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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 人の営みがどこか空しいのは更新されてい
く毎日の一方で、すり減り失われ続けるもの
があるからだろう。村上春樹の作品は初期か
ら現在まで、およそそうした痛みや喪失を主
題にしてきたと思う。彼独特の修辞や言い回
しに好き嫌いはあっても、まずはそのことを
認めなければならない。多くの主人公たちは
なり振り構わぬ自己主張の造形ではなく、折
り目正しく控えめでむしろ諦観を漂わせてき
た。何かに熱狂したり夢中になったりする姿
を描くのではなかった。それらが終わってし
まってからの空白に村上はいつも寄り添うの
だった。

 本書での多崎つくるもそのような主人公で
あり、「色彩を持たない」というのが謙遜で
あったとしても、ぼくと同じようにその暮ら
しぶりは凡庸であり、そんな彼にとって東京
というのは匿名でいられるには適した場所に
違いない。能動的に生を選び取っているとい
うよりは、これといった個性を発露すること
なく人々や環境に「生かされている」。こう
した感覚が絶えず多崎の日々を苛んでいく。
規則正しく寝食をし、会社で一定の評価を得
て、プールに通うことで身体を鍛えたとして
も、そのような暗い影のようなものは離れな
い。それどころか”森のなかにいる悪い小人”
が囁くように日々増殖していく。

 そんな彼にも光輝いていた季節があった。
しかし誰にとっても青年期は長く続かない。
そうした若葉の頃はまるで急行列車のように
過ぎ去ってしまう。比喩としても言いたいと
ころだが、時間の速度というのは各駅停車し
か止まらない駅に一人佇み、そこで逡巡を重
ねるような人間を相手にせず、どんどん置き
去りにするだけだ。そのほうが遥かに合理的
でありシステマティックであるから。シュレ
ッターを掛けるように過去を裁断出来ればど
んなに楽なことだろう(むろんそれに逆らう
のが文学なり音楽なりの役割のひとつだ)。

 かつての仲間たちからある日突然絶縁され
た多崎がトラウマを抱え、死の淵を彷徨い、
自己回復せんとするまでのストーリー。その
間にはあえて途中で放り出されてしまった灰
田や彼の父親のような人物も登場する。それ
は完成しないパズルのようなものだが、その
一方でかつて心を寄せ合ったエリとの北欧の
土地での邂逅があり、まともであろうとする
多崎には年上のガールフレンドもいる。有能
なセールスマンやいかがわしい企業コンサル
ト会社の経営者となっているかつての仲間と
の埋め難い距離もあれば、1969年という政
治の季節や、まだ記憶も生々しいオウム真理
教の事件がメタファーとなって立ち上ったり
もする。

 あの懐かしいエヴァリー・ブラザーズの歌
にこういうのがあった。「佳き日々がだんだ
ん消えていくのを眺めているのはとても悲し
いことだね」(「So Sad」)『色彩を持た
ない多崎つくると、彼の巡礼の年』(Color
less Tsukuru Tazaki and His Years of Pi
lgrimage)はどこかの誰かの特殊なストーリ
ーではない。私たちののっぴきならない時代
に生息する隣人たちの物語である。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年_e0199046_1930247.jpg

by obinborn | 2013-06-20 19:31 | 文学 | Comments(0)  

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