「何でも屋だけにはなるなよ」

イチローの現役生活はおよそ28年間という驚異的な長さだった。
偉大過ぎる彼と比べるのはおこがましい限りだが、僕も文筆業を
ちょうど28年続けてきたので、いつ引退してもおかしくないと
思っている。実際この世界はプロ野球同様にとても厳しく、最初
は頑張っていろいろな媒体に書いていた人が、いつの間にか忘れ
去られてしまうなんてことはザラ。売れっ子と呼ばれるライター
はほんの僅かで、残り大半はどんぐりの背比べといったところだ
ろう。まして現在は音楽雑誌が殆ど淘汰され、誰も活字を読まな
くなったインターネットの時代である。そんな波をモロに被りな
がら、最初の10年は雑誌とムックに寄稿し、次の10年は単行本5
冊に集中出来たのだから自分の場合それなりに幸せだったのかも
しれない。その間に指摘された多くは「お前は欲がないからダメ
なんだよ」ということだったが、僕個人としては好きでもないバ
ンドのことを褒めまくり後から後悔するよりは、自分の好きなテ
リトリーを守るほうが遥かに大事だった。よく飲み屋が傾くと客
に対してのおもてなしよりも、今晩は何枚落としてくれるのかし
か浮かばなくなると言われる。それと同じ愚は犯したくなかった
んですね。あ〜今夜はブリンズリー・シュウォーツを聞こうかな。
今から4年前、56歳になってやっとパブ・ロックの書籍を出せて
良かった。これは「何でも屋だけにはなるなよ」とアドバイスし
てくれた友人たちのお陰だと思っています。


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# by obinborn | 2019-03-22 17:30 | one day i walk | Comments(0)  

四半世紀以上ユニホームを着続けたイチロー


外野深くから鋭く返球され本盗を阻止するプレイに誰もが
息を呑んだ。通称レザービームと呼ばれる送球であり、大
リーグの中でも「最も肩が強い外野手」と讃えられた。実
際ヒッティングバッターという看板だけでなく、走塁や守
備でも私たちを釘付けにする、文字通り打走守の三本柱が
揃った選手だった。とかくホームランが重宝される米国の
大味なベースボールに、”ファスト"な魅力を加味したのが
イチローその人だった。感情を表に出さない態度から「チ
ームの勝利よりも個人の記録を優先している」と揶揄され
たこともあったが、意に介さなかった。多くの人々はきっ
と忘れているだろうが、かつて国民名誉賞を「まだ道半ば
ですから」と辞退したのも、イチローらしいストイックさ
の表れだったと思う。近年は以前の冴えがなく、出場する
試合も少なくなっていたが、最後まで現役というか、より
正確にはマリナーズの一員であることにこだわり、今年の
キャンプにも合流した。そのキャンプの終盤に自分の限界
を悟ったことが21日の引退会見に繋がった。日本で9年ア
メリカで19年めと四半世紀以上もユニホームを着続けた45
歳の別れの挨拶は、爽やかで晴れ晴れしかった。


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# by obinborn | 2019-03-22 10:16 | one day i walk | Comments(0)  

3月14日の吉村瞳

14日は新橋のアラテツで吉村瞳のワンマン・ライブを。マディ
・ウォーターズの「ローリン&タンブリン」から自作の「ブル
ーバード」まで、淀みなく流れる起承転結が素晴らしかった。
ワイゼンボーンは控え目にし、通常のアクースティック・ギタ
ーを中心にグイグイと押していく、そんな力感がこの日は際立
つ。吉村はカバー曲の審美眼も見事だが、フィンガーピッキッ
ングで奏でられる「カラー・オブ・マザー」や、7thコードで
組み立てていく新曲「ヴァレーシア」といったオリジナルは息
を呑むほど鮮烈で、ちょっと言葉では言い表せない体験となっ
た。ある日突然天災はやってくる。海は荒れ、山は崩れる。そ
れらを前に私たちは為すすべもなく、呆然と立ち尽くすだけだ。
それでも吉村瞳はきっと歌を携え、澄んだ目でこの世界を見渡
していくことだろう。


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# by obinborn | 2019-03-15 12:33 | one day i walk | Comments(0)  

追悼:ハル・ブレイン

それにしてもハル・ブレインの訃報にはひとつの時代の
終わりを感じずにはいられません。彼の場合はセッショ
ン・ドラマーだっただけに表舞台に立つことはありませ
んでしたが、その分熱心な音楽ファンによって注目され
てきたと言えるでしょう。そんなブレインが影武者とし
て活躍した60年代に於いては、バック演奏が誰それであ
るという興味は殆ど共有される環境にありませんでした。
無論器楽演奏をメインとするジャズの場合は例外でした
が、多くのポビュラー音楽の現場でスポットライトが当た
るのはあくまで主役の歌手/グループであり、ヒット曲
のソングライターやプレイヤーといった裏方に関する情報
は余りに乏しかったのです。ここら辺は日本の歌謡曲や
演歌も同じようなものでしたよね。そんな時代状況のな
か、ハル・ブレインは徹底して”匿名の人”でありました。

ザ・ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」やママス&パパス          「夢のカリフォルニア」と「マンデー・マンデー」のド
ラマーが誰か? なんていう関心は当時全く相手にされま

せんでした。あるいはザ・バーズのドラムス奏者がマイケ
ル・クラークであれば、「ミスター・タンブリンマン」を
叩いているのが彼であり、カレン・カーペンターが歌いな
がらドラムをプレイする人であれば、「雨の日と月曜日は」
のフィルインが彼女だと想像するのは、音楽ファンのごく
自然な姿だったのです。フィル・スペクターのレッキング
・クルーの一員としてキャリアをスタートさせたハル・ブ
レインは、やがてブライアン・ウィルソンやヴァン・ダイ
ク・パークスと接点を持ち、『ペット・サウンズ』や『
ソング・サイクル』といった西海岸ロックの傑作アルバム
に寄与していきます。ここで特徴的なのはいわゆるスモ
ール・コンボでの自己主張という意識ではなく、どちら
かというとオーケストレーションの一環として、歌のスト
ーリーを補完するような役割を果たしているということで
す。そんなブレインの特徴が最もよく現れた演奏がサイモ
ン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」と「ボクサー」
(いずれも69年)だと筆者は感じるのですが、いかがで
しょうか?

今こうして書いている間にも、ハミルトン・ジョー・フラ
ンク&レイノルズの「恋の駆け引き」やアルバート・ハモ
ンドの「カリフォルニアの青い空」でのブレインのドラム
スを思い出し、涙が止まりません。ジョージ・マーティン
がアメリカ(バーネル、ベックレイ、ピーク)を通して、
起用したのもハル・ブレインその人でした。そういう意味
ではポップ音楽の骨格にまだ良きメロディがあった時代に
寄与したのがブレインだったのかもしれません。

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# by obinborn | 2019-03-12 17:33 | one day i walk | Comments(0)  

中村とうよう氏の『地球のでこぼこ』を読み返す

今日は中村とうようの『地球のでこぼこ〜とうようズ・
バラード』(話の特集/78年)を読み返してみました。
彼が編集長だった『ニューミュージック・マガジン』の
名物コラム「とうようズ・トーク」を8年ぶん纏めたも
ので、年代ごとに回想録が付けられています。音楽に対
する真摯な姿勢だけでなく、社会問題にも鋭く切り込ん
だ氏ならではの辛口の批評は、今思えば社会主義に憧れ、
キューバにまでサトウキビ畑刈りの労働に出向いた青年
の闘争日記のようでもあり、いささか古色蒼然とした印
象は否めません。しかしながら、70年代になるにつれて
ロックが商業主義に取り込まれていった様を誰よりも早
く見抜き告発したのはようようさんに他なりませんでし
たし、本書でもそんなロックに代わって第三世界のサン
バやサルサ音楽に活力を見出していった氏の足跡が感じ
られます。時代の背景としてはナイジェリアの惨状から
ウォーターゲイト事件によるニクソン政権の失脚、オイ
ルショック、成田闘争までといったところでしょうか。
レーニンの独裁に失望したとうようさんが毛沢東の文化
大革命にはまだ希望を抱いていたことも明かされていま
す。恐らく今の若い世代には「何言っているんだ、この
オッサン!」としか受け止められないと思いますが、彼
のそうした姿というのは当時の進歩的文化人の標準だっ
たことは覚えておきたいですね。自分の場合は最も多感
だった高校生の時に『マガジン』を読み始めたので、と
うようさんの左翼的なメンタリティに影響を受け、また
そこから抜け出すまでには膨大な時間を要しましたが、
政治や社会に対して「これはおかしい!」と感じたら
率直に意見する態度だけは今も失いたくないです。


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# by obinborn | 2019-03-09 17:41 | one day i walk | Comments(0)  

映画『半世界』を観て

今日は池袋のシネマロサにて阪本順治監督の『半世界』
を観てきた。かつて同級生だった三人がアラフォーにな
り微妙にすれ違っていく様を描いている。とくに自衛隊
の海外派遣から帰り精神を病んだ瑛介(長谷川博己)が
加わっているところがポイントで、地方の町の退屈な暮
らしの中にも現代的なテーマが押し寄せていることを考
えさせられた。決して戦場は登場せず、舞台となる伊勢
志摩の美しい風景とくたびれた生活とが入れ替わり立ち
代わるだけだが、それ故に響いてきてしょうがなかった。
「お前が知っているのは世間だろう。俺は世界に行って
きた」「難しいことを言わないでくれ。こっち(伊勢)
だって世界なんだ」というやりとりが刺さる。

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# by obinborn | 2019-03-04 17:47 | one day i walk | Comments(0)  

マーク・ベノの憂鬱


マーク・ベノの『ロスト・イン・オースティン』は79年に
発売された。前作『アンブッシュ』から実に7年ぶりのリ
リースだったから、カムバックアルバムと呼んでも差し支
えないだろう。彼が長く沈黙している間に音楽シーンはす
っかり様変わりし、かつて隆盛を誇ったSSW〜スワンプは
退潮し、AORやディスコあるいはスタジアム・ロックがそ
れに代わったのだが、それらの流行に馴染めなかった自分
にとってベノの復活は心強かった。すっかり読むところが
なくなった当時の『ニューミュージック・マガジン』で、
矢吹申彦氏が『ロスト・イン・オースティン』を79年のベ
ストに挙げておられたことを今もよく覚えている。私はま
だ就職を控えていた学生だったが、本作とアルバート・リー
の『ハイディング』ばかりを聞いていた。

ベノ本人にとっては初めて英国人プロデューサーのグリン・
ジョンズと組み、ジョンズが根城としていたロンドンのオ
リンピック・スタジオでレコーディングされた作品である。
バックは当時ジョンズの製作下で『スローハンド』と『バッ
クレス』を発表したエリック・クラプトン・バンドだが、
ジェイミー・オルテガーの代わりにジム・ケルトナーがド
ラムスに加わり、やがてE.Cバンドに参加するアルバート・
リー(ヘッズ・ハンズ&フィート〜チャス&デイヴ〜エミ
ルー・ハリスのホット・バンド)のギターも随所に聞き取れ
る。それらすべての要素が私を満足させるものだった。また
表題曲を始め、New RomanceやChasin' Rainbowsなどの
楽曲も粒揃いだったし、何よりベノ本人のダウンホームで
泥臭いサザン・フィールが以前のままだったことが、この人
の融通のなさと信頼に値する何か(something to believe
in )を物語っていた。

「エリックの巨大なマーケットに比べたら、僕の市場なんて
微々たるものだよ。でも思うに僕が書いたChasin' Rainbow
はエリックのTears In Heavenに影響を与えたんじゃないか
な?」インタビューの席でベノは神妙にそう告白した。ちな
みにchasin' rainbowsではE.C.が震えるようなスライド・ギ

ターを弾いている。


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# by obinborn | 2019-02-27 17:48 | one day i walk | Comments(0)  

テデスキ・トラックス・バンドの新作『Signs』を聞いて

新作の発売日にコフィ・バーブリッジ(kbd,ft)の死去という
悲劇が伝わってきた。実に複雑な気持ちである。実際コフィの
多彩なキーボードやソングライティングがテデスキ・トラック
ス・バンドに貢献してきた部分は大きかっただけに、無念とし
か言いようがない。享年57歳。この新作『Signs』でも彼は2
曲に共作者として名を連ね、印象的なウォーリッザーやハモン
ドを弾きながら、TTBの音楽に広がりを与えている。私がデレ
レク・トラックスという若きギタリストを知ったのは、彼がウ
ォーレン・ヘインズgとともに古いオールマンズに新しい息吹き
を与えた90年代だったが、当時から単にテクニック的に上手い
というよりは、曲全体をきちんと見渡し、トータルに音楽を把
握出来る人だなという印象を受けたものだ。その気持ちはデレ
ク・トラックス・バンドを経て、夫人であるテデスキと新たに
結成したTTBで以前にも増して強まった。この新作でもデレク
はまるで「ギターなんてバンドのパーツに過ぎないんだよ」と
言わんばかりだ。ここら辺はどの時期のE.Cやベックが好きな
のかという微妙(されど重要)なテーマではあるけれども、
自分の場合は弾きまくる人よりは「一枚の絵画を描くように」
に筆を取る人が好きなんですよ。いずれにしてもTTBは豪放な
アメリカン・ロックの伝統を受け継ぐ部分と、その枠に収まり
切らない新しいエレメントに満ちていると思う。アルバム最後
のThe Endingが泣かせる。グレッグやブッチらに捧げたこの
追悼歌は、まるでかつてオリジナル・オールマンズがスタジオ
録音の最後に収めたLittle Marthaのように響く。


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# by obinborn | 2019-02-22 17:27 | blues with me | Comments(0)  

I Remember Clifford

チャーリー・パーカーと出会い、アート・ブレイキーに認め
られて世に出たクリフォード・ブラウンは50年代ハードバッ
プのサラブレットだった。ライオネル・ハンプトン楽団に参
加しヨーロッパ公演を終えた54年、ブラウニーはマックス・
ローチと意気投合し、いよいよ自身のクィンテットを旗揚げ
する。メンバーはブラウニーtp、ローチds、ハロルド・ラン
ドts、ジョージ・モロウb、リッチー・パウエルpという黄金
の五人。そんな彼らがニューヨークでスタジオ録音に集中し
たのが55年2月23、24、25日のセッションから成る『STU
DY IN BROWN』だった。朗々と吹きまくるブラウニーとス
ウィング感たっぷりのローチの両軸がしっかりと絡み合い、
残る三人が後押しする理想のスモールコンボであり、陽性の
バップっていいものだなあと実感させられる。またランドと
パウエルもソロを取るのでバンド・アンサンブルの変幻自在
な様子がとてもスリリングに伝わってくる。最も有名なのは
デューク・エリントンでお馴染みの「A列車で行こう〜Take
The A Train」だろう。汽笛を模したイントロが終わるとブラ
ウニーが天衣無縫なソロを繰り出してゆく。エルヴィス・プ
レスリー(原作はジュニア・パーカー)のMystery Trainが
ロックンロールのメタファーなら、「A列車で行こう」はさ
しずめジャズの未来を切り開くような約束手形だったのでは
あるまいか。こうしたトレイン・ソングの系譜はフォークと
ブルーズに顕著だが、ストーンズのALL DOWN THE LINE
をそこに加えても何ら問題はあるまい。ミック・ジャガーは
こう歌っている「おお!汽笛が鳴るのが聞こえるぜ」しかし
ながらブラウニーの祝福された音楽活動は長く続かなかった。
本作『STUDY IN BROWN』の録音からわずか一年ちょっと
の56年6月26日に悲劇は訪れた。リッチー・パウエルの夫人
が運転する車は、フィラデルフィアからシカゴへと向かって
いた。その日は不吉な雨が降っていた。運転を誤った夫人の
車は大破し、同乗していたリッチー・パウエルとクリフォー
ド・ブラウンともども三人は一瞬にして帰らぬ人となってし
まった。それはジャズの未来が奪われたような悲劇的な事故
だった。ブラウニーはまだ25歳の若さだった。


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# by obinborn | 2019-01-31 17:09 | blues with me | Comments(0)  

追悼:クラウディ・キング

「クラウディと私が最初に仕事をしたのは、メル・カーター
のWrong Side of Townのレコーディングの時でした。もう
数年前のことですが、彼女のヴォイスはとても温かくソウル
フルで、また今時見つけるのが困難なくらい繊細でした。そ
の後クラウディとビリー・プレストンは私の書いたThe Split
の映画のための曲を歌ったのです。そう、彼女は特別な何かを
持っているのです」

71年にリザード・レーベルから発売されたクラウディ・キン
グの初ソロ・アルバム『Direct Me』に、クインシー・ジョー
ンズは上記の賛辞を寄せている。今からもう47年以上前の話
だ。以前『バック・コーラスの歌姫たち』という映画が公開さ
れたが、70年代はクラウディ・キング、ヴァネッタ・フィー
ルズ、グロリア・ジョンズ、クラウディア・レニア、メリー・
クレイトン、ジニー・グリーンなど、それまでバック・コーラス
要員として脇役に徹してきた彼女らが脚光を浴びた時代だった。

クラウディの場合はまずレイ・チャールズのレイレッツを出発
点に、ビリー・プレストンとの共同作業などで60年代を過ごし
たが、そんな彼女にとって転機となったのが、72年にローリン
グ・ストーンズの『メインストリートのならず者』に参加した
ことだった。ストーンズは以前から「ギミー・シェルター」で
メリー・クレイトンを起用するなど黒人音楽へのアプローチを
本格化させていたが、ビリー・プレストンとクラウディをセッ
トにして、L.Aで行われた『ならず者』の最終ダビングに迎え
たのは卓見だった。特に「ダイスを転がせ」で「got to love
d me〜」と切り込んでくるクラウディのパンチの効いたライン
は極めて印象深く、彼女のシグネチャーとなった。

そんなストーンズと前後して、ブリティッシュ・ロック方面で
はハンブル・パイが『EAT IT』で、ブラックベリーズ(クラウ
ディ/ヴァネッタ/ビリー・バーナム)をフューチャーするばか
りかツアーにも帯同させるなど、クラウディの存在をアピール
した(但し翌年の『Thunderbox』では彼女の代わりにカレー
ナ・ウィリアムスがベリーズの一員になっている)ここら辺の
動向はスワンプ・ロックの時代を物語るもので、彼ら英国勢だ
けでなく、本国アメリカでもクラウディはたちまち人気者とな
り、数多くのレコーディングに駆り出されていった。

ざっと挙げるならば『ゲイリー・セイント・クレア』ロン・デ
ィヴィス『サイレント・ソング・スルー・ジ・ランド』『ゲイ
ター・クリーク』バーバラ・ストライサンド『ストーニー・エ
ンド』グラハム・ナッシュ『ソング・フォー・ビギナーズ』
『リタ・クーリッジ』アル・クーパー『ニューヨーク・シティ』
マーク・ベノ『雑魚』ジェシ・エド・ディヴィス『ファースト』
『ウルル』『L.Aゲッタウェイ』『ジュディ・シル』ルディ・
ロメロ『トゥ・ザ・ワールド』ラリー・マレイ『スウィート・
カントリー組曲』エルヴィン・ビショップ『ロック・マイ・ソ
ウル』デラニー&ボニー『トゥゲザー』アーロ・ガスリー『
最後のブルックリン・カウボーイ』『スティーヴ・ファーガソ
ン』デイヴ・メイソン『忘れ得ぬ人』グリン『ゴーン・クレイ
ジー』リンダ・ロンシュタド『ドント・クライ・ナウ』スティ
ーリー・ダン『キャント・バイ・ア・スリル』『ロイヤル・ス
キャム』『エイジャ』『トレイシー・ネルソン』レーナード・
スキナード『セカンド・ヘルピング』『ボブ・ニューワース』
ビル・ワイマン『モンキー・グリップ』『ストーン・アローン』
ボニー・ブラムレット『イッツ・タイム』ジミー・ウェッブ『
エル・ミラージュ』デルバート・マクリントン『セカンド・ウ
ィンド』ジョー・コッカー『ジャマイカ・セイ・ユー・ウィル』
グレッグ・オールマン『プレイン・アップ・ア・ストーム』ジェ
リー・ガルシア『ガルシア』『レオン・ウェア』旧友ビリー・
プレストンの『ミュージック・イズ・マイ・ライフ』など、クラ
ウディがバック・コーラスを担ったアルバムはあまたある。とり
わけボブ・ディランの『セイブド』に始まるゴスペル期の作品へ
の貢献は大きかったのではないだろうか。

そんなクラウディが亡くなってしまった。ゴスペルのルーツを
持った彼女の歌を、今まで数多くのアルバムとともに聞けたこ
とを誇らしく思う。かつてミック・ジャガーは彼女をモデルに
しながらBrown Sugarを書き上げたと伝えられている。なお、
メリー・クレイトンとともにレーナード・スキナードのSweet
Home Alabamaのセッションに参加したことに関しては「アラ
バマはレイシストによって同胞たちが嬲り殺された場所なのよ」
と言い歌うのを嫌がったメリーを、クラウディは宥めたという。
そしてクラウディは正直に告白している。「私たちはあの歌を
歌ってしまいました。その不名誉の代償はきっと償い続けなけ
ればならないでしょう」と。





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# by obinborn | 2019-01-14 09:34 | one day i walk | Comments(0)  

音響の達人、ダニエル・ラノア


冬になるとやはりカナダの音楽家を聞きたくなる。ケベック州
出身のダニエル・ラノワは今や泣く子も黙るプロデューサーと
して、ジョー・ヘンリーやT.ボーン・バーネットと並ぶ”音響派”
の大御所だが、70年代にはウィリー・P・ベネットなどカナダの
SSWのアルバムで修行を重ねた。ブライアン・イーノに影響され
たラノワは、その独特の深いエコーを伴った音響哲学をボブ・デ
ィラン『オー・マーシー』『タイム・アウト・オブ・マインド』
ネヴィル・ブラザーズ『イエロー・ムーン』『ロビー・ロバート
ソン』などで実践し、いずれも成功へと導いていく。とくに80
年代に低迷していたディランはラノワとの出会いによって、第一
線へ返り咲いたという印象が強い。そんなプロデュースと前後し
てラノワは、自身の初ソロ・アルバム『アケディ』を89年にリ
リースし、一躍時の人となった。ルーツ音楽のポスト・モダン化
というか客観視というか、ケイト&アンナ・マクギャリグルが
ラノアと組んだら一体どうなっていたのだろう?という好奇心を
駆り立てるほどだ。原理主義者にはやや抹香臭いサウンドメイキ
ングながら、エミルー・ハリスやウィリー・ネルソンといったカ
ントリーの音楽家がラノアの力を借りながら、評価が分かれるア
ルバムを生み出したのが90年代というワン・ディケイドだった。
何しろ自我の強いあのニール・ヤングでさえ『ラ・ノイズ』をラ
ノワに委ねていたほどだ。それにしても『アケイディ』というア
ルバム表題は、フランスからカナダに入植していったアケイディ
アンのことを思い起こさずにはいられない。その移動する民族が
遥か彼方〜アメリカのルイジアナ州に辿り着いた物語が、まさに
ザ・バンドの「アケイディアの流木」だった。なお最後に蛇足だ
が、ルイジアナ州出身でありながら徴兵を拒否しカナダに亡命し
たジェシ・ウィンチェスターが、時おりフランス語の歌詞を混ぜ
ていたことにも筆者の興味は及ぶ。


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# by obinborn | 2019-01-10 18:02 | one day i walk | Comments(0)  

ブリンズリー・シュウォーツの自尊心


夕方のスーパーで偶然にも以前の職場でお世話になった方
とバッタリ。主夫?さながらに10分ほど近況を報告し合っ
た。この人は私が辞める時唯一心配してくれた方なのでそ
れなりの信頼関係が出来ている。ハタから見れば取るに足
らないsmall town talkかもしれないが、自分こういう会話
嫌いじゃないですよ。こんな日は家に帰って聞くブリンズ
リーズが格別気持ち良い。もう何百回どころか何千回も聞
いた73年作『Please Don't Ever Change』だけど、まる
で生まれたばかりの新譜のように響き亘る。元々華々しい
話題には最初から縁がなく、フィルモア・イーストで背負
った借金を返済するためにロンドンのパブ・サーキットを
くまなく回ったというほろ苦い出発をしたグループである。
マネジャーのデイヴ・ロビンソンは「音楽的な自尊心だけ
は誰にも負けなかった」と記したけれども、同時代に華
々しく活躍したあまたのブリティッシュ・ロッカーに比べ
れば、殆ど語られることなく終わった約5年の活動期間だ
った。何しろパブの酔っ払い相手の演奏ばかりで、たまに
来るリクエストといえば全米トップ40くらい。決してニッ
ク・ロウやイアン・ゴムがソングライティングを手掛けた
曲ではない。その事態に彼らは一体どれくらい傷付き苦し
められたことだろう?それでもいつか時の審判は下るもの
だ。自尊心を売り飛ばさなかった彼らは、解散した75年の
3月から数えておよそ48年以上経つ今でも、本当に音楽を
愛するファンからリスペクトされ、こうして日本盤のCD
がリリースされている。そのことの価値を思わずにはいら
れない。


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# by obinborn | 2018-12-06 18:14 | one day i walk | Comments(0)  

エディ・ヒントンのソングブック『Cover Me』に寄せて

エディ・ヒントンを知る前に彼の書き下ろした曲を初めて
聞いたのはニッティ・グリッティ・ダート・バンドのDown
In Texasだった。ソウル・ファンにはオスカー・トニー・Jr
の持ち歌としてお馴染みだろう。そんなことを懐かしく思い
出しながらエディのソングブック『Cover Me』を聞いてい
る。共作者のドニー・フリッツが自ら「私とエディの記念碑
だよ」と語るダスティ・スプリングフィールドの「ベッドで
朝食を」に始まり、夜明けにエディがふざけて木によじ登っ
た体験を元にしたルルの「エディはどこに?」で終わるこの
コンピレーションは、95年に他界してしまった エディのソ
ングライターとしての側面に光を当てていて、私が知ってい
る曲と知らない曲が半々くらいずつといったところだが、ペ
ン=オールダムやジョー・サウスあるいはダン・グレアらと
ともにアメリカ深南部のR&Bシーンを支えたエディの裏面史
として、本当に申し分ないものとなっている。レフトバンク
「愛しのルネ」に似た作風のボックストップスIf I Had Let
You Inや、シェールのSave The Children、トニー・ジョー
ホワイト自身は意外にも「俺はエディに会ったことがない」
と語るフリッツ/ヒントン作をトニー・ジョーが歌った300
Pounds of Hongry、ボビー・ウーマック自らイントロで
「スタジオ・セッションが終わる間際にエディがこの曲を
持ってきたんだよ”これをやらないかい?”って」と語るA
Little Bit Salty辺りがクライマックスだろうか。またエディ
が最初のソロ・アルバムに収録したヒントン=ペン作I Got
The Feelingのアメイジング・リズム・エイシズ版は恥ずか
しいことに筆者は今回初めて知った。エディ・ヒントンの作
風として一貫しているのは、やはりブルーズとゴスペルとソ
ウルの感覚に違いない。ニューヨークのティン・パン・アレ
イ系コンポーザー(ゴフィン=キングであれリーバー=スト
ラーであれポーマス=シューマンであれ)とは明らかに様相
が異なる実直な心情吐露に、エディ・ヒントンが身をもって
歩んできた南部の音楽風土を思わずにはいられなかった。


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# by obinborn | 2018-11-20 14:42 | blues with me | Comments(0)  

11月17日の佐野元春&ザ・コヨーテ・バンド

17日は佐野元春&ザ・コヨーテ・バンドを横浜のランド
マーク・ホールにて。10月から始まった彼らの『禅ビー
ト・ツアー』はいよいよ終盤を迎えた訳だが、予想以上
にソリッドで引き締まった演奏が圧倒的だった。佐野は
MCでコヨーテ・バンドとの連携が13年目に入ったこと
を繰り返した。そこに優れたソングライターでありなが
ら、ソロ・アーティストという方向性ではなく、常にバ
ンドとともに歩んできた彼の矜持が感じられた。実際コ
ヨーテ・バンドの成長ぶりは目覚ましく、高揚感あるメ
ロディが剥き出しのギター・ロックで叩きつけられる様
は、一瞬アメリカの荒ぶるオルタナティブ・ロックを聴
いている錯覚に陥るほどだった。選曲にしてもファン・
サービスの終盤を除けば、コヨーテ・バンドを率いてか
らのナンバーばかりを束ねていく徹底ぶりが清々しく、
多くの80年代組がノスタルジア・サーキットに陥ってい
るなかで一際異彩を放っていた。しかも決して希望を失
うまいとする佐野の世界観は健在であり、かつて言って
いた「暗い情感で人々と繋がるのが僕はイヤなんです」
という言葉を無言のうちに裏付けていた。そう、まさに
それこそが佐野元春が長い歳月に亘って実践してきたも
のだった。21世紀という荒れ地は僕らの目を疑わせ耳を
塞がせるばかりだが、それでも彼は明日も花束を抱えな
がら歌っていくことだろう。そんなことを思わずにはい
られない夜だった。


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# by obinborn | 2018-11-17 22:02 | rock'n roll | Comments(0)  

『ホワイト・アルバム』私感

『ホワイト・アルバム』に関する呟きで思わずハッとさせら
れたのは「いくら音がリマスターで更新されても、そこで歌
われている言葉そのものは昔と変わらないですよね」という
発言でした。なるほどね。圧倒的にジョン派の私は英国ブル
ーズ・ロックから刺激を受けた「ヤー・ブルーズ」が出色か
な。さらに「僕の言葉の半分に意味はないよ」と呟く「ジュ
リア」の独白が染みます。四人の緊密な関係がもはや崩壊し
始めていた68年の記録として、これ以上の楽屋落ちはないで
しょう。「俺はもう疲れたよ」(I'm So Tired)もまたジョ
ンによる抜き差しならない本音でした。


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# by obinborn | 2018-11-16 18:21 | one day i walk | Comments(0)  

30年近くなった音楽ライター人生を振り返る


明日は休み。後は飲んで聴くのみです。最近思うのは
よく30年近くも原稿を書いてきたなあ〜ということで
す。その殆ど全てが自分の好きなバンド/アーティスト
のみで、意外に思われるかもしれないキング・クリム
ゾンも「好き」だったから依頼を引き受けたまでで、
そういう拘りは大事だな〜と痛感しています。そりゃ
ヴィジュアル系の人気バンドの全国ツアーに同行し、
ゴーストライターとして提灯記事書くほうが遥かに身
入りはいい訳ですが、幸か不幸かそういう能力がなく
融通も利かない私は、好きな音楽を書くしかなかった
のです。それでもコツコツやっていれば見ていてくれ
る編集者はいる訳で、それが結果『Songs』や『パブ
ロックのすべて』といった単行本へと繋がっていった
のでした。ここら辺はまあ個々の選択というか生き方
のようなもので、何でもオールマイティーにこなして
こそプロの書き手だという意見もあるでしょう。でも
私はそれが出来なかっただけなんですぅ〜(笑)今は
亡き東芝EMIの石坂敬一氏が「時代が変わろうがオレ
の好みは変わらないよ」とヤードバーズへの愛情を露
わにされた時カッコイイ!と中学生だった私は思った
ものでした。また『ワイアード』のライナーノーツで
大貫憲章さんが「今の(インストばかりやっている)
ジェフ・ベックが僕は寂しくてしょうがないんだ」と
書かれているのを読んで何て正直な方なんだ!と高校
生だった私は感動しました。要はそういうことなんで
すね。というわけで皆さんも「こだわり」を大事にし
ましょう!しかしスティーヴ・マリオットも終生こだ
わりが激しいというか、融通が利かない人でした...


😆



# by obinborn | 2018-11-15 17:28 | one day i walk | Comments(0)  

More Blood、More Tracks所感

『More Blood,More Tracks』を聞いてまず思ったのは
最初は随分シンプルな演奏だったんだなということだっ
た。ディランの生ギターとハーモニカによる弾き語りを
中心にベースが加わる程度で、ゆったりとしたテンポで
奏でられるせいかとてもしんみりした印象を受ける。ぼ
くが長年親しんだ『血の轍』の多くのナンバーはバンド
を率いていただけに動きがあり、起伏があり、それ故に
鳥肌が立つような興奮を味わったものだ。弾き語り集に
なることに異を唱えたディランが、アルバム発売日の直
前にミネアポリス在住の無名の演奏家たちを率いて多く
の曲が演奏され直し、結果それが正規の『血の轍』とな
り、全米チャートを駆け昇っていったのだ。時は75年。
まだ新年が明けたばかりの頃だった。

個人的には初めてリアルタイムの”新譜”として買ったデ
ィランの作品集だっただけに繰り返し聞いた日々を懐か
しく思い出す。自分の過去の原稿を読み直しても、ぼく
がミネアポリスの無名の演奏家たちと急遽セッションす
るに至ったディランの”パンキッシュな衝動”に感銘を受
けていたことが確認出来る。だからオリジナル版の発売
から48年経った今になってから「最初はこんな演奏だっ
たんですよ」と公開されても、ただひたすら困惑してし
まう。こういう舞台裏を見れることに関してディラノジ
ストは歓喜するのだろうが、それ以上のものではない。
それでもどうしても知りたいという方にはスタンダード
・エディションの一枚だけで事足りる。「俺は寂しくな
るよ」をテイク1から8まで聞くのはディレクターやプロ
デューサーの仕事であり、音楽ファンの役割ではない。
そんなことを信じていたい。明日からはまた”本物の”
『血の轍』を聞こう。アルバムのA面最初からB面最後ま
での曲タイトルを覚え、その殆どすべてが身体に染み込ん
でいるから。


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# by obinborn | 2018-11-06 17:33 | rock'n roll | Comments(0)  

記憶という支柱


自分では忘れていたことが他人の記憶を通して思い出される
ことがあります。それは旧友を介したものかもしれませんし、
夫婦の何気ない回想から引き出される事項であったりもする
でしょう。多かれ少なかれ人はそのように他人との関わりの
なかで暮らしています。今日久しぶりに小川洋子さんの代表
作『博士の愛した数式』を読み返して、活字から豊かな時間
が流れ出すのを感じました。小川さん流に言うなら「記憶と
いう支柱がたとえ困難な時も私を守ってくれる」でしょうか。


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# by obinborn | 2018-11-01 17:59 | one day i walk | Comments(0)  

追悼:ワー・ワー・ワトソン


トニー・ジョーと前後してワー・ワー・ワトソンまで亡くなって
いたんですね...こちらの加齢とともに好きなアーティストの訃報に接する機会が増えるのは止むを得ないとはいえ、モータウン・サウンドの屋台骨だったファンク・ブラザーズの一員まで失うとは悲し過ぎます。トニー・ジョーもワウ・ペダルの名手だったけど、ワー・ワー・ワトソンこそはワウの開祖的な存在だった(誰が最初だったかは諸説あり)彼の代表的名演といえば多くの音楽ファンはまずマーヴィン・ゲイのLet's Get It On、テンプテーションズのPapa Was A Rolling Stone、ハービー・ハンコックのChameleonなどを思い起こすだろう。私もそうです。ただ個人的にはボビー・ウーマックの75年作『Safety Zone』でワトソンの存在を知っただけに、このアルバムでの彼のプレイを反射的に思い浮かべてしまう。複数のギタリストが曲毎に入れ替わり立ち代りするセッションではなく、ウーマックとワトソン二人だけのギターの絡みに賭けた製作者デイヴ・ルービンソンの心意気も大したものだ。結果ワトソンのワウワウ&鋭いカッティングが堪能出来る大名盤となった。この頃のワトソンと言えば翌76年に初めて(そして唯一の)ソロ・アルバム『Elementary』をリリースしたことからも解る通り、あちこちから引っ張りだこの存在となり、彼自身一番乗りに乗っていた時期だったと思うが、それを証明するように非常に生気のあるギターを随所で聴かせる。ワトソンのソロ作でも名を連ねることになるルイス・ジョンソンb、ウィリー・ウィークスb、ジェイムズ・ガドソンds、ハービー・ハンコックpが顔を揃えていることは、恐らくソロ・アルバムへの布石となったはず。主人公のウーマックにとっては、音楽的な故郷であるメンフィスのアメリカン・スタジオやアラバマのマスル・ショールズ・サウンド・スタジオを離れ、シスコのウェリー・ハイダーとロスのヴィレッジ・レコーダーズで録音に臨む画期作になった。南部の包みこむようなリズムも悪くないが、モダンなエレメントを組み込んだここでのウーマックがどれだけ新鮮だったことだろう。テンプス「雨に願いを」のカバーもいいし、ハンコックのピアノ・ソロをフィーチャーしたI Feel A Groove Comin' Onのファンクに脱帽する。そしてベスト盤に組み込まれることも多いDaylight(ジョージィ・フェイムがナイス・カバー)とジャニス・ジョップリンに提供したTrustIn Meの作者版(実は彼にとっては二度目の録音)を聞いていると鳥肌が立つ。それら全てにワー・ワー・ワトソンその人がいた。そのことの価値をいつまでもいつまでも信じていたい。

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# by obinborn | 2018-10-27 16:57 | one day i walk | Comments(0)  

追悼:トニー・ジョー・ホワイト

トニー・ジョーが亡くなってしまった。私が彼のアルバムを
集め始めたのは78年頃に日ワーナーが始めた名盤復活シリー
ズで『ホームメイド・アイスクリーム』が発売されたのがき
っかけだった。まだ個人的には20代になったばかりだったが、
アメリカ南部の最も深いエリアのスワンプ・サウンドを追い求
め、友人たちと競うように音楽地図を広げていった日々を懐
かしく思い出す。あの頃の自分が一番良く聞いていたのはロ
リー・ギャラガーの2枚組ライブ『アイリッシュ・ツアー』
で、そのなかにロリーが生ギターを掻きむしりながら歌う
「カラスが飛ぶように」は収録されていた。その作者がトニ
ー・ジョーその人であり、興味を繋いでくれた。

そんなトニー・ジョーにインタビューしたのは07年の4月だ
った。78年5月の初来日以来およそ29年ぶりに実現した日本
公演は各地で大好評を博した。「生まれたのはルイジアナの
グットウィルというところだよ。河の近くで、一番近くの町
まで50キロくらい離れていた。父親は農夫で、家族は母と姉
が五人、兄貴が一人いる。俺は末っ子だよ。みんなギターや
ピアノが弾けて、夜になるといつも一緒に演奏していたんだ。
そして俺は15歳の時に兄貴が買ってきたライトニン・ホプキ
ンスのレコードを聞いて”コレだ!”と思ったんだ」と彼は物
静かに語ってくれた。ソングライティングに関する質問には
「現実だよ。真実を書くのさ。ウィリーもローラ・メイ・ジョ
ーンズも実在の人物だ。我々は実際に日曜の午後にはベース
ボールをし、夜になればポーチに座ってギターを弾いた。ル
ーズヴェルト、アイラ・リー、ポーク・サラダ・アニー...す
べて実在の人物だよ」と。

取材が興に乗ってくると、トニー・ジョーはいつの間にか
饒舌になっていった。私がロリー・ギャラガーに関する質問
をすると、こんな答えが返ってきた。「俺のショウを見に来
てくれたし、バーで一緒にビールを飲んだこともある。彼に
は浮ついたところがなく、南部気質のようなものを持ってい
て本物だと思った。昨年俺がアイルランドでコンサートをや
った時には、彼の弟のドネル・ギャラガーが楽屋を訪ねてく
れた。とても嬉しかった」

「日本公演が終わったらルイジアナに帰って兄貴と釣りに行
くんだ。ワニが釣れるかもしれないしね(笑)」そんなトニ
ー・ジョーはもういない。


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# by obinborn | 2018-10-26 17:26 | blues with me | Comments(0)  

ラス・タイトルマンが回想するリトル・フィートのデビュー・アルバム

「リトル・フィートのファースト・アルバムは私が初めて
プロデュースしたレコードでした。69年当時のロスアンジ
ェルスを振り返ると、リトル・フィートはドアーズやステ
ッペン・ウルフやスリー・ドッグ・ナイトとは比較になら
ないほど無名でした。しかしフィートの連中はいつの間にか
L.Aで新たな音楽的コミュニティを築いていたのです。ロウ
エル・ジョージはとてもファンタスティックなソングライタ
ーであり、南カリフォルニアにフォーク・ロックの学校があ
るとすれば、それら全てを融合したようなものでした。そこ
にはハウリン・ウルフとザ・バンドとランディ・ニューマン
からの影響が認められましたね。とてもカントリー音楽の
匂いがして、そこにはトラック運転手がサービス・エリアで
休憩したり、ウェイトレスがにこやかに振る舞う様、あるい
はすっかり意気消沈した孤独な敗者たちが描かれていました。
そう、ローウェルはそれらを歌に託すのが実に上手かった。

私が彼と出会ったのはラヴィ・シャンカールの音楽教室で、
ちょうどビートルズが『サージェント・ペパーズ』を出した
67年のことでした。あのアルバムに収録されたジョージ・
ハリソンのシタール曲WithIn You,Without Youは衝撃的で、
私たち二人はすぐさまシタールを習おうと学校に通ったので
す。ローウェルは他の楽器にも手を伸ばし、ドラムス、尺八、
そして勿論ギターなども学んでいきました。やがてザ・バー
ズがTruck Stop GirlにWillin'と2曲もローウェルの曲を取り
上げてくれました。私はワーナー・ブラザーズのレニー・ワ
ロンカーのオフィスに彼らを連れていき、ローウェルとビル
・ペインはレニーを前にその2曲を歌い演奏したのです。ビ
ルは部屋に備え付けられていた小さなアップライト・ピアノ
を使っていたなあ。そしてレニーは即答しました『グレイト
だね!すぐさま2階に行ってモー・オースティンと契約して
こい!』ってね」

(ラス・タイトルマンの回想/2007年ニューヨークにて/
08年に再発されたリトル・フィート『ファースト』のモー
ビル・フィデルティ・サウンド・ラブ盤より)

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# by obinborn | 2018-09-30 18:20 | Comments(1)  

エディ・ヒントンの追憶

来月発売される『Eddie Hinton Songbook』を楽しみ
に待っている毎日です。英Aceのソングライター・シリ
ーズは様々なシンガーに歌われてきた名曲を作者別にま
とめて選曲するというテーマを持った素晴らしい企画で、
南部のアーティストとしてはこれまでダン・ペンの作品
集が記憶に残っていますが、いよいよエディにまで手を
伸ばしてくれたのかと思うと感慨深いものがあります。

曲目表を眺めたところ、ダスティ・スプリングフィール
ドの「ベッドで朝食を」やトニー・ジョー・ホワイトの
300 Pounds of Hongry、あるいはルルの「エディは何
処に」といったヒントン=フリッツによる代表作が収録
されており、まずはひと安心しました。こうした共作に
関してかつて私はドニー・フリッツに「どちらかが作詞
でどちらかが作曲という役割分担なのですか?」と尋ね
たことがあるのですが、彼が「違う!俺たちは一緒に曲
を書いているんだよ」と諭すように語っていたのが印象
に残っています。記憶を辿ると確かダン・ペンもスープ
ナー・オールダムとの共作について同じような主張をし
ていて、ここら辺は少なくともゴフィン=キングやウェ
ルズ=マンのように明確な分業体制が敷かれていたコン
ビとは、どうやら様相が大きく異なるようですね。

今回のSongbookシリーズで個人的に最も嬉しかったの
は、エディがマリーン・グリーンと共作し、ジャッキー・
ムーアによって歌われたCover Meと、エディが珍しく
単独で書き上げボビー・ウーマックに取り上げられたA
Little Bit Saltyの2曲です。特に後者のウーマック・ヴ
ァージョンはじっくりと熱を込めて歌うウーマックとマ
スル・ショールズのAチーム(ジョンソン/フッド/ホーキ
ンズ/バケット)の連携が見事で、また作者のエディ自身
もアクースティック・ギターで参加してもいます。さら
に感動的なのはボビーが得意とするモノローグの部分で
あり、こんなことが語られ歌われています。

「レコーディングも殆ど終わりかけた頃だった。僕はエ
ディに言ったのさ。ねえ、こんな歌でもやらないかって。
恋人に去られるまでは恋なんか解らない。人生も同じさ。
辛いことを経験して初めて素晴らしさが解るんだ。そう
なのさ。喉が乾くまで水の旨さなんか解らないだろ?」

このA Little Bit Saltyはボビーの76年作『我が魂の故郷
〜Home Is Where The Heart Is』に収められています。
当時の彼といえば最も油が乗っていた時期であり、その
知名度も飛躍的に伸びていた頃でした。そんなボビーが
エディ・ヒントンの曲を取り上げ、しかも曲中に彼の名
前を呼んだことは、さぞかしエディを勇気付けたことで
しょう。実際二年後の78年にエディは初めてのソロ・ア
ルバム『Very Extremenaly Dangerous』をリリースす
るのですから、彼にとってもキャリアに於ける重要な足
掛りとなったのでは?と想像しています。

特にヒットした訳でもないこのA Little Bit Saltyですが、
この曲にはそんな裏面史があり、それらを忘れることな
くSongbookに収録してくれた英Aceに感謝したい気持ち
で一杯です。なおこの曲のオリジナル・デモはエディが
95年に死去した後に、彼の音源を纏めて管理しているZ
aneレーベルが発表した『Songwriters Sessions』で、
やっと蔵出しされました。


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# by obinborn | 2018-09-29 17:49 | one day i walk | Comments(0)  

9月27日の吉村瞳

精力的に全国各地を回っている吉村瞳のライブを
27日は下北沢のラウンにて。自分の場合は三週ぶ
りだったが、この夜もまた一本芯の通った素晴らし
い歌とギターを聞かせてくれた。筆者にとっては
初体験となるリトル・フィートの「ディキシー・
チキン」とジャニス・ジョプリンの「ムーヴ・オ
ーヴァー」の2曲での骨太いスライド・ギターに
度肝を抜かれる一方、吉村の幾つかのオリジナル
曲では繊細な情景描写が際立つ。そんな両刀使い
が彼女の魅力だ。またこのところ頻繁に選曲され
ているケニー・ロギンスの名曲「プー横丁の家」
でのメリハリのあるヴォイシングにも胸を打たれ
た。

私と吉村とでは、世代的に言えばまるで父と娘の
ような関係だが、こうして70年代のルーツが時空
を超えていく様は、アメリカで言えば「両親が聞
いていた音楽に影響された」と語りながら、ジム
・クロウチやポール・サイモンらの楽曲を蘇らせ
るI'm With Herの感覚に近いのかもしれない。旅
先で目に映るもの、車の窓越しに通り過ぎていく
もの。それらを糧に吉村瞳はこれからも歌を携え
ていくことだろう。

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# by obinborn | 2018-09-28 10:24 | one day i walk | Comments(0)  

遥かに、イマムーへ

ホンクの会場で嬉しかったのは、彼らの初期のマネジャーだ
った今村佳子さんと久しぶりに再会したことだった。開演前
に少しお話しさせて頂いたのだが、今は別の国で暮らしてい
ること、たまたま日本に帰ってきた時にホンクのライブを知
り駆けつけたことなどを語ってくれた。幸いにも僕のことを
覚えていてくれた彼女と、僅かな時間だったものの会話して
いたら、何かとても温かい思いが込み上げてきた。

今でもはっきり2007年の秋を覚えている。当時行く宛もなく
毎日を無為に過ごしていた僕は、武蔵小山にあるライブカフェ
のAgainで働いていた彼女と出会い、東京ローカル・ホンクと
いう僕にとっては未知のバンドと引き合わせてくれたのだ。
そんなある日のこと、僕はイマムーから貰った名刺を頼りに
電話して、東中野のお店で行われたホンクのワンマンライブ
に駆け付けたのだった。寒さを感じ始めた12月のことだった。

あれから11年の歳月が経とうとしている。早いような気もす
るし、それなりの重みを持った時間だったとも感じる。その
感じ方はまるで毎日の天気のようにコロコロ変わってしまう
のだが、互いの名前を忘れずに言い合えたことを大切にした
い。イマムーとの思い出を反芻してみると、「東京で食べる
ランチは何でこんなに高いんでしょう」とか、「僕は富士そ
ばで間に合わせているよ」といった他愛のない会話ばかりで
ある。それでも彼女の飾らない性格のせいだろうか。それら
ははっきりと記憶に刻まれた。

音楽やバンドはこうしてその周辺にいる人々まで巻き込み、
それぞれのドラマを生み落としていく。年月を重ねればな
おさらのことだろう。イマムー、決してきみのことを忘れ
たりはしていなかったよ。またいつか会いましょう。


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# by obinborn | 2018-09-24 13:39 | one day i walk | Comments(0)  

追悼:チャス・ホッジズ

チャールズ・ホッジズが亡くなってしまった。先日山本君
がイギリスでチャス&デイヴの野外ライブ(他の出演はク
ラプトン、ウィンウッド、サンタナなど)を観てきて、そ
の話を聞かせて頂いたばかりだったので、信じられない気
持ちである。音楽評論家のイアン・サウスワース氏は以前
「チャス&デイヴは英国の大道芸人みたいなもの。そこに
パブ・ロックのメンタリティを探すのは日本人だけだ」と
辛辣な見解を述べていたが、彼らのくすんだ情感に心奪わ
れた音楽ファンは少なくないだろう。

ヘッズ・ハンズ&フィートを皮切りに音楽活動を本格化さ
せたチャールズ・ホッジズはやがてデイヴ・ピーコックと
出会い、デュオのオイリー・ラグスを結成。74年に唯一の
アルバム『Oily Rags』を米シグネチャー・レーベルから
発表する。ザ・バンドにバディ・ホリー、アラン・トゥー
サン、クリス・クリストファーソンのカバーを収録したそ
の盤にはルーツ・ロックへの視座があり、日本ではブラッ
クホークが選ぶ99選にセレクトされたこともあって評判を
呼んだ。そのオイリー・ラグスを改めて76年に再出発した
のがチャス&デイヴだった。チャールズのピアノとデイヴ
のベースを基本とした間合いのあるシンプルでアーシーな
サウンドが彼らの魅力で、時にヘッズ・ハンズ&フィート
時代の盟友アルバート・リーのギターをフューチャーする
辺りがたまらなかった。そのリーが最初のソロ・アルバム
『ハイディング』でチャス&デイヴの名曲Billy TYlerを取
り上げていたことも忘れ難い。

個人的にはそのBillyTylerのオリジナル版を収録した77年
のセカンド『ロックニー』や、リーが参加した79年の『
ドント・ギブ・ア・モンキーズ...』辺りを本当によく聞い
たものである。前述したイアン氏の辛辣な評価は、恐らく
ロック・クラシックを数珠繋ぎにしたり、クリスマス・ア
ルバムを連発する安易な制作方針にあったのだろう。また
実際にイギリスではテレビ出演し歌い演奏するコメディア
ンという認識が一般的であろう。そのお笑いが低俗なもの
であったかどうかはイギリスの風習に疎い私には判断しか
ねるものの、そうした大衆路線をパブ・ロックのエリアで
展開したところにチャス&デイヴの生命線があり、それは
キンクスやボンゾ・ドッグ・バンドあるいはラトルズ辺り
に感じ取れる英ミュージック・ホールの伝統を受け継いだ
ものだと理解している。

チャールズさん、今まで長い間本当にありがとうござい
ました。あなたのホンキー・トンク・ピアノとコックニ
ー訛りそのままの歌声、その気取りのないユーモアが私
は大好きでした。アルバート・リーの『ハイディング』
にあなたの名前を見つけて心ときめいた日々が、まるで
昨日のことのようです。

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# by obinborn | 2018-09-23 17:41 | one day i walk | Comments(0)  

昨夜見た夢

音信不通になっていた夫婦から声が掛かり、久しぶりに
彼らの家に遊びに行った。豪華な食事でもてなしてくれ
たが、どうにも話が弾まない。それを察したのか夫婦は
そろそろバンドを呼びましょうと言って、地下室に私を
誘った。何と彼らは家にバンドをレンタルしたらしい。
しかしそのバンドがまた最悪で、こんなものを観るくら
いなら死んだ方がマシだと思い、私は地下室からの逃げ
道を探り、四苦八苦しながら非常階段を登りやっと地上
に辿り着いた。そこは恐らく家の庭園なのだった。私は
軽く安堵したのだが、それも束の間だった。例の夫婦が
ヘラヘラ笑いを浮かべながら手錠で私をロックしてしま
った「オビよ、お前は詰めが甘いんだ。こうなる事態を
予測出来なかったとはな!」と彼らは言い放った。私は
歯軋りしながらこう言い返した「来てみればこのザマだ。
お前らもすっかり落ちぶれたな」と感嘆してみせ、涙を
浮かべて同情を買おうとした。その一瞬のスキを狙った
私は彼らを足蹴りにし、手錠を嵌められたまま逃走した。
とにかく全速力で逃げた。しかしまた彼らが私を待ち構
えていた。どうやらバンドの連中も彼らに加担し、さな
がら愚連隊の様相を呈してきた。私は舌打ちをしながら
また逃げた。左の道を行き右の道を探り、地下に再度潜
ったり四苦八苦して最後には自分が何処にいるのか解ら
なくなった。草と土の匂いがした。また庭に戻ってきた
らしい。夜はまだ明けず、私は漆黒の闇の中で途方に暮
れ、やがて睡魔に襲われてこのまま死んでいく自分を感
じた。何処か遠くでコオロギの鳴き声がした。それは甘
美な旋律のように響いた「還暦前に死ぬとは予想不可能
だったな」と私は呟き、もう一方の頭では自分の家の照
明をLEDに変えて電気代が安くなったことをぼんやりと
思った。最期に考えるのはこんなくだらないことなんだ
なと苦笑した。どうやら天使は現れないらしい。毒ワイ
ンが身体中に回り、私は遂に意識を失った。


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# by obinborn | 2018-09-20 04:34 | blues with me | Comments(0)  

ザ・バンドの匿名性〜next of kinについて

next of kin(親族の、同種の)という言葉は、リック・ダンコ
が歌う「火の車」に出てくるのだが、ジョージ・ハリソンが嘆
いた英国盤の『ビッグ・ピンク』で省略されてしまったのが、
下記の写真next of kinである。ジョージが気に入ってアップル
にアセテート盤まで作らせたデラニー&ボニーも、スタックス
からのデビュー・アルバム『ホーム』では祖父と一緒のデラボ
ニ夫妻が写っていたから、こうした家族的な雰囲気にジョージ
が何らかの気持ちを動かせていたことは想像に難くない。

今改めてこの写真を見直してみると、中央に立っているリチャ
ード・マニュエルの若さと端正な顔立ちに驚かされる。リヴォ
ン・ヘルムはかつて「リチャードこそがザ・バンドのリード・
ヴォーカルだと思っていたよ」と述懐していたが、68年のデビ
ュー・アルバムの時点では、リチャードがグループの一番星だ
ったのかもしれない。

そんなリチャードも、リヴォンもリックも”親族たち”のなかに
紛れ込んでいる。最初は誰がザ・バンドのメンバーかが判然と
しなかった経験をされた方はどのくらいだろうか。実際に聞こ
えてくる音楽も、手巻きオルガンのような悲しい調べと老人の
嘆きが混ざり合う「怒りの涙」から始まっていた。”俺の叫び
を聞け!”というのが60年代後半のユース・カルチャーの生命
線であるならば、ザ・バンドはそこから遥か遠くに離れていた。

そっと老婆に寄り添うような「淋しきスージー」が、デイル・
ホウキンス(奇しくもザ・バンドを育てたロニー・ホウキンス
の従兄弟)のガール礼賛「スージーQ」への反語にも聞こえて
くる。カーレン・ダルトンのカバー・ヴァージョンでも知られ
る「イン・ア・ステーション」が、時代という迷宮を彷徨うエ
レジーのように響く。アルバムの最後に置かれた「アイ・シャ
ル・ビー・リリースド」でやっと立ち昇る希望も、無名の囚人
たちが塀越しに眺める朝靄のようだった。

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# by obinborn | 2018-09-14 18:27 | one day i walk | Comments(0)  

9月6日の吉村瞳

6日は新橋のアラテツにて吉村瞳のワンマン・ライブを。
ダニー・オキーフのGood Time Charie’s Got The Blu
esに始まり、マディ・ウォーターズのRollin' and Tumb
lin'で最後を締めるまでの約90分、吉村は今回も圧倒的
なステージを見せた。骨っぽいヴォーカル、技量あるギ
ター、ルーツ色全開の選曲と、どれも文句の付けようが
ない。この夜も前半をラップ・スティールで統一し、後
半を通常のアクースティック・ギターに切り替える場面
転換が鮮やかで、時間が経つのをしばし忘れた。スティ
ーブ・ヤングのSeven Bridges Roadやヴァン・モリソ
ンのCrazy Loveといった古典を取り上げる姿は、フォー
ク・ミュージック本来の”語り部”としての意義を感じさ
せる。昨今は雰囲気勝負の女性SSWも少なくないが、
筆者の知る限り、中村まりと吉村瞳は格が違うなと思っ
た。たとえ大地が裂け山が崩れても、彼女たちは歌って
いくことだろう。

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# by obinborn | 2018-09-07 06:21 | blues with me | Comments(0)  

服部高好著『最後の切り札〜米国ルーツ音楽再訪』を読んで

『アンシーン・アンド・アンノウン〜アンサング・ヒーロー
達から聴こえる米国ルーツ音楽』に続く、服部高好氏の著作
が届いた。前回も渋い音楽家ばかり取り上げられていたが、
今回もカンザス・シティ・ジャズのジェシ・ストーンやルイ
ジアナ・バイユーのリロイ・ワシントンといった、日本では殆
ど語られることのないミュージシャンに光が当てられている。

服部氏の評論スタイルはごくオーソドックスなもので、対象
となる音楽家の史実をまずはきちんとリサーチし、その楽曲
のカバーや関連ミュージシャンを通して理解を深めていく方
法を取る。文章はごく平易な筆致だが、これだけ深く掘り下
げる人も珍しい。わずか4人の音楽家にA4サイズ370項を
費やし、膨大な注釈とコラムで本文を補完するという徹底ぶ
り。その情熱に瞠目するプロの音楽評論家もいるだろう。

とりわけイアン・マクレガンとビル・カーチェンの章はルー
ツ・ロック愛好家の共感を呼びそうだ。彼らが青年期に影響
を受けた楽曲や人脈から興味を広げ、文字に落とし込んでい
く様には、思わぬパーツからミッシング・リングが完成して
いくような喜びが伝わってくる。奇しくもマクレガンとカー
チェンの場合、英米を跨ぎながら活動していったキャリアの
持ち主だけに興味が尽きない。

今回の著作には『最後の切り札〜米国ルーツ音楽再訪』とい
うタイトルが冠されている。とかく沈滞気味の音楽ジャーナ
リズムだが、悪しき状況を一喝する”最後の切り札"(An Ace
In The Hole)になって欲しい。そんな愛すべき私家版だ。

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# by obinborn | 2018-09-02 09:30 | Comments(0)  

残暑奇譚:オビン、婆さんに救出されるの巻

忍者「大将、とうとう熱中症にやられましたね!」

猟奇王「一時は天下を取ったワシとしたことが不覚じゃ。
久しぶりに丸長のつけ麺食べたまでは何でもなかったん
じゃがのう〜」

忍者「天下を取ったって...大将の場合練馬区限定じゃないっすか。
最近はもっぱら引退した悲しい音楽評論家と噂されてまっせ」

猟奇王「ナニい?もう一度言ってみい!聞き捨てならんな!」

忍者「まあ、そうカッカしないでください。そんな調子でいつ
もディスクユニオンの若い店員を説教しているんですか?」

猟奇王「いや〜、西友の帰りに頭が一瞬クラクラしてしまって
な。今日も順調に働いておったんやが、最寄りの日陰でうずく
まってしまったら、近くにいた婆ちゃんが氷をくれてな。いや
〜ホンマ救われた」

忍者「若い娘だとこうは行きませんからねえ〜」

猟奇王「できればタンクトップの姉ちゃんから氷貰いたかったのお〜」

忍者「またそんなことを!婆ちゃんに菓子折り持っていった
ほうがいいっすよ、大将」

猟奇王「バアさんに助けてもらうとは、トホホ、ワシも焼きが
回ったもんじゃ。ところで今日も買ったぞ。リンダDON'T CRY
NOWのオリジナル・マスター盤、スティーヴ・ジョーダンの
『サンフランシスコ大地震』、ジム・パルト『OUT THE WIN
DOW』の3枚じゃ」

忍者「.....」😱


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# by obinborn | 2018-08-30 14:24 | one day i walk | Comments(0)