『ノー・リーズン・トゥ・クライ』、ダイアー・ストレイツのファースト、バッド・カンパニーのファースト、いやフリーの『ライヴ!』かな。別にこれらがフェイヴァリットっていう訳じゃないけど、やはり若い頃聞いたものって忘れられないですよね。オレ、高校を卒業してからはよく渋谷に出てレコードをジャケ買いしていたんです。その頃買ったものでは、アラン・ガーバーの『アラン・ガーバー・アルバム』が良かったです。
 あとは自分の父親が仕事の関係でけっこうサンプル盤を貰えて、それが家にわりとあっ
たんです。そのなかにエイプリル・ロートンがいたラマタムのセカンドとか、ダグ・サームの黄色いジャケットのやつ(Doug Sahm And Band)とかがあって、印象に残っています。
ダグ・サームはずっと後になってからよく聴くようになって、彼の『ホンキー・ブルーズ』でしたっけ? 長いタイトルの曲(「You Never Get Too Big And You Sure Don't GetToo Heavy, That You Don't Have To Stop And Pay Some Dues Sometime」)が入っているアルバムとかいいですね。父親のレコードではインディオのタバハラスという兄弟のギターデュオがクラシックを演奏しているLPとか、洋楽を日本語で歌ったクリスマス・アルバムも心に残っています。あと最近ではニューオーリンズR&Bのコンピレーションで英ACEから出た『Gumbo Stew』のシリーズでは赤いジャケのもの(第二集の『More Gumbo Stew』)がとくに好きで、そこに入っているプリンス・ララは最高ですね。

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2011年12月20日 武蔵小山cabeにて
取材・文 小尾 隆
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by obinborn | 2012-01-28 02:44 | インタヴュー取材 | Comments(0)  

1月26日

小出裕章『原発のない世界へ』(筑摩書房)などを読むと、やはり絶望的になって
しまう。われわれは当然ながら被曝しているし、放射線の被曝許容量が次々と引き
上げられている点に関しても、それは日本国民がパニックを起こさないための方便
に過ぎないのだった。

地質によって放射能が蓄積するから関西圏に逃げればいいというものでもないらし
い。86年のチェルノブイリ事故の際に京都で検出された放射能がやがて減少し、1
年後にまた京都で増大したように、放射能という”見えないもの”は気流に乗って
いくらでも横断し、そこには地域も国境も関係ないのである。

この書には原子力行政という国策のまやかしも十分暴かれているが、小出氏が正直
だなあ〜と思わせるのは、仮に福島のすべての人たちを避難させてもその人たちの
これまでの暮らしが失われてしまうことをきちんと逡巡しているから。ときに第一
次産業の打撃は深刻である。私は強制避難命令が出ている飯館村にそれでも残った
老夫婦のことを記憶に留める。私はその老いた男の言葉を噛み締めるしかないのだ
った。「この先どこに行っても同じ。避難所は狭く安らぎもない。だから危険だと
しても故郷を離れたくない」

今日も私たちは市場に出たものだから安心と(半信半疑ながらも)スーパーで魚や
野菜を買うが、その”大丈夫”の基準値を下げてしまったら、関東圏の漁業や農業
が立ち往かなくなってしまうという裏事情もあるのだった。そして残酷なことに、
子供や若い女性のがん発生率はまるでくじ引きを引くように、長い歳月のなかで
(急発性ではなくいわゆる晩発性障害として)訪れるのだという。

作家の池澤夏樹さんは「手に負えないものを手にした」人類の奢りとして、的確に
原子力を見据えている。昨日があり今日があり明日がある。あなたも私もどこかで
そんなことを漠然と信じていたのではないだろうか。それは昨日あった会社に今日
もまた通勤するような感覚として。今日見えた景色がたぶん明日もまた見えるだろ
うという根拠のない感覚として。

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中野・哲学堂にて
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by obinborn | 2012-01-27 02:22 | one day i walk | Comments(3)  

ロング・インタヴュー、山本智志(その1)

ミュージシャンへの取材が3度続いたので、今回はやや視点を変えて編集者・音楽評
論家の方をご紹介しよう。ロック音楽を報道する立場で70年代からお仕事をされてき
た山本智志さんは、いわば音楽ジャーナリストの草分け的な存在だ。一見華やかそう
に見える音楽業界にあって、雑誌や書籍の編集という作業、あるいは音楽について書
くという行為はとても地味で裏方的なものかもしれないが、優れた音楽家や敏感な聞
き手たちほど見識あるジャーナリストに理解を示し、ある種の敬意を払う。佐野元春のツアーを記録した『ワン・フォー・ザ・ロード』(大栄出版 95年)や、仲井戸麗市との対話を纏めた『ロックの感受性ービートルズ、ブルース、そして今』(平凡社新書 02年)、『アサイラム・レコードとその時代』(音楽出版社 06年)などの著作でも知られる山本さんにお話を伺った。互いの都合もあってメールでの長い”筆談”となってしまったが、30年以上に及ぶ氏のキャリアをこの機会に振り返って頂いた。

  *        *        *

☆アルバイトから始まった『ニューミュージック・マガジン』の仕事


ーーまずは山本さんの自己紹介と経歴を教えて頂けますか。

  1951年、札幌生まれです。このあいだ60歳になりました。地元の高校を卒業したあと1年浪人して、1971年に大学進学を機に上京したんですが、大学在籍時に「ニューミュージック・マガジン」(現ミュージック・マガジン) でアルバイトを始め、そのまま会社に居着いたという感じです。
 大学2年のとき、意を決してニューミュージック・マガジン社を訪ねたんです。上京したら一度マガジン社を訪ねてみようと思っていたので。創刊当初から熱心に読んでいたニューミュージック・マガジンがどんなところで作られているのか、どんな人たちが作っているのか、ずっと興味があったんです。当時、マガジン社は渋谷の桜丘町の坂の上にあった。渋谷駅から5、6分のところです。マガジン誌の最後のページに会社の地図が載っていたのでそれを見ながら行ったんですが、なかなか見つけられなくて、あたりをぐるぐる回ったあげく、ようやくマガジン社が入っている古い5階建てのマンションを探し当てました。
 編集部はその5階の一室で、ドアをノックしたら女性が出てきた。もうドキドキで、息が苦しいくらいだった。電話もせずに突然やってきた学生に彼女も戸惑っていましたが、こっちも必死でした。しどろもどろになりながらなんとか自己紹介をして、「一度訪ねてみたいと思っていたんです」と言ったら、「じゃあ、どうぞ入って」と言ってくれて、コーヒーまで出してくれました。ちょうど編集室でドアーズの『アブソルートリー・ライヴ』がかかっていて、マガジン誌のレコード評で木崎義二さんがそのアルバムについてどう書いていたかを話したら、「きみはマガジンをよく読んでいるんだね」と感心された。どんなロックが好きか、いまのマガジンをどう思うかなど、編集部の人にいろいろ聞かれました。ぼくも聞きたいことがたくさんあったはずなのに、ほとんどなにも聞けず、帰りしなに「もしアルバイトの仕事があったら、ぜひやらせてください」と頼むのが精一杯でした。それから何週間かあと、マガジン社から電話があって、アルバイトができることになったんです。
 仕事は、マガジン誌の配本や郵便物の発送、レコード会社などへのお使い、編集室の掃除や電話番など、いろんなことをやりました。週に3日くらい通っていたかな。とくに仕事がないときには、編集室の壁一面を埋めたレコード棚からアルバムを抜き出しては、初めのうちこそ「これ、聴いてもいいですか」と編集部の人に断っていましたが、そのうち勝手に片っ端から聴いていました。
 給料日には経理の人が茶封筒に入った現金を渡してくれました。銀行振込みじゃなかった時代です。毎月、その日は仕事が終わるとまっすぐ日本楽器の渋谷店に向かい、次に買おうと決めていたLPレコードを2枚買いました。日本盤は1,800~2,000円、アメリカ輸入盤は2,200~2,400円、イギリス盤は2,800~3,000円くらいしていたと思います。当時の物価からすればレコードはひどく高価なものでしたが、本にせよレコードにせよ、自分で働いて得たお金で欲しいものが買えるという喜びは格別でした。親からの仕送りは受けていましたが、自分が少し社会に足を踏み入れたような気がしてうれしかったですね。次第に下宿とマガジン社の往復が主になり、大学にはあまり足が向かなくなりました。このころは、そんな東京でのひとり暮らしをいきいきと過ごしていたという幸せな記憶があります。

ーーそれからやがて社員になられるのですね。

 アルバイト生活が1年くらい続いたあと、編集長の中村とうようさんのアシスタントというか、雑用係として雇われたんです。そのころ、とうようさんは「ブルース・フェスティバル」の企画制作やマガジン増刊号の発刊など、編集長としての仕事以外に個人としてもいろいろやろうとしておられたので、手伝いが必要だったんだと思います。とうようさんに命じられて、たとえば野口久光さんや藤井肇さん、福田一郎さんといった著名な音楽評論家たちや、レコード会社やキョードー東京のお偉方に連絡したり、書類を届けたり、ということをするようにもなったので、なにか自分がアルバイト時代にくらべてもぐっと成長したような、充実感がありました。大学を辞めたのはそのころです。
 とうようさんの下で1年あまり働いたあと、1975年に編集部員として正式にニューミュージック・マガジン社の社員にしてもらいました。北中正和さんが編集部を離れ、音楽評論家として独立するということになった時期で、「アルバム・レヴュー」や「ランダム・ノーツ」など、北中さんが担当していたページの何割かを引き継ぎました。もちろん編集という仕事をなにも知らずに編集部員になったわけで、校正のしかたなど、北中さんや他の編集部の人たちから多少教えてもらったとはいえ、ほとんどぶっつけ本番で仕事を覚えていったようなものでした。
 筆者の人たちからなかなか原稿をもらえなかったり、徹夜で入稿作業をしたりと、締め切り間際はけっこう大変でしたけれど、やりがいがあったし、楽しかった。それまで読者の立場だった自分が、マガジンの誌面を通して名前だけはよく知っていた音楽評論家の人たちにじかに会って原稿を依頼できるなんて、もう、舞い上がるような気分でした。ロックが好きでマガジン社に入ったわけですけれど、そこで編集という仕事のおもしろさや楽しさも知りました。
 70年代はロックに活気があったし、仕事を通して本当にたくさんの音楽を聴くことができたのも幸運でした。海外アーティストも相次いで来日しましたしね。ジェスロ・タル、ロリー・ギャラガー、ニール・ヤング、イーグルス、ロッド・スチュアート&フェイシズ、エリック・クラプトン、リオン・ラッセル、ジャクソン・ブラウン、リトル・フィート、ボニー・レイット、リンダ・ロンスタット、マリア・マルダー、グレアム・パーカー&ザ・ルーモア、エルヴィス・コステロ……。多くの初来日公演を観ることができました。マガジン社で働くようになる前には、フリー、レッド・ツェッペリン、シカゴ、ジェイムス・テイラーなどのコンサートを観ています。
 フリーは初めて観た外国のロック・グループです。忘れもしない1971年5月1日、深夜12時過ぎからはじまったオールナイト・コンサートでした。大手町のサンケイホール。本当にすごいライヴでした。上京して1か月しか経っていなかったぼくの海外ロック・グループのライヴ初体験で、しかも連中はぼくとさほど齢も違わなかったので、大きなカルチャー・ショックを受けました。

☆☆試行錯誤しつつもフリーランスの道へ

ーーそれでも、せっかく就職したマガジン社を退社された理由は何だったのでしょう。


 マガジン社には1980年の夏までいました。在籍期間は5年半くらいです。当時、マガジン誌は誌面刷新が急務でした。売り上げ部数が落ち込みはじめていましたし、レコード会社の宣伝も音楽専門誌が主体ではなくなってきて、広告収入も減少していました。編集方針の面でも、ロックの低迷やヒップホップ・カルチャーの誕生など、新しい動きへの対応が求められていた。でも、ぼくはいわば“マガジンの守旧派”で、と言っても守旧派はぼくひとりだったんですが、それまでのマガジン誌の色にしっかり染まっていたので、編集会議などでしばしば他の編集部員と意見が対立しました。とうようさんにもずいぶん楯突いたりしましたし。そんな状態が1年近く続いたあと、マガジン社で定年を迎えるなんて考えられないし、このままここにいるよりもどこか小さな出版社に入れてもらって、童話の本かなにかを作れるようになればいいなあ、などと都合のいいことを考えて、マガジン社を辞めました。29歳のときです。
 残念なことに、というか当然のことながら、お世話になろうと思う出版社とは巡りあえず、失業保険の支給期間も終わってしまい、さて、どうしようという毎日が続くと、さすがに不安や焦りを感じました。子どももいたのでとにかく生活費を稼がなくてはならず、とは言ってもできることは原稿書きくらいしかないので、音楽雑誌から取材記事や新譜紹介の仕事をもらったり、アルバムのライナー・ノーツを書かせてもらったり、ということを始めるようになりました。あとは編集雑務の下請け仕事をやったりして食いつないだ、という感じですけど、それってつまり、いまとほとんど同じなわけで、そんな感じで30年あまりやってきたことになります。初めて書いたライナー・ノーツはシー・レヴェルのアルバム『Ballroom』でした。1980年の秋だったかなあ。これからどうしようとため息をついていたぼくに、当時フォノグラムの洋楽ディレクターだったWさんが、ライナー・ノーツを書かないかと言ってきてくれたんです。あのときは本当にうれしかった。いま読むと恥ずかしくなるような文章ですが、ぼくにとって記念すべき最初の仕事です。
(続く)
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by obinborn | 2012-01-21 06:53 | インタヴュー取材 | Comments(8)  

ロング・インタヴュー、山本智志(その2)

ーー読者の方のなかには編集というお仕事がなかなか具体的に
 思い浮かばない人もいらっしゃるかもしれません。実際にはど
 ういうお仕事なのかを簡単に説明して頂けますか。

 単行本と雑誌とでは多少仕事の中身が異なりますが、基本的には編集というのは、記事のテーマを考え、原稿を依頼し、締め切りまでに原稿をもらうという仕事です。もちろん、必要な資料や写真を集めたり、写真家やイラストレイターに仕事を依頼したり、デザイナーに本文のレイアウトなど誌面のデザインをしてもらったり……。入稿したあとは校正を何回かやって、校了に持っていく。社外編集者としての雑誌の仕事はそれでひとまず終わりです。書籍の場合は、その後の印刷屋さんや製本屋さんとのいろんなやりとり、本ができたあとの取次店や書店対策、そしてプロモーション計画など、仕事はまだ続くし、ときには予算の確保・管理という大きな責任を引き受けることもあります。
 でも、一番楽しいのは、どんな記事を作ろうかと考え、その原稿をだれに書いてもらおうかと考えているとき。そのあと、筆者に会って原稿を依頼し、その内容についていろいろ打ち合わせをしているとき。そして、原稿を受け取って、それを“最初の読者”として読むときです。とくに3番目は役得というか、本当にうれしい。いまのようにメールに添付して原稿を送信してもらうのではなく、筆者と会って直接“生原稿”を受け取り、その場で読ませてもらうんです。読んだ感想も直接伝えるわけで、その緊張感も好きだった。「ここはもっと突っ込んで書いたほうがいいのでは」とか、「この段落はちょっとわかりにくいですね」とか、注文を出すこともありました。そう言われて筆者がどう思ったかはわかりませんが、ぼくはそのやりとりも楽しかった。まして、「こういう記事が読みたかったんです」とお礼を言いたくなるような原稿をもらったときは、本当にうれしいものです。

☆☆☆佐野元春との出会い

ーー山本さんといえば佐野元春を初期から聞いてこられた良き
 理解者としても知られています。まずは佐野さんとの出会いに
 ついて教えてください。

 ニューミュージック・マガジンを辞めたあとのぼくに目を掛けてくれていた音楽雑誌の編集長がいて、ある日、何か仕事がないかと彼に会いに行ったんです。1981年のことです。編集部でいろいろ話しているうちに、彼が「きみならきっと気に入ると思うんだが」と机の引き出しから1本のカセット・テープを取り出して、聴かせてくれた。それが発売前のシングル「サムデイ」でした。一度聴いたあと、もう一度聴かせてもらいました。それまでずっとおしゃべりをしていたのに、曲がかかっている間はふたりともほとんど無言でした。その曲にぼくはすっかり魅せられてしまった。そのカセットをその場でコピーしてもらい、家に帰ってからも繰り返し聴きました。そして、聴いているうちに、「この男に会わなくてはいけない」と思いました。
 翌日、エピック・レコードに電話をして、親しくしていた宣伝担当者に「佐野元春に会えないか」と頼んだんです。そうしたら彼は、「お、いま、ちょうど佐野のマネジャーが来ているから聞いてみるよ。ちょっとこのまま待ってて」と、電話を保留にした。そして1分か2分もしないうちに電話に戻ってきた。「OKだってさ」という返事でした。マネジャー氏に電話が代わり、あっけないほど簡単にインタヴューの日時と場所が決まった。ぼくはまだ駆け出しのフリーランス・ライターで、雑誌に自分のページを持っているわけではなかったし、インタヴューさせてもらってもその記事をどこに書けるか、当てがあるわけではなかった。それでもマネジャー氏はインタヴューの申し入れを受けてくれたんです。いくら佐野元春がまだビッグ・ネームというわけではなかったとはいえ、おおらかな時代でした。
 佐野元春に初めて会ったときのことは、いまでもはっきりと覚えています。ニュー・シングル「サムデイ」のことはもちろん、すでに発表されていた2枚のアルバムのこと、デビューまでの紆余曲折やデビュー後も悪戦苦闘の連続だったこと、ライヴのこと、ソングライティングのこと、日本のロック状況や好きな英米のロックのことなどを、ぼくらは与えられていたインタヴューの時間をはるかに超えて話し合いました。そして、長いインタヴューの割には短い原稿を2本、「サムデイ」を聴かせてくれた編集長の音楽雑誌と週刊誌の音楽コラムに書きました。
 佐野元春の印象は、初めて会ったそのときも30年経ったいまも、ほとんど変わりません。ぼくの質問をじっと聞いて、それにじっくりと答える彼の態度や口調が、なんていうか、とても新鮮で、かつ不思議な感じがしました。この人は英語で考えて、それを頭の中で日本語に翻訳してしゃべっているのではないか、と思ってしまうような、独特の口調がとくに印象的で、まるで日本語の上手な海外アーティストにインタヴューしているような気がしたほどでした。しかも彼の話はひとつひとつがとても明快で、インタヴュー・テープを起こしても、彼の発言には言葉を整理したり補足したりする必要がほとんどなかった。われわれ、原稿書きや編集者にとってこれほどありがたいことはないですよね。そのまま記事や見出しが作れるんですから。ニューミュージック・マガジン時代を含めて、それまで取材を通じてそんな日本のミュージシャンに会ったことはありませんでした。

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☆☆☆☆佐野元春を聞く理由


ーーそのような出会いから今日まで佐野さんの音楽を見守り続
 けてこられたわけですが、彼の音楽のどういう部分に惹かれて
 こられたのでしょうか。

 どういう部分に惹かれたか、ですか。うまく答えられないかもしれません。ただ、はっきり言えることは、佐野元春の新しいアルバムを聴くたびに、そこに収められた曲はぼくにいろいろなことを考えさせる。何度か聴くうちに、その曲について考えてしまう。それは詞のある1行についてだったり、歌の主人公のことだったり、イントロがもたらすイメージについてだったり。ブリッジに入ってゆくときの昂揚感、耳を捕らえる転調、独白といった感じのうたいかたや感情を撒き散らすようなシャウト……。とにかく、彼の曲を聴くと、いろんなことについて、つい考えを巡らせてしまうんです。
 多分、佐野元春というロック・アーティストのソングライティングにおける作家性に、いつもぼくの関心は向かってしまうのだと思います。その最初の体験が「サムデイ」であり、「ロックンロール・ナイト」でした。あの2曲がぼくを捕えて放さなかった。佐野元春はとても自覚的に、フィクションとしてのロックの楽曲を書き続けてきた。そんな彼の歌の中に浮かび上がるロックのロマンティシズムとでもいったものに、ぼくは強く引きつけられたんだと思います。
 佐野元春に対する評価はいろいろあるでしょうが、ぼくは彼の音楽をためらいなく「日本語のロック」と呼ぶことができる。それが佐野元春を聴き続けてきた一番の理由かもしれません。彼の楽曲は総じて“洋楽的”で、一部は“翻訳小説”のようでしたが、そうした点もぼくは好んだのかもしれません。それまで友部正人や鈴木慶一など、何人かの同世代のアーティストの歌に強い共感を覚えたことはありましたが、自分よりも年下のミュージシャンの歌をそんなふうに聴いたことはありませんでした。
 ロックであること――いまどきそんな価値基準を後生大事に抱えている奴がいるなんて滑稽だと言われるかもしれませんが、ぼくにとってロックと呼べる音楽かどうかということは、いまも大事なんです。もちろん、いい音楽はロック以外の分野にもたくさんあるし、80年代以降ロックが輝きを失ってしまったのはたしかですが、だからといってロックを卒業してほかの音楽を聴くということはぼくにはできなかったし、したくなかった。そう思っていたときに佐野元春を聴いたというのは大きかったのかもしれません。

ーー70年代も後半になるとロックはどんどん産業化が進み、一方でパンク/ニューウェイ
ヴのようなロックの体制内批判といった新しい動きも出てきました。またジョン・レノン
に関して言うと、彼の新しい歌 「もう一度始めてみようよ(Starting Over)」が届いたば かりだった80年の冬のある日、悲劇的な結末を迎えてしまいます。
当時を振り返ってみると、いわばロックの荒野が広がりつつあったように思うんですね。
それは荒野であり砂漠であったかもしれません。佐野元春のレコード・デビューは80年
の3月でしたが、ぼくにとって彼の音楽はまるで枯れかけた花に水を注ぐ、そんな勇敢で
向こう見ずな行為のように映りました。

 それはぼくもまったく同感です。話が逸れますが、ニューミュージック・マガジンを辞めるまでの1年あまり、編集部内でのぼくと他の編集部員の意見の対立というのも、そうした点にあったのかもしれません。ロックがつまらなくなっていくなか、そんなつまらないものを聴くくらいならもっとほかの素晴らしい音楽を聴け、と言わんばかりにワールド・ミュージックや歌謡曲やその他の音楽に誌面の多くを割くことには同意できなかったし、それが誌面刷新だとも思わなかった。ロックがつまらなくなったからといって、さっさとほかの音楽に乗り換えるというのでは、創刊から10年間、ロックを啓蒙し続けてきたニューミュージック・マガジンの責任はどうなるのかと、ぼくは主張しました。第一、それまでもマガジンはけっこうつまらないロックも紹介してきたではないか。それと同じことを今度はほかの音楽の分野でやろうというのか。そういう議論でした。たとえばポスト・パンクなどの新しい動きを伝える記事を作るべきだし、つまらないロックの現状をきちんと指摘する記事も作っていかなくてはならないのではないか。そう思っていました。
(続く)
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by obinborn | 2012-01-21 06:51 | インタヴュー取材 | Comments(0)  

ロング・インタヴュー、山本智志(その3)

ーー93年の暮れから始まり、翌年9月にファイナルを迎える『The 
   Circle Tour』は、佐野さんにとっても最初の音楽的な頂点だった
 と思います。山本さんはその長いツアーにほぼ同行され、その
 報告記『ワン・フォー・ザ・ロード』(大栄出版 95年)をま
 とめられました。そもそもこのアイディアはどういう風に生ま
 れたのですか。

 『ザ・サークル』を初めて聴いたとき、なんて言うか、すっかり参ってしまったんですね。すごいアルバムを作ったなあ、圧倒されてしまうなあ。そんな気持ちでした。そのアルバムを携えて佐野とザ・ハートランドがツアーに出るという話を聞いたとき、ここに収められた楽曲を彼らはライヴでどんなふうに演奏するんだろう、と想像したんです。そして、早くコンサートを観たいと思っているうちに、こんなことを思いはじめた。
 これまで佐野元春のライヴを何度となく観てきたけれど、それはある一夜の2時間ほどのコンサートを、いわば“点”で観ただけだ。佐野とバンドはそのあとも旅を続けてゆく。ロックンロールのツアーを“点”ではなく“線”として観ることはできないものか――そう思ったんです。それからというもの、その思いつきに自分で夢中になって、佐野元春のマネジャー氏に面会を求め、今度のツアーに同行させてもらえないかと懸命に頼みました。彼はぼくのアイディアに理解を示し、すぐに佐野本人に取り次いでくれた。そして、数日後、佐野元春と会い、直接彼から承諾をもらいました。

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(93年の11月に発売された佐野元春9作目のアルバム『The Circle』。
ここでの主人公たちは悩みを抱え、煩悶を繰り返しながら立ちすくんでいるようだ。
沸き上がってくる言葉たちと音楽的な野心とが結晶し、きらめいている。)

ーー一人のアーティストなり一つのバンドなりのサクセス・ストー
 リーは古今東西数多く書かれてきました。しかし一人のミュージシ
 ャンがある時期に行ったツアーに着目し、それを詳細に”報告”
 するという視点の本は殆どなかっただけに新鮮でした。ぼくが
 他に思い起こすのは浜田省吾の90年のツアーを追った田家秀樹
 さんの『オン・ザ・ロード・アゲイン』(上下巻:92年角川書店)
 くらいなのですが、山本さんは執筆されるにあたってどういう
 方向性を目指されたのでしょう。

 ぼくがイメージしていたのは、サム・シェパードが 1977 年に書いたボブ・ディランのローリング・サンダー・レヴューのツアーの記録『ディランが街にやってきた(Rolling Thunder Logbook)』でした。佐野元春とザ・ハートランドのツアーを記録しようと思い立つ過程で、あの本は大きなヒントになりました。とは言っても、ぼくはサム・シェパードのようにかっこよく書くことはできないし、彼のようにかっこよくもない。劇作家でも役者でもないし、パティ・スミスやジェシカ・ラングと暮らしたこともない(!?)。だから、あの本のように書ければいいけれど、それは土台無理な話です。ただ、“ザ・サークル・ツアー”の取材を続けるなかでも、あの本のことはいつも頭にありました。実際、何度かあの本をバッグの中に入れて出かけ、ツアー先で読み返したりもしましたが、読むたびに刺激を受けて、なにか自分もいいものが書けるような気になったものです。
 それと、もうひとつ、ぼくが思い出していたのは、若き日のキャメロン・クロウがローリング・ストーン誌に寄稿したオールマン・ブラザーズ・バンドやレッド・ツェッペリンの取材記事です。ぼくがそれらの記事をローリング・ストーンの日本版で読んだのは 1973年とか74年だったと思いますが、ぼくよりもずっと若いクロウが、16歳かそこらで書いたそれらの記事のいくつかには、当時、とても大きな刺激を受けました。なんて言うか、読んでいて自分がその場にいるような気持ちになってくるんです。正確ではありませんが、たとえば「深夜のホテルの一室で、グレッグ・オールマンが音を消したままテレビを観ている。そのブラウン管の明かりが照らし出す彼の疲れた横顔は、メイコンの月夜の墓地のように青白い」といった一文を読んで、ぼく自身がホテルの廊下から少し開いたドア越しにグレッグ・オールマンの姿を見ているような、そんな気になったものです。
 70年代前半に読んだアルバム評や記事のことはけっこう覚えているものですね。当時、ロック・ジャーナリズムが大きく発展したということもあるでしょうが、ぼく自身がもっとも熱心にロック評論を読んだ時期だったからなのだろうと思います。70年代に聴いたアルバムのことをいまでも細部に渡って覚えているのと同じですね。キャメロン・クロウの記事は、いま読み返すと、音楽批評的な視点よりもファン気質がまさっていると感じますが、それらの記事を書いたときの彼は16歳だったんだから、それにはほんと驚きますよね。
 とにかく、この“ザ・サークル・ツアー同行記”は、見たままを書きとめよう――そう思って、テープ・レコーダーやカメラは持たず、鉛筆と小さなノートだけを手に取材を続けました。ぼくは別にノンフィクションを書こうとしたわけではなく、ただロック・バンドのツアーのログブック(航海日誌)を書きたかったんです。ぼくに言わせれば、ノンフィクションには“ウソ”が多いというか、筆者が都合よく脚色しているじゃないかと感じる文章が多い。テレビのドキュメンタリー番組のナレーションのような文章、っていうか、妙に情緒的な、ことさら大げさな書き方。あるいは、書かれる1行が決まっていて、その1行を書くために前段であれこれ美辞麗句を並べる、という書き方。そういうのがぼくは好きではないんです。読んでいて、なんかしらけてしまうんですね。かつての沢木耕太郎の本にすら、そう感じることがある。だから、感動を押し付けるような文章にならないよう、できるだけ見たまま、思ったままを書こう、場合によってはメモの羅列になってもいい、と思っていました。

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ーーこのザ・サークル・ツアーの途中でザ・ハートランドの解散が
 発表されるという衝撃的なニュースがありました。山本さんも佐
 野さんから直接告げられたと文中に書かれていますが、その時
 のお気持ちはどういうものでしたか。

 1994年の1月、その年最初のコンサートのために大阪に向かう新幹線の車中、隣の座席に座って佐野元春と話をしていたときでした。インタヴューというよりは雑談に近い会話の中で彼が唐突に「これがザ・ハートランドとの最後のツアーになる」と切り出したので、とても驚きました。バンドはいつかは解散を迎えるものだけれど、このツアーが最後になるなんて思ってもいませんでした。
 なぜ、解散するのか。いつ、解散を決めたのか。今後はどうするつもりなのか。音楽ジャーナリストとしてぼくは佐野元春にそのことを聞くべきだったんでしょうね。でも、彼から解散を伝えられたとき、なぜかそうした質問はぼくの口から出なかった。解散の理由などどうでもいいと思ったわけではなかったけれど、奇妙な話ですが、そのときは解散が納得できるような気がしたんです。渋谷陽一に「おまえは優しすぎるんだ。相手に嫌がられるくらいのことを聞かないとダメだろうが」と言われたことがあります。彼の言ったことは正しいのだと思う。でも、ぼくは彼のようなタイプのロック評論家ではないし、彼が書くようなことも書かない。そもそもロック評論界のパワー・エリートになろうという野心も能力も、ぼくには初めからなかった。音楽ジャーナリストとして“優し過ぎる”のは弱点かもしれないけれど、致命的な欠点だとは思わなかったので、そう言われたときは「そのとおりかもしれないねえ」と苦笑するだけでした。


ーーアーティストやバンドの成長過程をライヴ演奏をつぶさに見
 ながら抑えた筆致で観察するという方法論に、ぼくも刺戟を受
 けました。ぼくの場合は東京ローカル・ホンクや中村まりをそ
 んな風にして現在追っています。しかしながら、こういうオー
 ソドックスなルポルタージュが、現代的な情報の洪水のなかで
 は忘れられがちという側面もあります。この点に関する山本さ
 んの見解をぜひ聞かせて頂きたいと思っています。

 ぼくは佐野元春とザ・ハートランドの“ザ・サークル・ツアー”を観たかった。ツアーに同行して、それを記録したかった。そして、幸運にもそれを一冊の本にまとめることができた。やりたかったことができてぼく自身は満足していますが、しかし、あの本がどれだけの人を満足させられたかはわからない。自己満足の産物を世の中に出しただけだったかもしれない。でも、読んでくれた人たちはたしかにいたし、その中の30人ほどの人たちが読んだ感想を送ってきてくれて、それはとてもうれしかった。
 どんな評論を書こうが、われわれはそのアーティストのアルバムやコンサート・チケットの売り上げに貢献するという以上の役目は果たせないのかもしれない。そう思うことがあります。そんなにシニカルになる必要はないのかもしれないけれど、でも、ファン・クラブの会報に載っているような、全面肯定の文章に慣れてしまった人たちにとっては、音楽批評などはまったく用のないものなんでしょう。音楽が好きなら、音楽について書かれた文章も読んで楽しめるし、刺激も受けるはずですよ、と言いたい気持ちはぼくにもあるけれど、いまの若い人たちにそうしたものを読みたいという欲求がないのは、それはそれで仕方がないことだと思います。
 こうした事態を招いてしまったのは音楽ジャーナリズム全体の責任だし、とくに活字メディアに関わる者、音楽評論家やその脇にいる音楽ライターたちはもちろん、編集者にも責任があると思います。80年代以降、広告の受け皿のような雑誌の創刊が相次ぎましたが、バブルがはじけてそのツケが回ってきた。雑誌は読者を獲得して初めて成立するものなのですから、そもそも広告の受け皿としての雑誌なんていう発想自体がおかしいですよね。
 女性ファッション誌にくらべたらその100分の1の部数でしかない音楽専門誌も、そうした業界の常識から抜け出すことができなかった。音楽雑誌を手に取ってみると、表4(雑誌の裏表紙)の広告と同じアーティストが巻頭記事に載っている。おまけにその記事の大半は、批評性を自ら放棄したようなパブリシティ記事です。そんな記事を読むためにお金を払う人はいないでしょう。払ったお金に見合う商品価値が記事自体になければ、商業雑誌はインターネットやフリー・ペーパーに勝てるはずがありません。
 おそらく、出版社に勤める編集者は、業務命令で新しい雑誌の編集長を任され、どんな雑誌を作りたいかではなく、どんな雑誌が売れるのか、どんな雑誌だと広告がたくさん集められるのか、といったことを考えて雑誌を作っていたのでしょう。80年代に「10万部以下は雑誌ではない」などとうそぶいていた大手出版社の幹部は何人もいました。勝ち組、負け組の論理、ですね。売れたものが正しい、と言わんばかりの態度。でも、そういう経営を続けてきたことがいまの苦境を招いたんじゃないかなあ。ニューミュージック・マガジンのようなマイナーな雑誌の経験しかないぼくには、彼らが言っていたことは理解できませんでした。
 タイアップ記事がこれほど日常化すれば、「評論なんかはいらない、情報だけが欲しい」という声が音楽ファンの間に起こるのも当然だと思います。ただ、彼らは本当に評論と呼ぶに値する文章を読んだことがあるのだろうか、とも思うんですよね。すぐれた音楽評論を読んだうえで、彼らは評論はいらないと言っているんだろうか、と。楽観的過ぎるかもしれませんが、おもしろい記事、いい批評を書き続ければ、その価値に気づいてくれる音楽ファンはいまでもいるはずだ、とぼくは思っています。
(続く)
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by obinborn | 2012-01-21 06:49 | インタヴュー取材 | Comments(0)