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1975年の回想

あれは確か高校二年くらいの頃だったと思う。所沢の田舎者だった
僕は、クラスの友達を誘って新宿まで遊びに行った。ちょうど西武
新宿駅に新しいビルが出来た時で、その近くの通りは西海岸を真似
してブールヴァードなんて名付けてられたっけ。果たして新宿まで
映画を観に行ったのか、レコード屋や楽器店に出向いたのかは今で
はもう定かではない。それでも帰りの西武新宿線で友人が持ち込ん
だトランジスタ・ラジオからイーグルスのTake It To The Limitが
流れてきたことははっきり思いだすことが出来る。それは偶然にも
日が暮れる時で、電車の窓から見える夕陽と、ランディ・マイズナ
ーが歌う希望の歌がしっかりと重なり合ったのだった。その時は一
緒にいた友達との関係がずっと続くものだと信じていた。しかし多
くのスクールメイトたちがそうであるように、時の流れとともに、
互いの環境が変化し、やがて疎遠になっていった。その時の彼と
偶然にも再会したのは数年後のことだった。互いにぎこちない挨拶
を交わし、幾つかの言葉を交わした。でもそこまでだった。別にど
ちらが悪いという訳でもないのに、気まずい沈黙が続いた。やっと
自分から出てきた台詞はまるで大人の社交辞令のようで、そのこと
に僕はぞっとした。その場から早く逃れる言い訳に過ぎないと自分で
も思った。若さとは残酷だ。互いがかつて親密であったならあった
ほど、結末はぎこちなく苦しいものへとすり替わっていく。あの75
年の夏から長い歳月が通り過ぎていった。

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# by obinborn | 2019-07-15 18:57 | one day i walk | Comments(0)  

ニール・ヤング『After the Gold Rush』

まず時系列を整理しておくと「強力なギターがもう一本欲しい!」
とスティルスがバッファロー時代の旧友ヤングを加え『デジャ・
ヴ』を完成させたのは70年3月のことだった。これを受けて
CSN&Yはすぐに70年の6月からサマー・ツアーに出掛けている
(その時の様子を収録したのがライヴアルバム『4ウェイ・ストリ
ート』)が、その興奮も冷めやらぬ70年の8月に発売されたのが
『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』だった。既に2枚のソロ・
アルバムを作っていたニール・ヤングにとって、CSN&Yへの参加
は儀礼的なものに過ぎず、あくまで自身の活動に重点を置いていた
ようで、その気配は『アフター〜』の圧倒的な充実ぶりからも伺え
る。69年春の『Everybody Knows This Is Nowhere』で初めて
合流したクレイジー・ホースの面々に、当時グリンというロック・
バンドを組んでいたニルス・ロフグレン、CSN&Yのスタジオ・ア
ルバムに参加したグレッグ・リーヴスが合流して出来上がったのが
『アフター〜』だった。前作で早くも示された元祖グランジとも
呼べる嵐のようなエレクトリック・サウンドが、人種差別への抗議
歌「サザン・マン」として結実し、その続編が次作『ハーヴェスト』
に収録された「アラバマ」や「歌う言葉」に引き継がれていったの
は言うまでもないだろう。その一方この『アフター〜』ではアクー
スティックな弾き語りの頂点Only Love Can Break Your Heart
とTell Me Whyがあり、両極端に振れるニール・ヤングの魅力を
鮮やかに伝える。まるで赤ん坊の泣き声のように歌われる唯一のカ
バーはドン・ギブソンのカントリー曲Oh Lonesome Meだが、
これもまるで自分の歌のように消化している。本来であればギタ
ーが専門職のニルスをあえてピアニストとして登用させたニール
の直感を特筆したい。ニルスのピアノは淡々とコードを押さえ、
幾つかの装飾音を混ぜるだけだ。しかしながら、そのぎこちなさ
がかえってニールの歌と不思議な均衡を保っている。アルバム表
題曲のAfter The Gold Rushや、アート・ネヴィルも歌ったBirds
を聞けば、きっと誰もがその感想に納得してくださるだろう。そう、
ファースト・コールのスタジオ・メンを呼び集め、平均的な音楽
に落とし込むのとは真逆の感性が本作にはあり、幾つかの友情や
信頼が瞬間的な煌めきを何気に
補完する。私がかつてロック音楽

に求めたのは、こうした生々しくオーガニックなサウンドだった。
ラルフ・モリーナの”下手くそ”なドラムスが、ニール・ヤングの
心臓の音のように聞こえてならない。


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# by obinborn | 2019-07-13 17:04 | Comments(0)  

長谷川博一さんの死を悼む

音楽評論家の長谷川博一さんが亡くなられた。一時はメディア
にも頻繁に露出していたので覚えている方も少なくないだろう。
一般的にはブルース・スプリングティーンや佐野元春の評論で
知られ、佐野、忌野、友部らへ取材した『Mr.Outsider.わたし
がロックをえがく時』(91年大栄出版)などの著書を残してい
る。亡くなってから彼の方が若い(享年58歳)と初めて知った
が、デビューが遅かった私を認め、オープンに接してくれた。
そういう意味ではよくありがちな”後輩潰し”とは無縁の人であり、
業界の慣習的な悪癖を嫌っていたと思う。また彼があるバンド
との関係がうまく行かなくなった時も、自分のお金でライブを
観に来て、アンコール前にそっと帰るような人だった。個人的
には腹を割って話し合うような友情は築けなかった。彼の方か
ら「もう一軒行こうよ」と声を掛けてくれたのに応じることが
できなかった自分を今悔いている。心よりご冥福をお祈り致し
ます。

# by obinborn | 2019-07-13 04:00 | one day i walk | Comments(0)  

6月16日のテデスキ・トラックス・バンド


開演前の会場ではクリーデンス、スライ、ディランなどが
流されていた。懐かしく、ちょっと照れくさいような感覚
だ。そんなBGMの数々がごく自然に本編のライブへと連な
ってゆく。まるで60年代後半と2019年とが互いに微笑み合
うような光景だ。こうして16日の東京ドームシティホールで
のテデスキ・トラックス・バンド公演は始まった。新作『
Signs』を出したばかりの彼らだが、そのアルバムからの曲
に偏らず、トータルに自分たちのおよそ10年間を振り返るよ
うな選曲と、スケールの大きいダイナミックな演奏に痺れっ
ぱなしだった。

まず前半のクライマックスはKeep On GrowingとKey To
The Highwayが続けられたところだろうか。僕が20代の
頃一番夢中になったデレク&ザ・ドミノズの2枚組アルバ
ムからのセレクトだ。中盤から後半にかけてはジョン・プ
ラインの名曲「モンゴメリーから来た天使」のボニー・レ
イット版を範にしたスーザン・テデスキのヴォーカルが冴
え、バンドは驚くべきことにグレイトフル・デッドのSuga
r Leeへと束ねてみせる。そんな変幻自在な長尺ジャムを
頼もしく感じずにはいられなかった。白眉はやはりTTBの優
れたオリジナルMidnight In Harlemかな。元々いいメロデ
ィを持ったナンバーだが、静と動とを鮮やかに対比させなが
ら、シグネチャーであるSGを鳴らし、まるでスカイドッグ
のように飛翔させていくデレク・トラックスの姿に筆者は
不覚にも涙してしまった。

自分たちが育ったアメリカ南部の音楽を慈しみながら、
それを懐古趣味ではなく、まるで未来の子供たちに何かを
託すようにTTBの12人はひとつひとつの音色に気を配りな
がら奏でる。遺伝子を受け継いだオールマンズは勿論のこ
と、デラニー&ボニー&フレンズや、ジョー・コッカーと
レオン・ラッセルが率いたマッドドッグス&ジ・イングリ
ッシュメンへの畏怖や尊敬が、輪郭を伴いながら伝わって
くる。

アンコールに用意された2曲の最後はWith A Little From
My freiendsだ。1967年にレノン=マッカートニーが作詞
と作曲をし、ジョー・コッカーとグリース・バンドが69年
の夏のウッドストック・フェスティバルで熱演した歌だ。
それが21世紀という混沌とした時代へ投げかけられていっ
た。暗い雲に覆われたような世界に対するアンサーソング
のように歌われていった。まるで白鳥のように歌は続いて
いく。「友達からのちょっとの助けがあれば、きっと生き
長らえるんだよ」と。

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# by obinborn | 2019-06-16 23:51 | one day i walk | Comments(0)  

追悼:河村要助氏

河村要助さんが亡くなった。享年75歳。練馬区の老人ホーム
で息を引き取ったという。歳の割に介護施設に入るのが早す
ぎる気はするが、何でも闘病生活が長かったらしい。要助さん
といえば”ヘタウマ”の元祖のようなイラストレイターであり、
またサルサ音楽を広く紹介した音楽評論家としても有名で、
情景が匂い立つような文体に痺れたものだが、サルサに熱を
上げる以前はロックやポップスのレヴューも毎月の『ニュー
ミュージック・マガジン』で担当されていた。例えばストー
ンズの『ブラック&ブルー』評での「ビリー・プレストンがサル
サ風のキーボードを弾いている」J.ガイルズ・バンド『狼から
の一撃』での「スプリームスの『愛は何処に行ったの?』で
観客が大歓声を送るのはさすがデトロイト。ぐっと来る」(
いずれも大意)などは、今も私の胸に突き刺さっているほどだ。


きっとそれは雑誌を媒体にする位しか音楽と接することが出来な
かった70年代のシアワセな体験だったのだろう。『マガジン』
の表紙は76年の3月号までが矢吹申彦さんで、4月号のポール・
ロジャーズ!から要助さんにバトンタッチしたと記憶する。
『サルサ天国』に続編の『サルサ番外地』と2冊の氏の著作を
貪るように読んだことも懐かしい。自分の場合それほどラテン
音楽に傾倒することはなかった。でも一時期それらを聞いたお
陰で音楽の幅が広がったことは間違いないし、ドクター・ジョン
の『グリグリ』を理解する手助けにもなった。一度だけ今はなき
南青山のクラブ、サルパラダイスで要助さんの姿を見たことが
ある。あれは90年頃だったかな。一度も話したことのない方に
「要助さん」は失礼に過ぎるけれど、今まで本当にありがとう
ございました。

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# by obinborn | 2019-06-11 18:21 | one day i walk | Comments(0)  

ドクター・ジョン再び

今日の昼に近所のハロー・オールドタイマーに行ったら、
BGMは全てドクター・ジョンで埋め尽くされていた。さ
すがはルイジアナ料理専門店である。このように私の周り
ではマック・レベナックの死を惜しむ人たちでいっぱいだ。

むろん好き嫌いはあるだろうが、アメリカ南部音楽の愛好
家であればドクターを無視することはまず不可能だと思う。
それほどまでにスケールの大きい人だった。1941年11月
生まれというから、第二次大戦が終わる少し前にこの世に
誕生した彼は、文字通り戦後のアメリカ大衆音楽の発展と
ともに歩んだと言えるだろう。しかも10代の頃から人種の
坩堝であるニューオーリンズの町で活動してきたことは
決定的だった。ジャズやブルーズは勿論のこと、ラテンの
バックグラウンドにまで遡れる同地ならではのリズム感覚
が若きレベナックを育てた。またR&Bやロックンロールの
歴史にほぼ同時進行で立ち会ったという意味でも、まさに
20世紀のアメリカ音楽の生き証人であった。

彼はニューオーリンズR&B/ファンクの渦中に身を置きな
がらも、それだけに甘んずることなくロック音楽との交流
を怠らなかった。普段あまり意識することはないが、ドク
ターが白人であったことは、きっと彼に物事を俯瞰するよ
うな視点を与えたに違いない。そうでなければ片方でミー
ターズやアラン・トゥーサンらと最先端の70年代ファンク
に身を乗り出しながら、もう一方でヴァン・モリソンとが
っちりタグを組んだり、トミー・リピューマのプロデュー
スでAORにアプローチしたことの説明が付かない。

「ドクター・ジョンのお陰で音楽の幅が広がりました!」
と多くの人々が口を揃える。偽らざる実感だろう。そんな
ドクターが大地へと還っていく様は、まるで今まで見てき
た大河ドラマがエンドロールしていくような寂しさにも似
ている。かつてドクターは「ジョニー・アダムズがやって
いることに比べれば、私の音楽なんてちっぽけなものさ」
と言っていた。そんな謙虚な気持ちが彼の音楽を大きく育
てた。昨日のニューオーリンズではドクターを見送るセカ
ンドラインが行われた。同地の慣習である「最初の行進で
は故人を悲しみ、帰りには陽気に死者を讃えよう」の実践
だ。地元のブラス・バンドがI'll Fly Awayを演奏し、人々
が踊る。その光景をしっかり胸に刻んでおきたい。

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# by obinborn | 2019-06-09 17:22 | blues with me | Comments(0)  

追悼:ドクター・ジョン

ドクター・ジョンの『ガンボ』を買いに南青山のパイド・
パイパー・ハウスまで行ったのは、確か私が二十歳(78
年)前後の頃だったと記憶している。所沢の田舎者がわざ
わざ港区まで出向いたので緊張しました(笑)確か以前か
ら細野晴臣や大瀧詠一がドクターやアラン・トゥーサンの
ことを話題にし、夕焼け楽団がロニー・バロンをレコーデ
ィングに迎えたこともあって、ニューオーリンズ音楽への
興味が募っていったのだ。多くの人と同じく『ガンボ』の
お陰でプロフェッサー・ロングヘアやヒューイ"
ピアノ"

ミスやアール・キングを知ったことは大きかった。またレ

ヴォン・ヘルム&RCOオールスターズがドクターも録音し

したアール・キングのLet's Make A Better Worldを取
り上げたこと、敬愛するヴァン・モリソンの77年作『安息
への旅〜A Period Of Transition』で、ドクターがプロデ
ュースに演奏と全面的な貢献をしたことも、興味を繋ぎ止
めてくれた。

72年作『ガンボ』で伝統的なスタイルに回帰したドクター
だったが、『グリグリ』でソロ・デビューした68年から暫
くは怪しげなヴードゥ・ロック路線が魅力だった。『グリ
グリ』に収録されたI Walk On Guilded Splintersを最初に
取り上げたのはハンブル・パイで、ジョニー・ジェンキンス
のデュエイン・オールマン入りのヴァージョンがそれに前後
した。のちにポール・ウェラーまでが取り上げたこの曲の
磁力が、きっとドクターの魅力の一端だろう。そんなヴード
ゥ路線〜ナイトトリッパー時代の最終章が、71年の『太陽と
月と草』だったと思う。初めてイギリスに赴き、ロンドンの
トライデント・スタジオで、ミック・ジャガーやグラハム・
ボンド、P.P.アーノルド、エリック・クラプトンを含むデレ
ク&ザ・ドミノズといった面々とセッションしたドクター
のこのアルバムには、スワンプ・ロックにも通じる音の膨ら
みがあり、私はいっぺんで夢中になった。

80年代になってからは割と頻繁に来日したこともあって、
日本でのニューオーリンズ・ブームは頂点を迎え、その渦
のなかからボ・ガンボズのような優れたバンドが生まれた。
私自身ドクターのピアノ・ソロのライブにも立ち会えたし、
当時旬だったネヴィル・ブラザーズとの共演には心底驚き、
理屈を超えた音楽のグルーヴに酔いしれた。イギリスのパブ
・ロック方面では、ドクターが渡英公演をした際にディズ&
ザ・ドアメンがバックを務めた際の音源もしっかりと残され
ている。なおドクターは晩年にあってもチャレンジングであ
り、息子や孫たちとでもいうべきブラック・キーズとともに
『Locked Down』(21世紀の『Gris Gris』?)という傑作
を2012年に生み出した。

コロコロと転がるピアノとダミ声の妙。あるいはアール・キ
ングのLet The Good Times Rollで聞かせる朴訥としたギター。
それら全てが愛おしく思えてならない。

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# by obinborn | 2019-06-07 12:45 | blues with me | Comments(0)  

30年目の『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』に

『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』が発売されたのは89年6月
のことだった。今からちょうど30年前。佐野元春にとっては6
枚めのオリジナル・アルバムだった。彼が単身ロンドンへと渡
り、ブリンズリー・シュウォーツやピート・トーマスなどパブ
・ロック系のミュージシャンと”せ〜の”で録音に臨んだ骨太な
バンド・サウンドが唸っていた。本作を初めて聞いた時の衝撃
は今も忘れられない。以前から佐野は「僕は悲しい、こんなに
傷付いているんだ」といった私小説的な作風を嫌い、日本のロ
ックを大きく塗り替えてきたが、例えば今も歌われている「ジ
ュジュ」の世界観は見事なもので、無垢な「きみ」が組織や社
会のなかで孤立し彷徨う姿が、あるいはそんな「きみ」の不在
を嘆く主人公のありようが、フレッシュな音とともにしっかり
と立ち上がってくる。

ところで89年といえば6月に天安門事件があり、11月にはベル
リンの壁が壊されるというトピックに象徴されるように、世界
が大きく変革される予感に満ちていた。その希望はあえなく挫
折してしまうのだが、そんな時代のダイナミズムと拮抗するよ
うな輝きがこの『ナポレオン』アルバムにはある。先ほど述べ
たように、私小説的ではない歌詞は、たとえ個人的な動機から
始まったかもしれない「ふたりの理由」でさえ、状況の異なる
多くのカップルが感情を入れ込められるものだった。その広が
りはデヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」を思い起こさせるほ
どだった。また自身とマスコミとの乖離を歌う「ブルーの見解」
や痛々しい告白「俺は最低」は、20代でスーパースターになっ
てしまった佐野が、どうしても向き合わなければいけなかった
通過点だったのだろう。アラブ的な音階を伴った「愛のシステ
ム」や、ハーフ・シャッフルのビートに貫かれた「新しい航海」
のダイナミズムにも惚れ惚れする。

自己憐憫ではない歌。たとえ見ず知らずの他人であっても気持
ちを分かち合える音楽。佐野元春は一貫してそれを追求してき
た。必ずしも時代が彼に味方した訳ではなかった。いや時には
希望を見つめる「約束の橋」が冷笑されるような風潮さえあっ
た。一体いつの頃からそんなネガティブな世界になってしまっ
たのだろう。望みもない暗澹たる世の中だ。それでも佐野元春
はきっと明日も歌うだろう。雨が虹に変わるまで。風が光に変
わるまで。


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# by obinborn | 2019-06-04 20:34 | rock'n roll | Comments(0)  

ボズ・スキャッグスの東京公演から見えてきたもの

黒川さんが送付してくれたボズ東京公演のリストを見ると、
彼の代表作『シルク・ディグリーズ』から7曲!も選ばれて
いることに驚かされるが、決して悪いとは思えない。76年に
リリースされたそのアルバムはAORのバイブルと言われ、
その種のガイドブックでも必須アイテムとして登場するが、
それ以前の彼を知る自分にとっては、ボズが彼なりのブルー
アイド・ソウルを発展させたものだったと解釈している。よく
ルーツ音楽とAORとをまるで対立軸のように考える人がいる
けれど、プアな聞き方だと言わざるを得ない。例えばボズが
これまで好んでカバーしてきたアル・グリーンやアラン・トゥ
ーサンにしてもAORライクなアプローチをした時期はあり、
それらを踏まえれば意固地なルーツ原理主義は果たしてどうか
?と疑問を呈さずにはいられない。確かにブルーズ/R&BとAO
Rとでは音の質感が違うのは認めよう。しかし表面的な部分の
下(細野晴臣言うところの共通分母)にあるものを見なければ
大衆音楽は語れまい。というわけで『シルク』アルバムを軸に
しながらも、The Feeling Is GoneにJust Got To Knowと、
最新作からボビー・ブランドとジミー・マクラクリンのブルー
ズ2曲を連ね、アンコールの最後をチャック・ベリーのYou
Never Can Tell(ロニー・レインやエミルー・ハリスも録音し
た)で締める辺りに、ボズの育ってきた音楽背景がはっきりと
伺える。それらルーツの延長線上に『シルク〜』があることを
しっかりと受け止めたい😎✌️

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# by obinborn | 2019-05-13 12:12 | blues with me | Comments(0)  

5月11日のDJ

11日は自由ヶ丘のバードソング・カフェで久しぶりのDJ
でした。今までそれなりの場数を踏んできましたが、今回
は原点に戻って「自分が20〜30代の時に親しんだ曲」に
テーマを絞ってみました。関係者の方々お疲れ様でした!
来てくださった方々(お陰様で立ち見が出る大盛況!)あ
りがとうございました!😊✌️以下私のプレイリストです。

1 Swamp Water/ Big Bayou
2 Ron Davis/Long Hard Climb
3 Carp/The Great Kansas Hymn
4 Rob Galbrath/We've Come A Long Way
5 Jackie De Shannon/The Weight
6 Ken Lauber/Children Of Morning
7 Bonnie Raitt/You Told Me Baby
8Dan Hicks & His Hot Licks/Sweetheart
9Geoff Muldaur/Higher & Higher
10 Chris Ducey/ A Duce Of Hearts
11 Van Morrison/Caravan
12 Crazy Horse/Going Home


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# by obinborn | 2019-05-12 01:38 | one day i walk | Comments(0)  

★不定期連載:USロック名盤その1『American Beauty』★


★不定期連載U.Sロック名盤その1『American Beauty』★

最初にジェリー・ガルシアを知ったのはCSN&YがTeach Your
Childrenで彼の弾くペダルスティールをフィーチャーしていた
からでした。長髪に丸メガネといったガルシアの風貌は田舎の
中学生を畏怖させるに十分でしたが、実際にグレイトフル・デ
ッドのLPを手にしたのは大学に入ってからで、ワーナーの廉価
盤1500円シリーズ(今でいう名盤探検隊の走り)で『ワーキン
グマンズ・デッド』が始まりでした。それ以来紆余曲折を経て
彼らにハマり、一時はDick's Picksのライブ音源なども聞きま
くり、長尺ジャムに真価を発揮するデッドにぶっ飛んだ(ドラッ
グにあらず)のですが、いざ楽曲単位で「いい歌」を探すとな
るとやはり70年の『アメリカン・ビューティ』に辿り着きます。
殆ど対の関係と言ってもいい『ワーキングズ〜』や内省的な『
Wake Of The Flood』も大好きなのですが、ガルシア=ハンタ
ーのソングライター・コンビによる繊細さが際立っているとい
う点では『アメリカン・ビューティ』が最高傑作ではないでし
ょうか。アルバム冒頭曲Box Of Rainの雨が窓辺を叩く詩情から
B面最後のロード・ソングTruckin'まで、今も飽きずに約40分
があっという間に過ぎていきます。その旅のなかにはクリス・
スミザーがカバーしたFriend of the Devilもあれば、まだ存命
だったピッグペンがリード・ボーカルを取る朴訥としたOpera
torもあり、さらには4声のコーラスが鮮烈なAttics of My Life
が深く心に刻まれるといった具合で、さながら彼らと一緒にト
ラックに乗り、アメリカ各地を旅しているような気持ちになれ
るのです。実際Truckin'にはヒューストン、ニューオーリンズ、
シカゴ、ニューヨーク、ダラス、アリゾナ...といった地名が出て
きますからね。約四半世紀に及んだデッドの歴史を振り返ると、
自由を掲げてきた彼らも、70年代後半は自主レーベルが挫折し、
新興のメジャー会社アリスタに身売りし商業主義と妥協するなど、          苦々しい局面を示し始め、時代に翻弄されていきます。そうやっ
て困難を抱えていく姿は何もデッドだけの問題ではなく、他なら
ぬ私たち自身が直面したイシューでした。そんな大人の痛みを知
った今だからこそ、この『American Beauty』が描きだす気ま
まな肖像、若き日の友情、車のエンジンの匂い...などが一層胸に
迫ります。Candy Manでジェリー・ガルシアが沈痛な歌を聴か
せれるかと思えば、ボブ・ウェアはSugar Magnoliaでガルシア
を励ますように陽気な歌を歌う。そんな静と動の一つ一つが、
同じバンドのなかで共存していた。フロントのヴォーカルを分か
ち合っていた。その価値を知ることはちょっと言葉にならないほ
どの体験でした。

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# by obinborn | 2019-05-08 18:07 | one day i walk | Comments(0)  

4月29日の東京ローカル・ホンク


29日は東京ローカル・ホンクのワンマンを青山の月見ルにて。
日本語の自然な連なり。それがバンド・サウンドで弾力を増し
ていく彼らの音楽をとことん堪能した。先代が過去50年間試行
錯誤してきた「日本語のロック」というテーマから逃げること
なく、むしろ正直過ぎるくらい実直に取り組んできたホンクだ
が、その答えがこの夜の演奏にあった。自分たちの町(彼らは
主に城南地区出身)から見える風景を見つめ慈しみながらも、
綺麗事には終わらず、自分が違和を感じたことにはきちんと抗
義を申し立てる。この10年間木下弦二のソングライティングを
曲がりなりにも観察してきた筆者には、まるで一人の無邪気な
青年が現実の様々に直面し、悩みながら、この世の中の理不尽
に立ち向かっていく姿のように思えてならない。しかしながら、
そんな焦燥を直裁的なメッセージでもっともらしく言い表すの
ではなく、時にジョアン・ジルベルトや、カエターノ・ヴェロ
ーゾといったブラジル音楽の才人にも似た暗喩で聞き手を優し
く包み込んでいくのだからたまらない。そんな弦二の手となり
足となってきた新井健太b、田中クニオds、井上文貴gのプレイ
ヤービリティを思うと、ちょっと涙が出てくるほどだ。ラテン
・ビートの「引っ越し娘」に始まり、ジョン・レノンのGod
に匹敵する哲学的な「みもふたもない」を終盤の頂点とし、ア
ンコールを鮮烈なアカペラ・コーラスが映える「サンダル鳴ら
しの名人」で締める。その最終曲で聴衆と分かち合うコーラス
に、音楽が生まれる場所のことを思わずにはいられなかった。


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# by obinborn | 2019-04-30 00:55 | 東京ローカル・ホンク | Comments(0)  

4月12日のサーディンヘッド

12日は青山の月見ルにてサーディンヘッドのワンマンを。
for Freeと題された入場無料ライブも今年で3回めになる
が、この会場ならではの抜けの良い音響やライティングの
効果もあって、まさに特別な夜となった。地響きのように
這い上がってくる低音と澄んだ中高音のバランスは完璧で、
スタッフやDJを含めてトータルに”鰯釣り”を盛り上げよう
とする意思が伝わってくる。本体サーディンのプレイヤー
ビリティの高さは改めて繰り返すまでもないだろう。以前
読んだインタビューの中で彼らが「構成された部分とイン
プロヴィゼーションとが半分ずつくらいなんです」と語っ
ていた通り、テーマのリフから即興に橋渡しをし、再びま
たテーマへと戻っていく変幻自在なジャム演奏にこの日も
酔いしれた。romanchicaで始まり、rainmanにmonkey
and the sunという2つの新曲を挟みながら、loopやcol
orが奏でられる終盤に収束していく構成も実に心憎いもの
で、静と動のコントラストを見事に描き切っていた。

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# by obinborn | 2019-04-13 06:54 | one day i walk | Comments(0)  

我が家のLPコレクションを振り返る

ここ数年アナログ盤を処分してきたお陰でやっと床部分が
見えてきました。以前は七段ある棚のうち一番下がほとん
ど死んでいるような状態だったので、これは嬉しかったで
すね。やはりコレクションが10.000枚を超えると話の自慢
にはなるものの、実際には聞けないものを多量に抱え込む
現実に直面するのです。また個人差はあると思いますが、
ある程度の年齢になると所有欲が薄らぎ「継承」のことを
考えるようになるんですよ。ところで私がLPのコレクショ
ンを意識し始めたのは大学時代(78〜81年)だったと思い
ます。学校の近くにおと虫という良心的な中古盤店があり、
500〜1000円平均で今までカセットでエアチェック(死語)
してきたアルバムを買いまくった体験が恐らく原点だと思い
ます。その頃から吉祥寺の芽瑠璃堂やDisk Inn、青山のパイ
ドパイパーハウスといった新譜店にも積極的に通い出しまし
た。どうしても手に入らなかったエリオット・マーフィーの
ファースト『アクアショウ』を堺のSAM'sの通販でやっと手
にしたのも懐かしい思い出です。ちなみにあの頃の中古盤市
場は極めて健全で、今現在のように異常な高値を付けたりす
るのは稀でした。またマトリクス番号にまでこだわるような
原盤主義者もいなく、のどかな時代でしたね。そんな日々に
買ったサミー・ウォーカー76年のワーナー盤を聞き初心に帰
っています。実は昨年やっとサミーのファーストとなる75年
のフォークウェイズ盤『Song For Patty』を入手し、その
シンプルな弾き語りの価値を私は認めるにやぶさかではない
のですが、同じLittle New Jersey TownやCatcher In The
Ryeといった楽曲でも、リズム隊が入ったワーナー盤のほう
がずっと逞しく響きます。ここら辺の聞こえ方の違いは、き
っと20代に出会ったアルバムかそうではないかという事実に
左右されるのでは?と思っています。

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# by obinborn | 2019-04-10 17:11 | one day i walk | Comments(0)  

4月4日の佐野元春&ザ・ホーボー・キング・バンド


4日は佐野元春&ザ・ホーボー・キング・バンドをビルボード
東京にて。毎年恒例となったこの「smoke and blue」ライブも
8年めになるが、ソリッドなロックで鋭く迫るザ・コヨーテ・
バンドのツアーとは一味違う円熟味に溢れていた。HKBとコヨ
ーテ・バンドをそんな風に使い分けられる佐野のあり方は、恐
らく誰もが羨む最高に贅沢なものだろう。大人びたレストラン
でのライブだからといって侮ってはいけない。決して懐メロに
は陥らず、80年代や90年代の”元春クラシックス”をブランニュ
ー・アレンジで聴かせる工夫がそこにはあった。まだツアーの
途中なので演目は控えたいが、かつて日本人初のヒップホップ
だったエポックな曲がノーザン・ソウル風に改変されたり、ア
ラビックなオーケストレーションが施されたナンバーが、今回
新たにメンバーに加わったザ・ハートランド時代の長田進によ
るボトルネック・ギターでカントリー・ブルーズに生まれ変わ
るなど、毎回観ている私にも新たな発見があった。また終盤に
はゲストとして佐橋佳幸が飛び入りし、シグネチャーとなるス
トラトキャスターで美味しいフレーズを奏でるというサプライ
ズも!そういう意味ではHKBの変幻自在な演奏力を堪能出来た
夜だったと思う。

80年の3月。佐野はシングル「アンジェリーナ」でデビューし
た。それは日本のロックが持っていなかった疾走するリリック
とビートの融合であり、新世代の誕生を否が応にも告げていた。
当時まだ20代前半だった彼が、自らの”若さ”に賭けていた部分
もあった。そんな青年の肖像が歳月を重ねるとともに、もっと
思慮深い”経験の歌”へと変わっていく。佐野元春のソングライ
ティングのおよその歩みとは、多分そうしたものだろう。かつ
て「君を探している」と必死に訴えていた”彼”が、いつの間に
かランディ・ニューマンの歌にも似た群像劇を演出し、従兄弟
の墓参りをする大人の悲しみにへと、ふと気持ちを寄せていく。
そんなおよそ40年間という歳月を、私たちは佐野元春とともに
歩んできた。


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# by obinborn | 2019-04-04 22:50 | rock'n roll | Comments(0)  

「何でも屋だけにはなるなよ」

イチローの現役生活はおよそ28年間という驚異的な長さだった。
偉大過ぎる彼と比べるのはおこがましい限りだが、僕も文筆業を
ちょうど28年続けてきたので、いつ引退してもおかしくないと
思っている。実際この世界はプロ野球同様にとても厳しく、最初
は頑張っていろいろな媒体に書いていた人が、いつの間にか忘れ
去られてしまうなんてことはザラ。売れっ子と呼ばれるライター
はほんの僅かで、残り大半はどんぐりの背比べといったところだ
ろう。まして現在は音楽雑誌が殆ど淘汰され、誰も活字を読まな
くなったインターネットの時代である。そんな波をモロに被りな
がら、最初の10年は雑誌とムックに寄稿し、次の10年は単行本5
冊に集中出来たのだから自分の場合それなりに幸せだったのかも
しれない。その間に指摘された多くは「お前は欲がないからダメ
なんだよ」ということだったが、僕個人としては好きでもないバ
ンドのことを褒めまくり後から後悔するよりは、自分の好きなテ
リトリーを守るほうが遥かに大事だった。よく飲み屋が傾くと客
に対してのおもてなしよりも、今晩は何枚落としてくれるのかし
か浮かばなくなると言われる。それと同じ愚は犯したくなかった
んですね。あ〜今夜はブリンズリー・シュウォーツを聞こうかな。
今から4年前、56歳になってやっとパブ・ロックの書籍を出せて
良かった。これは「何でも屋だけにはなるなよ」とアドバイスし
てくれた友人たちのお陰だと思っています。


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# by obinborn | 2019-03-22 17:30 | one day i walk | Comments(0)  

四半世紀以上ユニホームを着続けたイチロー


外野深くから鋭く返球され本盗を阻止するプレイに誰もが
息を呑んだ。通称レザービームと呼ばれる送球であり、大
リーグの中でも「最も肩が強い外野手」と讃えられた。実
際ヒッティングバッターという看板だけでなく、走塁や守
備でも私たちを釘付けにする、文字通り打走守の三本柱が
揃った選手だった。とかくホームランが重宝される米国の
大味なベースボールに、”ファスト"な魅力を加味したのが
イチローその人だった。感情を表に出さない態度から「チ
ームの勝利よりも個人の記録を優先している」と揶揄され
たこともあったが、意に介さなかった。多くの人々はきっ
と忘れているだろうが、かつて国民名誉賞を「まだ道半ば
ですから」と辞退したのも、イチローらしいストイックさ
の表れだったと思う。近年は以前の冴えがなく、出場する
試合も少なくなっていたが、最後まで現役というか、より
正確にはマリナーズの一員であることにこだわり、今年の
キャンプにも合流した。そのキャンプの終盤に自分の限界
を悟ったことが21日の引退会見に繋がった。日本で9年ア
メリカで19年めと四半世紀以上もユニホームを着続けた45
歳の別れの挨拶は、爽やかで晴れ晴れしかった。


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# by obinborn | 2019-03-22 10:16 | one day i walk | Comments(0)  

3月14日の吉村瞳

14日は新橋のアラテツで吉村瞳のワンマン・ライブを。マディ
・ウォーターズの「ローリン&タンブリン」から自作の「ブル
ーバード」まで、淀みなく流れる起承転結が素晴らしかった。
ワイゼンボーンは控え目にし、通常のアクースティック・ギタ
ーを中心にグイグイと押していく、そんな力感がこの日は際立
つ。吉村はカバー曲の審美眼も見事だが、フィンガーピッキッ
ングで奏でられる「カラー・オブ・マザー」や、7thコードで
組み立てていく新曲「ヴァレーシア」といったオリジナルは息
を呑むほど鮮烈で、ちょっと言葉では言い表せない体験となっ
た。ある日突然天災はやってくる。海は荒れ、山は崩れる。そ
れらを前に私たちは為すすべもなく、呆然と立ち尽くすだけだ。
それでも吉村瞳はきっと歌を携え、澄んだ目でこの世界を見渡
していくことだろう。


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# by obinborn | 2019-03-15 12:33 | one day i walk | Comments(0)  

追悼:ハル・ブレイン

それにしてもハル・ブレインの訃報にはひとつの時代の
終わりを感じずにはいられません。彼の場合はセッショ
ン・ドラマーだっただけに表舞台に立つことはありませ
んでしたが、その分熱心な音楽ファンによって注目され
てきたと言えるでしょう。そんなブレインが影武者とし
て活躍した60年代に於いては、バック演奏が誰それであ
るという興味は殆ど共有される環境にありませんでした。
無論器楽演奏をメインとするジャズの場合は例外でした
が、多くのポビュラー音楽の現場でスポットライトが当た
るのはあくまで主役の歌手/グループであり、ヒット曲
のソングライターやプレイヤーといった裏方に関する情報
は余りに乏しかったのです。ここら辺は日本の歌謡曲や
演歌も同じようなものでしたよね。そんな時代状況のな
か、ハル・ブレインは徹底して”匿名の人”でありました。

ザ・ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」やママス&パパス          「夢のカリフォルニア」と「マンデー・マンデー」のド
ラマーが誰か? なんていう関心は当時全く相手にされま

せんでした。あるいはザ・バーズのドラムス奏者がマイケ
ル・クラークであれば、「ミスター・タンブリンマン」を
叩いているのが彼であり、カレン・カーペンターが歌いな
がらドラムをプレイする人であれば、「雨の日と月曜日は」
のフィルインが彼女だと想像するのは、音楽ファンのごく
自然な姿だったのです。フィル・スペクターのレッキング
・クルーの一員としてキャリアをスタートさせたハル・ブ
レインは、やがてブライアン・ウィルソンやヴァン・ダイ
ク・パークスと接点を持ち、『ペット・サウンズ』や『
ソング・サイクル』といった西海岸ロックの傑作アルバム
に寄与していきます。ここで特徴的なのはいわゆるスモ
ール・コンボでの自己主張という意識ではなく、どちら
かというとオーケストレーションの一環として、歌のスト
ーリーを補完するような役割を果たしているということで
す。そんなブレインの特徴が最もよく現れた演奏がサイモ
ン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」と「ボクサー」
(いずれも69年)だと筆者は感じるのですが、いかがで
しょうか?

今こうして書いている間にも、ハミルトン・ジョー・フラ
ンク&レイノルズの「恋の駆け引き」やアルバート・ハモ
ンドの「カリフォルニアの青い空」でのブレインのドラム
スを思い出し、涙が止まりません。ジョージ・マーティン
がアメリカ(バーネル、ベックレイ、ピーク)を通して、
起用したのもハル・ブレインその人でした。そういう意味
ではポップ音楽の骨格にまだ良きメロディがあった時代に
寄与したのがブレインだったのかもしれません。

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# by obinborn | 2019-03-12 17:33 | one day i walk | Comments(0)  

中村とうよう氏の『地球のでこぼこ』を読み返す

今日は中村とうようの『地球のでこぼこ〜とうようズ・
バラード』(話の特集/78年)を読み返してみました。
彼が編集長だった『ニューミュージック・マガジン』の
名物コラム「とうようズ・トーク」を8年ぶん纏めたも
ので、年代ごとに回想録が付けられています。音楽に対
する真摯な姿勢だけでなく、社会問題にも鋭く切り込ん
だ氏ならではの辛口の批評は、今思えば社会主義に憧れ、
キューバにまでサトウキビ畑刈りの労働に出向いた青年
の闘争日記のようでもあり、いささか古色蒼然とした印
象は否めません。しかしながら、70年代になるにつれて
ロックが商業主義に取り込まれていった様を誰よりも早
く見抜き告発したのはようようさんに他なりませんでし
たし、本書でもそんなロックに代わって第三世界のサン
バやサルサ音楽に活力を見出していった氏の足跡が感じ
られます。時代の背景としてはナイジェリアの惨状から
ウォーターゲイト事件によるニクソン政権の失脚、オイ
ルショック、成田闘争までといったところでしょうか。
レーニンの独裁に失望したとうようさんが毛沢東の文化
大革命にはまだ希望を抱いていたことも明かされていま
す。恐らく今の若い世代には「何言っているんだ、この
オッサン!」としか受け止められないと思いますが、彼
のそうした姿というのは当時の進歩的文化人の標準だっ
たことは覚えておきたいですね。自分の場合は最も多感
だった高校生の時に『マガジン』を読み始めたので、と
うようさんの左翼的なメンタリティに影響を受け、また
そこから抜け出すまでには膨大な時間を要しましたが、
政治や社会に対して「これはおかしい!」と感じたら
率直に意見する態度だけは今も失いたくないです。


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# by obinborn | 2019-03-09 17:41 | one day i walk | Comments(0)  

映画『半世界』を観て

今日は池袋のシネマロサにて阪本順治監督の『半世界』
を観てきた。かつて同級生だった三人がアラフォーにな
り微妙にすれ違っていく様を描いている。とくに自衛隊
の海外派遣から帰り精神を病んだ瑛介(長谷川博己)が
加わっているところがポイントで、地方の町の退屈な暮
らしの中にも現代的なテーマが押し寄せていることを考
えさせられた。決して戦場は登場せず、舞台となる伊勢
志摩の美しい風景とくたびれた生活とが入れ替わり立ち
代わるだけだが、それ故に響いてきてしょうがなかった。
「お前が知っているのは世間だろう。俺は世界に行って
きた」「難しいことを言わないでくれ。こっち(伊勢)
だって世界なんだ」というやりとりが刺さる。

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# by obinborn | 2019-03-04 17:47 | one day i walk | Comments(0)  

マーク・ベノの憂鬱


マーク・ベノの『ロスト・イン・オースティン』は79年に
発売された。前作『アンブッシュ』から実に7年ぶりのリ
リースだったから、カムバックアルバムと呼んでも差し支
えないだろう。彼が長く沈黙している間に音楽シーンはす
っかり様変わりし、かつて隆盛を誇ったSSW〜スワンプは
退潮し、AORやディスコあるいはスタジアム・ロックがそ
れに代わったのだが、それらの流行に馴染めなかった自分
にとってベノの復活は心強かった。すっかり読むところが
なくなった当時の『ニューミュージック・マガジン』で、
矢吹申彦氏が『ロスト・イン・オースティン』を79年のベ
ストに挙げておられたことを今もよく覚えている。私はま
だ就職を控えていた学生だったが、本作とアルバート・リー
の『ハイディング』ばかりを聞いていた。

ベノ本人にとっては初めて英国人プロデューサーのグリン・
ジョンズと組み、ジョンズが根城としていたロンドンのオ
リンピック・スタジオでレコーディングされた作品である。
バックは当時ジョンズの製作下で『スローハンド』と『バッ
クレス』を発表したエリック・クラプトン・バンドだが、
ジェイミー・オルテガーの代わりにジム・ケルトナーがド
ラムスに加わり、やがてE.Cバンドに参加するアルバート・
リー(ヘッズ・ハンズ&フィート〜チャス&デイヴ〜エミ
ルー・ハリスのホット・バンド)のギターも随所に聞き取れ
る。それらすべての要素が私を満足させるものだった。また
表題曲を始め、New RomanceやChasin' Rainbowsなどの
楽曲も粒揃いだったし、何よりベノ本人のダウンホームで
泥臭いサザン・フィールが以前のままだったことが、この人
の融通のなさと信頼に値する何か(something to believe
in )を物語っていた。

「エリックの巨大なマーケットに比べたら、僕の市場なんて
微々たるものだよ。でも思うに僕が書いたChasin' Rainbow
はエリックのTears In Heavenに影響を与えたんじゃないか
な?」インタビューの席でベノは神妙にそう告白した。ちな
みにchasin' rainbowsではE.C.が震えるようなスライド・ギ

ターを弾いている。


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# by obinborn | 2019-02-27 17:48 | one day i walk | Comments(0)  

テデスキ・トラックス・バンドの新作『Signs』を聞いて

新作の発売日にコフィ・バーブリッジ(kbd,ft)の死去という
悲劇が伝わってきた。実に複雑な気持ちである。実際コフィの
多彩なキーボードやソングライティングがテデスキ・トラック
ス・バンドに貢献してきた部分は大きかっただけに、無念とし
か言いようがない。享年57歳。この新作『Signs』でも彼は2
曲に共作者として名を連ね、印象的なウォーリッザーやハモン
ドを弾きながら、TTBの音楽に広がりを与えている。私がデレ
レク・トラックスという若きギタリストを知ったのは、彼がウ
ォーレン・ヘインズgとともに古いオールマンズに新しい息吹き
を与えた90年代だったが、当時から単にテクニック的に上手い
というよりは、曲全体をきちんと見渡し、トータルに音楽を把
握出来る人だなという印象を受けたものだ。その気持ちはデレ
ク・トラックス・バンドを経て、夫人であるテデスキと新たに
結成したTTBで以前にも増して強まった。この新作でもデレク
はまるで「ギターなんてバンドのパーツに過ぎないんだよ」と
言わんばかりだ。ここら辺はどの時期のE.Cやベックが好きな
のかという微妙(されど重要)なテーマではあるけれども、
自分の場合は弾きまくる人よりは「一枚の絵画を描くように」
に筆を取る人が好きなんですよ。いずれにしてもTTBは豪放な
アメリカン・ロックの伝統を受け継ぐ部分と、その枠に収まり
切らない新しいエレメントに満ちていると思う。アルバム最後
のThe Endingが泣かせる。グレッグやブッチらに捧げたこの
追悼歌は、まるでかつてオリジナル・オールマンズがスタジオ
録音の最後に収めたLittle Marthaのように響く。


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# by obinborn | 2019-02-22 17:27 | blues with me | Comments(0)  

I Remember Clifford

チャーリー・パーカーと出会い、アート・ブレイキーに認め
られて世に出たクリフォード・ブラウンは50年代ハードバッ
プのサラブレットだった。ライオネル・ハンプトン楽団に参
加しヨーロッパ公演を終えた54年、ブラウニーはマックス・
ローチと意気投合し、いよいよ自身のクィンテットを旗揚げ
する。メンバーはブラウニーtp、ローチds、ハロルド・ラン
ドts、ジョージ・モロウb、リッチー・パウエルpという黄金
の五人。そんな彼らがニューヨークでスタジオ録音に集中し
たのが55年2月23、24、25日のセッションから成る『STU
DY IN BROWN』だった。朗々と吹きまくるブラウニーとス
ウィング感たっぷりのローチの両軸がしっかりと絡み合い、
残る三人が後押しする理想のスモールコンボであり、陽性の
バップっていいものだなあと実感させられる。またランドと
パウエルもソロを取るのでバンド・アンサンブルの変幻自在
な様子がとてもスリリングに伝わってくる。最も有名なのは
デューク・エリントンでお馴染みの「A列車で行こう〜Take
The A Train」だろう。汽笛を模したイントロが終わるとブラ
ウニーが天衣無縫なソロを繰り出してゆく。エルヴィス・プ
レスリー(原作はジュニア・パーカー)のMystery Trainが
ロックンロールのメタファーなら、「A列車で行こう」はさ
しずめジャズの未来を切り開くような約束手形だったのでは
あるまいか。こうしたトレイン・ソングの系譜はフォークと
ブルーズに顕著だが、ストーンズのALL DOWN THE LINE
をそこに加えても何ら問題はあるまい。ミック・ジャガーは
こう歌っている「おお!汽笛が鳴るのが聞こえるぜ」しかし
ながらブラウニーの祝福された音楽活動は長く続かなかった。
本作『STUDY IN BROWN』の録音からわずか一年ちょっと
の56年6月26日に悲劇は訪れた。リッチー・パウエルの夫人
が運転する車は、フィラデルフィアからシカゴへと向かって
いた。その日は不吉な雨が降っていた。運転を誤った夫人の
車は大破し、同乗していたリッチー・パウエルとクリフォー
ド・ブラウンともども三人は一瞬にして帰らぬ人となってし
まった。それはジャズの未来が奪われたような悲劇的な事故
だった。ブラウニーはまだ25歳の若さだった。


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# by obinborn | 2019-01-31 17:09 | blues with me | Comments(0)  

追悼:クラウディ・キング

「クラウディと私が最初に仕事をしたのは、メル・カーター
のWrong Side of Townのレコーディングの時でした。もう
数年前のことですが、彼女のヴォイスはとても温かくソウル
フルで、また今時見つけるのが困難なくらい繊細でした。そ
の後クラウディとビリー・プレストンは私の書いたThe Split
の映画のための曲を歌ったのです。そう、彼女は特別な何かを
持っているのです」

71年にリザード・レーベルから発売されたクラウディ・キン
グの初ソロ・アルバム『Direct Me』に、クインシー・ジョー
ンズは上記の賛辞を寄せている。今からもう47年以上前の話
だ。以前『バック・コーラスの歌姫たち』という映画が公開さ
れたが、70年代はクラウディ・キング、ヴァネッタ・フィー
ルズ、グロリア・ジョンズ、クラウディア・レニア、メリー・
クレイトン、ジニー・グリーンなど、それまでバック・コーラス
要員として脇役に徹してきた彼女らが脚光を浴びた時代だった。

クラウディの場合はまずレイ・チャールズのレイレッツを出発
点に、ビリー・プレストンとの共同作業などで60年代を過ごし
たが、そんな彼女にとって転機となったのが、72年にローリン
グ・ストーンズの『メインストリートのならず者』に参加した
ことだった。ストーンズは以前から「ギミー・シェルター」で
メリー・クレイトンを起用するなど黒人音楽へのアプローチを
本格化させていたが、ビリー・プレストンとクラウディをセッ
トにして、L.Aで行われた『ならず者』の最終ダビングに迎え
たのは卓見だった。特に「ダイスを転がせ」で「got to love
d me〜」と切り込んでくるクラウディのパンチの効いたライン
は極めて印象深く、彼女のシグネチャーとなった。

そんなストーンズと前後して、ブリティッシュ・ロック方面で
はハンブル・パイが『EAT IT』で、ブラックベリーズ(クラウ
ディ/ヴァネッタ/ビリー・バーナム)をフューチャーするばか
りかツアーにも帯同させるなど、クラウディの存在をアピール
した(但し翌年の『Thunderbox』では彼女の代わりにカレー
ナ・ウィリアムスがベリーズの一員になっている)ここら辺の
動向はスワンプ・ロックの時代を物語るもので、彼ら英国勢だ
けでなく、本国アメリカでもクラウディはたちまち人気者とな
り、数多くのレコーディングに駆り出されていった。

ざっと挙げるならば『ゲイリー・セイント・クレア』ロン・デ
ィヴィス『サイレント・ソング・スルー・ジ・ランド』『ゲイ
ター・クリーク』バーバラ・ストライサンド『ストーニー・エ
ンド』グラハム・ナッシュ『ソング・フォー・ビギナーズ』
『リタ・クーリッジ』アル・クーパー『ニューヨーク・シティ』
マーク・ベノ『雑魚』ジェシ・エド・ディヴィス『ファースト』
『ウルル』『L.Aゲッタウェイ』『ジュディ・シル』ルディ・
ロメロ『トゥ・ザ・ワールド』ラリー・マレイ『スウィート・
カントリー組曲』エルヴィン・ビショップ『ロック・マイ・ソ
ウル』デラニー&ボニー『トゥゲザー』アーロ・ガスリー『
最後のブルックリン・カウボーイ』『スティーヴ・ファーガソ
ン』デイヴ・メイソン『忘れ得ぬ人』グリン『ゴーン・クレイ
ジー』リンダ・ロンシュタド『ドント・クライ・ナウ』スティ
ーリー・ダン『キャント・バイ・ア・スリル』『ロイヤル・ス
キャム』『エイジャ』『トレイシー・ネルソン』レーナード・
スキナード『セカンド・ヘルピング』『ボブ・ニューワース』
ビル・ワイマン『モンキー・グリップ』『ストーン・アローン』
ボニー・ブラムレット『イッツ・タイム』ジミー・ウェッブ『
エル・ミラージュ』デルバート・マクリントン『セカンド・ウ
ィンド』ジョー・コッカー『ジャマイカ・セイ・ユー・ウィル』
グレッグ・オールマン『プレイン・アップ・ア・ストーム』ジェ
リー・ガルシア『ガルシア』『レオン・ウェア』旧友ビリー・
プレストンの『ミュージック・イズ・マイ・ライフ』など、クラ
ウディがバック・コーラスを担ったアルバムはあまたある。とり
わけボブ・ディランの『セイブド』に始まるゴスペル期の作品へ
の貢献は大きかったのではないだろうか。

そんなクラウディが亡くなってしまった。ゴスペルのルーツを
持った彼女の歌を、今まで数多くのアルバムとともに聞けたこ
とを誇らしく思う。かつてミック・ジャガーは彼女をモデルに
しながらBrown Sugarを書き上げたと伝えられている。なお、
メリー・クレイトンとともにレーナード・スキナードのSweet
Home Alabamaのセッションに参加したことに関しては「アラ
バマはレイシストによって同胞たちが嬲り殺された場所なのよ」
と言い歌うのを嫌がったメリーを、クラウディは宥めたという。
そしてクラウディは正直に告白している。「私たちはあの歌を
歌ってしまいました。その不名誉の代償はきっと償い続けなけ
ればならないでしょう」と。





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# by obinborn | 2019-01-14 09:34 | one day i walk | Comments(0)  

音響の達人、ダニエル・ラノア


冬になるとやはりカナダの音楽家を聞きたくなる。ケベック州
出身のダニエル・ラノワは今や泣く子も黙るプロデューサーと
して、ジョー・ヘンリーやT.ボーン・バーネットと並ぶ”音響派”
の大御所だが、70年代にはウィリー・P・ベネットなどカナダの
SSWのアルバムで修行を重ねた。ブライアン・イーノに影響され
たラノワは、その独特の深いエコーを伴った音響哲学をボブ・デ
ィラン『オー・マーシー』『タイム・アウト・オブ・マインド』
ネヴィル・ブラザーズ『イエロー・ムーン』『ロビー・ロバート
ソン』などで実践し、いずれも成功へと導いていく。とくに80
年代に低迷していたディランはラノワとの出会いによって、第一
線へ返り咲いたという印象が強い。そんなプロデュースと前後し
てラノワは、自身の初ソロ・アルバム『アケディ』を89年にリ
リースし、一躍時の人となった。ルーツ音楽のポスト・モダン化
というか客観視というか、ケイト&アンナ・マクギャリグルが
ラノアと組んだら一体どうなっていたのだろう?という好奇心を
駆り立てるほどだ。原理主義者にはやや抹香臭いサウンドメイキ
ングながら、エミルー・ハリスやウィリー・ネルソンといったカ
ントリーの音楽家がラノアの力を借りながら、評価が分かれるア
ルバムを生み出したのが90年代というワン・ディケイドだった。
何しろ自我の強いあのニール・ヤングでさえ『ラ・ノイズ』をラ
ノワに委ねていたほどだ。それにしても『アケイディ』というア
ルバム表題は、フランスからカナダに入植していったアケイディ
アンのことを思い起こさずにはいられない。その移動する民族が
遥か彼方〜アメリカのルイジアナ州に辿り着いた物語が、まさに
ザ・バンドの「アケイディアの流木」だった。なお最後に蛇足だ
が、ルイジアナ州出身でありながら徴兵を拒否しカナダに亡命し
たジェシ・ウィンチェスターが、時おりフランス語の歌詞を混ぜ
ていたことにも筆者の興味は及ぶ。


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# by obinborn | 2019-01-10 18:02 | one day i walk | Comments(0)  

ブリンズリー・シュウォーツの自尊心


夕方のスーパーで偶然にも以前の職場でお世話になった方
とバッタリ。主夫?さながらに10分ほど近況を報告し合っ
た。この人は私が辞める時唯一心配してくれた方なのでそ
れなりの信頼関係が出来ている。ハタから見れば取るに足
らないsmall town talkかもしれないが、自分こういう会話
嫌いじゃないですよ。こんな日は家に帰って聞くブリンズ
リーズが格別気持ち良い。もう何百回どころか何千回も聞
いた73年作『Please Don't Ever Change』だけど、まる
で生まれたばかりの新譜のように響き亘る。元々華々しい
話題には最初から縁がなく、フィルモア・イーストで背負
った借金を返済するためにロンドンのパブ・サーキットを
くまなく回ったというほろ苦い出発をしたグループである。
マネジャーのデイヴ・ロビンソンは「音楽的な自尊心だけ
は誰にも負けなかった」と記したけれども、同時代に華
々しく活躍したあまたのブリティッシュ・ロッカーに比べ
れば、殆ど語られることなく終わった約5年の活動期間だ
った。何しろパブの酔っ払い相手の演奏ばかりで、たまに
来るリクエストといえば全米トップ40くらい。決してニッ
ク・ロウやイアン・ゴムがソングライティングを手掛けた
曲ではない。その事態に彼らは一体どれくらい傷付き苦し
められたことだろう?それでもいつか時の審判は下るもの
だ。自尊心を売り飛ばさなかった彼らは、解散した75年の
3月から数えておよそ48年以上経つ今でも、本当に音楽を
愛するファンからリスペクトされ、こうして日本盤のCD
がリリースされている。そのことの価値を思わずにはいら
れない。


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# by obinborn | 2018-12-06 18:14 | one day i walk | Comments(0)  

エディ・ヒントンのソングブック『Cover Me』に寄せて

エディ・ヒントンを知る前に彼の書き下ろした曲を初めて
聞いたのはニッティ・グリッティ・ダート・バンドのDown
In Texasだった。ソウル・ファンにはオスカー・トニー・Jr
の持ち歌としてお馴染みだろう。そんなことを懐かしく思い
出しながらエディのソングブック『Cover Me』を聞いてい
る。共作者のドニー・フリッツが自ら「私とエディの記念碑
だよ」と語るダスティ・スプリングフィールドの「ベッドで
朝食を」に始まり、夜明けにエディがふざけて木によじ登っ
た体験を元にしたルルの「エディはどこに?」で終わるこの
コンピレーションは、95年に他界してしまった エディのソ
ングライターとしての側面に光を当てていて、私が知ってい
る曲と知らない曲が半々くらいずつといったところだが、ペ
ン=オールダムやジョー・サウスあるいはダン・グレアらと
ともにアメリカ深南部のR&Bシーンを支えたエディの裏面史
として、本当に申し分ないものとなっている。レフトバンク
「愛しのルネ」に似た作風のボックストップスIf I Had Let
You Inや、シェールのSave The Children、トニー・ジョー
ホワイト自身は意外にも「俺はエディに会ったことがない」
と語るフリッツ/ヒントン作をトニー・ジョーが歌った300
Pounds of Hongry、ボビー・ウーマック自らイントロで
「スタジオ・セッションが終わる間際にエディがこの曲を
持ってきたんだよ”これをやらないかい?”って」と語るA
Little Bit Salty辺りがクライマックスだろうか。またエディ
が最初のソロ・アルバムに収録したヒントン=ペン作I Got
The Feelingのアメイジング・リズム・エイシズ版は恥ずか
しいことに筆者は今回初めて知った。エディ・ヒントンの作
風として一貫しているのは、やはりブルーズとゴスペルとソ
ウルの感覚に違いない。ニューヨークのティン・パン・アレ
イ系コンポーザー(ゴフィン=キングであれリーバー=スト
ラーであれポーマス=シューマンであれ)とは明らかに様相
が異なる実直な心情吐露に、エディ・ヒントンが身をもって
歩んできた南部の音楽風土を思わずにはいられなかった。


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# by obinborn | 2018-11-20 14:42 | blues with me | Comments(0)  

11月17日の佐野元春&ザ・コヨーテ・バンド

17日は佐野元春&ザ・コヨーテ・バンドを横浜のランド
マーク・ホールにて。10月から始まった彼らの『禅ビー
ト・ツアー』はいよいよ終盤を迎えた訳だが、予想以上
にソリッドで引き締まった演奏が圧倒的だった。佐野は
MCでコヨーテ・バンドとの連携が13年目に入ったこと
を繰り返した。そこに優れたソングライターでありなが
ら、ソロ・アーティストという方向性ではなく、常にバ
ンドとともに歩んできた彼の矜持が感じられた。実際コ
ヨーテ・バンドの成長ぶりは目覚ましく、高揚感あるメ
ロディが剥き出しのギター・ロックで叩きつけられる様
は、一瞬アメリカの荒ぶるオルタナティブ・ロックを聴
いている錯覚に陥るほどだった。選曲にしてもファン・
サービスの終盤を除けば、コヨーテ・バンドを率いてか
らのナンバーばかりを束ねていく徹底ぶりが清々しく、
多くの80年代組がノスタルジア・サーキットに陥ってい
るなかで一際異彩を放っていた。しかも決して希望を失
うまいとする佐野の世界観は健在であり、かつて言って
いた「暗い情感で人々と繋がるのが僕はイヤなんです」
という言葉を無言のうちに裏付けていた。そう、まさに
それこそが佐野元春が長い歳月に亘って実践してきたも
のだった。21世紀という荒れ地は僕らの目を疑わせ耳を
塞がせるばかりだが、それでも彼は明日も花束を抱えな
がら歌っていくことだろう。そんなことを思わずにはい
られない夜だった。


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# by obinborn | 2018-11-17 22:02 | rock'n roll | Comments(0)  

『ホワイト・アルバム』私感

『ホワイト・アルバム』に関する呟きで思わずハッとさせら
れたのは「いくら音がリマスターで更新されても、そこで歌
われている言葉そのものは昔と変わらないですよね」という
発言でした。なるほどね。圧倒的にジョン派の私は英国ブル
ーズ・ロックから刺激を受けた「ヤー・ブルーズ」が出色か
な。さらに「僕の言葉の半分に意味はないよ」と呟く「ジュ
リア」の独白が染みます。四人の緊密な関係がもはや崩壊し
始めていた68年の記録として、これ以上の楽屋落ちはないで
しょう。「俺はもう疲れたよ」(I'm So Tired)もまたジョ
ンによる抜き差しならない本音でした。


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# by obinborn | 2018-11-16 18:21 | one day i walk | Comments(0)