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カテゴリ:文学( 53 )

 

佐々涼子『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている』

佐々涼子さんの『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている』
(早川書房)が清々しい。震災後に機能が完全に停止して
しまった石巻市の日本製紙石巻工場に密着したルポルター
ジュであり、半年後に稼働するまでの過程が綿密な取材に
よって描かれている。社長、工場長、オペレーター、ボイ
ラー担当者、関連企業の社員など多くの人の声を聞き取り
ながら、佐々さんは淡々と公正な態度で書き留めてゆく。
地元産業の復興なしに被災地の再生はない。そんなことを
肌で知っている人達の偽りなき声だ。震災後「豊かな暮ら
しか、それとも自然か」などという歌が生まれたけれど、
そうした二者択一では割り切れない地方の現実へと、著者
は謙虚に向かい合う。思想や信条による峻別ではなく、工
場を再び動かさなければいけないのだという思い。それが
いかに尊いことか。実際に何をしたでもない自分も、あの
当時こういう人たちがいて、毎日こういう風に努力してい
たことはしっかりと記憶に留めておきたい。前作『エンジ
ェル・フライト』(拙ブログで書評済)では葬儀屋に目を
向けた佐々さんだが、きっと彼女は表舞台に立たない人た
ちこそ人生の洞察者であることを知っているのだろう。紙
が作られ本が生まれる。宮城から東京へ運ばれてくる。そ
の事実。ライフライン。そのことに思いを馳せずにはいら
れなかった。

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by obinborn | 2014-07-22 12:15 | 文学 | Comments(0)  

蛇行する月

名もない市井の人々の暮らしに光を当て、日々を懸命に過ごす
登場人物たちを映し出す。桜木紫乃さんの小説はそんな魅力に
溢れている。主人公たちの年齢は様々であり、また一人の人物
が若かった頃から現在までの姿までを追う筆さばきも見せてい
る。多くの作品に共通するのは煩悶し逡巡を繰り返す彼らや彼
女らの姿だ。

桜木さんが実際に暮らす北海道に舞台を徹底しているのもいい。
夏は短く冬は気が遠くなるほど長い。恐らく閉じ込められてい
るという感覚はぼくが住んでいる東京よりずっと切実なはず。
そんな厳しい土地の匂いに加えて、地方の停滞した経済や朽ち
いくばかりの風景が重なる。道内の描写に優れた作家としては
他に佐々木譲さんがいる。彼もまた長い冬と触れ合う優れた書
き手であろう。

暮らしている場所が狭ければ狭いほど人間同士の関わりは密に
なり、それが時には煩わしくもなるだろう。それでも彼女の作
品を支えているのは無名であることの愛おしさだと思う。『蛇
行する月』や『起終点駅(ターミナル)』を読み終わって、ぼ
くは幾つかの勇気とともにそんなことを思った。

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by obinborn | 2014-01-28 22:13 | 文学 | Comments(0)  

『夕凪の街 桜の国』を読んで〜もう一つの被爆体験

直截な表現が必ずしも真実を伝えるとは限ら
ない。むしろ抽象化された文や絵のほうが遥
かに心に何かを宿らせる。私たちが音楽や映
画そして文学という”飢えた子の前では役に立
たない”ものを求めて止まないのは、スローガ
ンや法律やマニュアルでは到底補うことが出
来ない心の襞に触れたいがためであろう。

私がいつもメッセージ・ソングや反戦歌とい
うフォーク・ソングのフォーマットに窮屈さ
を感じてしまうのも恐らく前述したことと関
係する。極端なハナシ、反戦や平和を訴える
だけならばデモや集会に行ったり議員や官僚
に嘆願書を提出することのほうがずっと現実
的な選択である。音楽にはもっと音楽にしか
語れないものであって欲しい。

”はだしのゲン騒動”に揺れた今年の夏、私は
未読だった『夕凪の街 桜の国』(04年双葉
社)という漫画を読んだ。作者こうの史代は
広島市の生まれでありながら被爆者でも被爆
二世でもない昭和40年代生まれ。本人があと
がきで記しているように原爆は「よその家の
事情」だったという。だがそんな距離感を抱
えた彼女だからこそ間接的な表現を用いなが
ら被爆を遠近法で見つめることが出来たので
はないだろうか。

戦後の広島で皆実という若い女性が過ごす日
々を描いた「夕凪の街」では、被爆体験者な
らではのリアリティやトラウマが胸に迫るの
だが、それの連作となる「桜の国」では一転
場所も現代の東京近郊に設定され、そこに暮
らす係累・七波の物語となっている。過去と
現在、広島と東京、二人の女性。そんな対比
によって作品は静かながらそれ故に深い陰影
を湛えているのだと思う。そして父の後をそ
っと追いつつ広島までバス旅行する七波の姿
は私にソング・サイクルという言葉を思い起
こさせる。親のいない子がいないように、生
まれた町を持たない者はいない。そのことを
こうの氏は大言壮語的にではなく広島と東京
との循環のなか、抑制したタッチで描き出し
ていく。

政治的な見解や”犯人探し”は注意深く避けら
れている。算数の出来ない子供を前に学校の
先生が「すぐ原爆のせいとか決め付けるのは
おかしいよ」と諭す一コマにも、作者の思い
が滲み出るかのようだ。池澤夏樹氏の言を借
りれば、特定の誰かを糾弾することで何かが
解決するのであればとっくに放射能は止んで
いるだろう(『春を恨んだりはしない』)
歴史や事象といったものはいつも複合的だ。
そんなことをこうの史代さんは言いたかった
のかもしれない。

ドラマティックに盛り上げていくのではなく、
肉親や兄弟、級友や職場の同僚といった身近
な人々との会話を軸に淡々とストーリーを積
み重ね、普段の日常のなかで被爆を捉え直し
ていく。彼女のそんな心映えが爽やかに伝わ
ってくる優れた一冊だ。

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by obinborn | 2013-09-09 09:56 | 文学 | Comments(0)  

本当の戦争の話をしよう

「私は二十一歳の、ごく普通の青年で、ごく普通の夢とごく
普通の野心を持っていた。そして私の望んでいることといえ
ば、生まれついた通りの、ごくまっとうな人生を送ることだ
った。私は野球とハンバーガーとチェリー・コークが好きだ
った。そして今や私は永遠に祖国を捨てて逃亡するかどうか
の瀬戸際に立たされていた。それは私にはとても信じられな
いことだったし、悲しくおぞましいことだった」

(ティム・オブライエン「レイニー河で」より)

この短編はオブライエンの『本当の戦争の話をしよう』に
収録されている。作者のオブライエン自身がヴェトナム・ウ
ォーに従軍した経歴があるだけに、この小説はさながら彼の
自己申告のようなものかもしれない。

オブライエンは煩悶しつつも逃亡せずに従軍を選んだ。同じ
頃、カナダへと亡命を試みたのがジェシ・ウィンチェスター
という当時無名のシンガー・ソングライターだった。その二
人のどちらの選択がいいとか悪いとかではない。物事はいつ
も両面(Both Side )から見ていかなければならない。まし
て二人はまだ当時二十歳前半の若者だったのだから。

オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』を読むと、ぼく
はいつもジェシ・ウィンチェスターのことを思い起こす。
60年代のアメリカでは全国各地にこのような若者が沢山い
たのだ。そして今もなお。

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by obinborn | 2013-08-21 18:26 | 文学 | Comments(0)  

試合が終わってからの投手のように

村上春樹の新刊は素晴らしかった。これはあ
くまでぼくの感想に過ぎないが、初期のナイ
ーブさが戻ってきたという感じだ。戻るも戻
らないも一人の作家の根っこがそう簡単に揺
らぐわけではないし、本人にとっては書くテ
ーマによって描き分けているだけなのだろう
が、そのような選択や技巧以前にムラカミが
行間からどんどん溢れ出てくる。初期からず
っと抱えたままの思いがこちらにきちんと伝
わってくる。そのことが嬉しい。

振り返ればいつの間にか村上春樹は大きな社
会現象になっていた。その現象をここで語る
ことはするまい。それが一人の作家に背負い
切れるものだったのかも解らない。ぼくが読
み手として出来ることと言えば、せめてその
現象に”乗らない”という選択だった。この『
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
が刊行されてから、ぼくはなるべく意識的に
情報を遮断した。新聞を広げれば広告くらい
は目に入ってきたけれど、書評もあえて読ま
なかった。まして発売日に書店に並ぶといっ
た行為も取らなかった。賢明な読者であれば
それが文字を巡る個的な体験であるはずの読
書にはまるで似合わないことが判るはず。さ
っきたまたま見てしまったのだけど、Amaz
onでのレヴューの多くは心ないものばかりだ
った。それは極めて恣意的に判りやすい標的
を定め、返り血を浴びない程度の環境から、
意味のない矢を放っているに過ぎない。

書評のほうに書いてしまったので多くのこと
は語るまい。ただ作家として村上を特徴付け
ているのは、熱狂の渦中にあるものや人を主
題にするのではなく、そうした熱狂が通り過
ぎてからの季節や人々を描こうとしている点
だと思う。それはまるで試合が終わってから
マウンドの土をもう一度確かめに行く投手の
ように謙虚であり、照明がすっかり落とされ
た球場の隅っこでそっと溜め息を付く初老の
男のように孤独だ。それでも懐かしい土地の
匂いがする。かつてそこにあったはずの交歓
の場面を思い起こさせる。ぼくはその土地の
ことをずっと覚えていよう。

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by obinborn | 2013-06-21 01:08 | 文学 | Comments(0)  

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 人の営みがどこか空しいのは更新されてい
く毎日の一方で、すり減り失われ続けるもの
があるからだろう。村上春樹の作品は初期か
ら現在まで、およそそうした痛みや喪失を主
題にしてきたと思う。彼独特の修辞や言い回
しに好き嫌いはあっても、まずはそのことを
認めなければならない。多くの主人公たちは
なり振り構わぬ自己主張の造形ではなく、折
り目正しく控えめでむしろ諦観を漂わせてき
た。何かに熱狂したり夢中になったりする姿
を描くのではなかった。それらが終わってし
まってからの空白に村上はいつも寄り添うの
だった。

 本書での多崎つくるもそのような主人公で
あり、「色彩を持たない」というのが謙遜で
あったとしても、ぼくと同じようにその暮ら
しぶりは凡庸であり、そんな彼にとって東京
というのは匿名でいられるには適した場所に
違いない。能動的に生を選び取っているとい
うよりは、これといった個性を発露すること
なく人々や環境に「生かされている」。こう
した感覚が絶えず多崎の日々を苛んでいく。
規則正しく寝食をし、会社で一定の評価を得
て、プールに通うことで身体を鍛えたとして
も、そのような暗い影のようなものは離れな
い。それどころか”森のなかにいる悪い小人”
が囁くように日々増殖していく。

 そんな彼にも光輝いていた季節があった。
しかし誰にとっても青年期は長く続かない。
そうした若葉の頃はまるで急行列車のように
過ぎ去ってしまう。比喩としても言いたいと
ころだが、時間の速度というのは各駅停車し
か止まらない駅に一人佇み、そこで逡巡を重
ねるような人間を相手にせず、どんどん置き
去りにするだけだ。そのほうが遥かに合理的
でありシステマティックであるから。シュレ
ッターを掛けるように過去を裁断出来ればど
んなに楽なことだろう(むろんそれに逆らう
のが文学なり音楽なりの役割のひとつだ)。

 かつての仲間たちからある日突然絶縁され
た多崎がトラウマを抱え、死の淵を彷徨い、
自己回復せんとするまでのストーリー。その
間にはあえて途中で放り出されてしまった灰
田や彼の父親のような人物も登場する。それ
は完成しないパズルのようなものだが、その
一方でかつて心を寄せ合ったエリとの北欧の
土地での邂逅があり、まともであろうとする
多崎には年上のガールフレンドもいる。有能
なセールスマンやいかがわしい企業コンサル
ト会社の経営者となっているかつての仲間と
の埋め難い距離もあれば、1969年という政
治の季節や、まだ記憶も生々しいオウム真理
教の事件がメタファーとなって立ち上ったり
もする。

 あの懐かしいエヴァリー・ブラザーズの歌
にこういうのがあった。「佳き日々がだんだ
ん消えていくのを眺めているのはとても悲し
いことだね」(「So Sad」)『色彩を持た
ない多崎つくると、彼の巡礼の年』(Color
less Tsukuru Tazaki and His Years of Pi
lgrimage)はどこかの誰かの特殊なストーリ
ーではない。私たちののっぴきならない時代
に生息する隣人たちの物語である。

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by obinborn | 2013-06-20 19:31 | 文学 | Comments(0)  

企業小説から立ち上がってくるもの

ブックオフがGWの20%セールを行っているので、さっき
文庫本をまとめて購入しました。ぼくはときに音楽を消し
てまで本を読むのが好きなのだけれど、最近ハマっている
のが企業小説。それも池井戸潤や江上剛といった元銀行員
〜バリバリのエリートが書いた銀行モノが最高にリアルで
あるし、何よりも痛烈な告発や熱い問い掛けがあり、目が
離せない。

若者のように清廉潔白なままでは企業戦士は務まらない。
むしろ腹に一物を抱えつつも組織に同調しながら日々をや
りくりする。それがおよそ一般的な会社員の群像ではない
だろうか。ぼく自身24年間もサラリーマンをやってきたか
ら、そこらで言い含める気持ちはよく解る。それでも心の
一番奥底にある大事なものは失いたくない。彼らの文章か
らはそんな思いがきちんと沸き上がってくる。だから好き。

「不良債権を出した者は罰するというのなら、真っ先に罰
せられるべきは、(末端の担当者ではなくトップに居座り
続ける会長の)久遠その人である」

(池井戸潤『最終退行』より)

本日購入したのは以下の6冊です。

池井戸潤『株価暴落』(文春文庫 07年)
池井戸潤『オレたち花のバブル組』(文春 10年)
池井戸潤『MIST』(双葉社 05年)
江上剛『再起』(講談社文庫 10年)
江上剛『亡国前夜』(徳間文庫 12年)
佐々木譲『屈折率』(講談社文庫 03年)

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by obinborn | 2013-05-05 12:31 | 文学 | Comments(0)  

江上剛『非情銀行』

江上剛の『非情銀行』(04年 新潮文庫)を読了。今年13冊
め。

露骨なリストラをする経営陣に反抗すべく会社トップの総会
屋との癒着やフィクサーとなるヤクザへの不正融資を暴いて
いく若手銀行員たちの活躍が痛快であり、溜飲を下げる企業
戦士の方々も少なくないだろう。

解説によって思い出したのだが、バブルの只中〜衰退期であ
る80年代後半から90年代前半にかけては銀行の頭取や支店長
が相次いで射殺されるという衝撃的な事件があった。それは
言うまでもなくバブルに目が眩んでの先行投資や過剰な貸し                   出し故に起きた負のストーリーだった。

そんな銀行がバブル崩壊後には一転して貸し渋りと強引なま
での回収に走るのだから、銀行が”人でなし”と陰口を叩かれ
るのも仕方あるまい。中小〜零細企業の社長らが金策に困り
自殺する事件も幾度かあるが、それも元を正せば銀行の自己
保身に遠因があることは誰も否定出来ないはず。

普段ATMを通して入出金や通帳記入をするくらいしか銀行と
の接点がない私には内部告発という意味でも勉強になったが、
それ以上になりふりかまわぬ上昇志向や人間関係の魑魅魍魎
には愕然としてしまった。アンタそんなに偉くなりたいの?
その先に何があるの? である。

最近一般紙でも大きく報じられるようになった人材能力開発
室とは名ばかりの”退職勧告”部屋のことも、今からおよそ10
年前に出された本書で触れられている。そこで精神的に追い
詰められ自殺してしまう脇役の存在にも心が痛んだ。会社や
組織というものは、かくも人間性を歪めてしまうのか?

ちなみに作者の江上剛氏は元銀行員。第一勧業(現みずほ)
銀行在職中に匿名で書いたこの『非情銀行』でデビューした。
本書はそんな江上氏の叫びが聞こえてくるような一冊である                   と同時に、拝金主義に翻弄された私たちの負の物語でもある。

私自身も微かな痛みとともに会社員時代をふと思い起こした。

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by obinborn | 2013-04-17 18:02 | 文学 | Comments(0)  

その日のまえに

50代も半ば近くになってくると、やはりたまに死のことを
考える。これまで過ごしてきた歳月よりも残された時間の
ほうが少ないことに愕然としたり、残念なことに披露宴よ
りも葬儀の回数のほうが多くなってくる。少なくとも若い
頃のように未来が無邪気に微笑んでいるわけではない。

そんな思いとともに重松清の『その日のまえに』(文春文
庫 08年)を読んだ。この連作短編集の主人公はそれぞれ
の身近に故人や死にいく人を抱え込んでいて、その影に苛
まれながらも日々をやりくりし、奮闘している。

ご存知のように重松清は”泣かせの名人”である。もう少し
抑制したり抽象化すれば文学的な評価が高まるだろうにと
思うところも、あえて具体的に書き上げることで泣きの落
としどころを突きまくる。会話中心の文章や平易な文体が
それを後押しする。好みはどうであれ、それが重松という
小説家(ときにルポライターも)の作法であり、そもそも
大衆文学の生命線とはそのようなものだろう。

とりわけ妻の闘病を見守る表題作と、力尽きた日の様子を
淡々と描く「その日」、愛する隣人が去ってからの日々に
触れた「その日のあとで」の連なりが素晴らしい。他の短
編にしても、子供の頃には漠然としていた死がやがて身近
になっていく過程を伏線として忍ばせている。ここら辺の
筆さばきというかストーリー・テイルは本当に上手いなあ
としみじみ。

ぼくもいつか彼岸へと渡る日が来るのだろう。その時とも
に悲しんでくれる人はいるだろうか。一緒に涙したり、幸
せな歌の数々を口ずさんでくれる人たちはいるだろうか。

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by obinborn | 2013-04-07 11:52 | 文学 | Comments(4)  

誰かのせいにはしない

あの日から何が変わっただろうか。
町並が崩れ、船が大地に乗り上げられ、人々が歪んだ。

あの日から何が変わらないだろうか。
それでも季節は巡り、風は木々にそよぎ、陽射しが注ぐ。

解りやすい標的を見つけて矢を射ってはいないだろうか。
旗を振りかざし犯人探しのゲームに興じていないだろうか。
誰かをいつの間にか追いつめてはいないだろうか。

放った矢はいつか必ず自分へと返ってくる。
興じたゲームにはいつも空しさが伴う。
そんな遊戯に加わるつもりは一切ない。

あの日から2度目の3月がもうすぐ終わろうとしている。
ぼくは今日公園のベンチに腰掛けて、一冊の本をめくった。
そこにはこんなことが書かれていた。

「震災の後、ジャーナリズムは国民の感情的な反応に対象
を与えようとやっきになっているように見えた。”あいつの
せいだ!”と指さすこと。被害について、人災の部分を合理
的に解析してゆくのは将来のために必要なことだが、しかし
それと、目前に責任者を想定してただ叩くのは違うことでは
ないか。東電の経営者を個人として糾弾して放射能洩れが止
まるのであればそうすればいい。しかしそれは”合理的”な方
法ではあるまい。(中略)断罪の前には精緻な事態の解析が
なければならない」

(池澤夏樹『春を恨んだりはしない〜震災をめぐって考えた
こと』中央公論新社より)

コンクリートの裂け目にも薔薇の花は咲く。
あの名曲「スパニッシュ・ハーレム」にはそんな一節がある。
日々はこうして今日も更新されていく。

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by obinborn | 2013-03-26 13:56 | 文学 | Comments(2)