音楽批評の原則について
あっという間にネットを駆け巡ってしまいました。
http://www.kikuchinaruyoshi.net/2012/03/23/ミュージックマガジンから撤退します/
彼はぼくが普段聞くタイプの音楽家ではないのですが、野次馬的にただ見物を決め込む
のもサイテーだと思います。ですからこうして自分のblogで書きますね。『マガジン』の
姉妹誌である『レコード・コレクターズ』に執筆している身としては、何らかの形で自分
の立ち位置を明確にする必要もあるでしょう。
菊池さんの怒りをぼくなりに整理すると、ジャズというにはあまりに多面的な活動をする
彼がトリックスター的に扱われていることへの不満と、彼のプロジェクトの一環である
ラテン・オルケスタに対する斜に構えたような評文(レヴィ=ストロースの名前を出して
得意気になったり、ティト・プエンテの発言を都合良く改竄したりとひどい代物だ)にあ
ると思います(何が「メンドクサイんですけど〜」だ。そんなことなら書くなよ!)。
そしてそれを放置した編集部の見識への疑問でしょう。
個人的な話になりますが、ぼくがマガジンの読者だった頃、そのオルケスタの評文を
書いた女性ライターには随分嫌な思いをさせられました。彼女がジェイムズ・テイラーの
85年作『That's Why I'm Here』のレコード評でジェイムズをおちょくるような文章を書
いたことがイヤな記憶として残っています。当時ミニコミ(死語ですなあ〜)を始めてい
たぼくにとって、その人はやがて反面教師になりました。近年になっても彼女は佐野元春
の楽曲「Us」(07年の『Coyote』に収録)に関して、極めて薄っぺらいことをこちらは
CDジャーナル誌に書いていました。
ジェイムズに関してはこういうシンガー・ソングライターはもう古い、といった
主旨だったと記憶しています。佐野元春については彼が引用した英語詞のフレーズが
トッド・ラングレンの曲タイトルと同じだったというあまりに皮相的なことをつらつらと
書き連ねるだけだったのです。
音楽家が音楽をどう演奏するのかも、聞き手がどう解釈するのかも自由です。
音楽というイマジネーションや妄想の産物とは本来そういうものでしょう。
ただし、最低限音楽家が意図するものを汲み取るのが物書きとしてのルールです。
たとえば舌足らずの中学生がすぐ側にいるとしましょう。
彼はいわば駆け出しのパンク・ロッカーのようなものだ。
ぼくら大人は彼の発した言語そのものより彼の言いたかったことを汲もうと務めます。
たとえば老獪な政治家がすぐ側にいるとしましょう。
彼はいわば成金趣味の空虚なスーパー・スターかもしれない。
ぼくら大人は注意深く彼の発言から嘘を看破します。
批評とはおよそそのような訓練や想像力と似ています。
ありていに言えば自分には手に負えない音楽だと思ったら原稿依頼を断るべきです。
読者の立場からすれば、言語のロジックというか知的遊戯に終わっている批評など
読みたくもないでしょうし(否、なかには読みたいヒネクレ者もいるか)、万が一
編集者たちがレトリックのみを弄ぶような文章を面白がっているとしたら最悪ですよね。
そしてどんな時代であれ、素直に音楽と向き合っていない文章は淘汰されるだけで
しょう。
だから菊池さんの論旨を突き詰めれば、非常にシンプルな怒りだと思います。
ある意味最もミュージシャンらしく、人間臭く、それでいて茶目っ気もある(笑)。
音楽ライターは個々にどういう音楽に何を書くのか読者にいつも見られています。
それはどういう種類の音楽には自分は手を染めないかということと表裏一体です。
書いたことの価値が、書かなかった何かによって保証されることも多々あります。
もし中村まりが「お前は日本人なのに何で英語詞で歌うんだ?」と
批判されたら、ぼくは本気で怒るでしょう。
もし中原由貴が「お前のグルーヴはジャスト・イン・タイムではない!」と
批判されたら、ぼくは本気で怒るでしょう。
何故ならそれが全くの見当外れだから。
中村さんの歌は英語でもきちんと聞き手に届くし、中原さんのドラムスはグルーヴ
というものの胆をしっかり掴み取っているから。
お陰様で? ぼくのようなへたれライターも20数年文章を書いてこられました^0^
歳を取るほど考え方がどんどんシンプルになり、視界はすくっと澄み渡ってきます。
それはまあ、かつて映画論に夢中だった青年が「そんなのどうでもいいじゃん!」
とある日気が付き、50歳にして渋谷に名画座を作り、「楽しけりゃいいんだよ」と
いろいろな意味で含蓄を込めるのと似ているかもしれません。
ちなみに余談ですが、小生が今年劇場で観た映画は、がっかりする人がいらっしゃる
かもしれませんが、『三丁目の夕日 '64』だけです(笑)。まあ所詮"この程度の奴”
なんですよ、ワタクシは^0^
小尾 隆
かつて自己憐憫の産物と揶揄されたジェイムズは、この85年作で変わっていくもの
を見つめながら変わらないことを確かめる。それはまるで光をそっと束ねていく
ような営為だった。バディ・ホリーが募る気持を込めた「Everyday」をジェイムズ
はまるで自分の歌のように歌う。そのことの価値はきっと毎朝食べるパン以上のも
のだろう。
by obinborn | 2012-03-25 02:20 | one day i walk | Comments(0)