ボブ・ディラン『Oh Mercy』
投函されなかった手紙のような歌詞がそれを補完していく。
ディランの89年作『Oh Mercy』はそのようなアルバムだ。
ロッキン・ドプシーのアコーディオンもウィリー・グリーンのドラムスも、
プロデューサーの駒のように扱われているという点に関しては、思い切り
反感を抱かれそうな作品であろうし、異母兄弟的なアルバムとなるネヴィル・
ブラザーズ『Yellow Moon』を、今もあなたは聞いているだろうか? という
聞き手の耐久性を問われているリトマス紙でもある。
それでもディランが第三者に身を預けたという意味で、これは一種のエポック
であり、スタジオ・レコーディングの特性を生かし切った精緻として
名を刻むものだろう。
ダンスホールに木霊する遠い声。どこかで鳴らされるベルの音。
良心への自問。彼は夜明けにそっと消えていく星屑の数々を見上げている。
深いエコーのなかから聞き取れるそれらの歌詞も宙に放たれたまま、彷徨い、
迂回するだけだ。
何も結論を急ぐことはない。だいいちスタート地点も結果もあやふやだ。
あなたは帳尻合わせの譜割りのように、果たすべきノルマのように、
あるいは検閲された台帳のように、その生をまっとう出来るだろうか?
解約される保険のように、反故される約束のように。

by obinborn | 2012-03-07 01:19 | one day i walk | Comments(4)
す。ただ『Love and Theft』『Modern Times』そして最新作と続いた
ジャック・フロスト(ディラン本人)名義のプロデュースとは音の位相
がまったく違いますよね。ラノアがアンビエントな質感で勝負しているの
に対し、より生のライヴ感溢れる楽器の鳴りを重視していることがディラ
ンの21世紀からの3枚を聞くと手に取るように感じられます。いわばフィル・スペクターとトム・ダウドとがまったく相容れないのと構造が似てい
るのと同じです。統制された(well Producedの)音楽が好きか、それ
とももっとナチュラルな音を好むのか。聞き手の審美眼が問われている
問題でもあるでしょうね。といいつつラノワのファースト・ソロなど
久し振りに聞き直しているのですが(笑)。
しょうね。要は身内やら取り巻きばかりでつるんでいると見えるものも見えてこなくなる、どんどん駄目になっていくのと理屈は同じです(笑)。そこら辺はロス・ロボスがブレイク=フルームと組んで『コロサルヘッド』のような怪物級の傑作を生んだのと経緯がとても良く似ている。そこで一皮剥けて再びナチュラルなものに回帰していくという流れも共通します
ね。やはりディランもロボスもいろいろ考えているんだなあ〜。ところで
ウィリー・ネルソンがラノアと組んだアルバムがあったけど、見つかり
ません(笑)。






